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特別寄稿
アメリカとわたし Vol.1『「敵国」から「憧れのアメリカ」へ』

特別寄稿
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アメリカとわたし「敵国」から「憧れのアメリカ」へ

寺澤芳男氏の写真
東京スター銀行
取締役 寺澤芳男

《「敵」だったアメリカ》

ぼくにとっての「アメリカ」を考えてみると、やはり戦争の話から始めなければならない。

太平洋戦争中、1931年生まれのぼくは、旧制中学の生徒だったが、学校には足にゲートルを巻いて登校した。軍からの配属将校が来て、軍事教練の時間にドッヂボールを爆弾に見立て、アメリカの戦車の下に滑り込み自爆する練習をくり返した。野球のスライディングの要領で、毎日滑り込むのである。

自分より5、6年上の先輩は、多くが戦死していたし、自分も当時の14歳という歳でこのまま死ぬのだなぁ、と漠然と考えていた。怖いもので、お国のために死ぬのが当たり前という教育をされていたから、特に疑問は感じず、死ぬのは哀しい、と静かに思うだけだった。自分の髪と爪を封筒に入れ、両親宛の遺書まで書いて、教師に提出するということを、教室中の生徒が皆行なっていた。

そう、アメリカは、敵だったのだ。これがアメリカに対するぼくらの世代の根底にある価値観である。

《アメリカへの憧れ》

1945年8月15日。玉音放送を学校で聞いた。聞き終わると校長が「日本の戦争は終わったんだ」と言った。「終戦」と言って、「敗戦」とは言わなかったように思う。

もう戦わなくていい、もう死ななくていい、とほっとした。しかし、その直後から、日本の大人に対する不信感が始まったのだった。戦争中は、アメリカの戦車の下に滑り込むことを教えこまれたのが、急に態度を一変し、今度はアメリカの占領軍を歓迎したのだから。「勝算はなかったけれど戦争を止められなかった」「戦中信じていたものは、間違いだった」というような、理性ある大人の反省を、求めていた。しかしそれはついに一度も聞くことができなかった。

そんな日本の大人たちへの失望から、人生の答えを外国に求めるようになった。毛布や粉ミルクをふんだんに送ってくれるアメリカに対して、「リッチでいい国だ」と思うようになり、また、たまたまオハイオ州に遠い親戚が住んでいたことも手伝って、「大きくなったらアメリカにいくんだ」といつしか心に決めた。高校にいながら、アメリカに留学したい、スポンサーになってくれ、とお願いの手紙を親戚やあちこちに書いたりしていた。

早稲田大学附属高等学院在学中から、英語の勉強を一生懸命し、進学した先の早稲田大学でもESSに入った。加えて、駐留軍のGIには階級が低くても学歴の高い人が多かったので、仲良くなって、英語に触れる機会を作ってもらった。

《野村證券からアメリカ留学へ》

1954年に野村證券株式会社入社。同期の江頭啓輔くん(現三菱ふそうトラック・バス株式会社取締役会長)は、大学卒業直前にフルブライト留学生としてプリンストン大学に留学することがすでに決まっていた。今では考えにくいことだが、入社直後の6月に彼は渡米した。

翌年、留学を終え帰国した彼に再会したとき、ぼくの生活はかなりすさんでいた。勉強に精を出すどころか、「留学するぞ」という数年前の意気込みを失い、麻雀と酒にどっぷりと漬かった日々を送っていた。

そんなぼくに、江頭くんはフルブライトの事務局まで行って応募用紙をすべてもってきて、「応募しろ」と励ましてくれた。こうして応募したフルブライトに合格してしまい、念願のアメリカ行きが決まったのである。

忘れもしない1956年8月30日、日本郵船の氷川丸に乗り、ついに憧れのアメリカに向けて出航した。船で2週間かけてシアトルに行き、そこからシカゴ経由で3泊して汽車で東海岸のフィラデルフィアまで渡った。

こうして、この年の9月からぼくのアメリカ暮らしが始まった。優秀な学生とは言いがたく、英語を使っての日々の勉強に四苦八苦し、また、言語の問題以前に、自分の意見をいつでもはっきり述べ合う教室の雰囲気に圧倒され、思うように意見を伝えられず歯がゆい思いを何度もしたが、何とか無事に過ごすことができた。

《愛国心について》

留学中にフィラデルフィアからワシントンDCに行く機会があった。ワシントンは、ワシントンモニュメントというオベリスクを中心に、議員会館とリンカーンセンターが広大な芝生と池をはさみ、町全体が公園といった印象の、なんとも美しい都市である。その芝生に寝転んで、真青な空を見上げながら、ふと「こんなに美しい国が、もしぼくの祖国だったら、ぼくは必要とあらば銃を取り、命をかけて、家族を、国を、美しい町を、守ることを誓うだろう」と、思った。

それまでは、国を愛することについて、もっと言ってしまえば日本を愛することについてなど、考えたこともなかったぼくが、である。アメリカに来る前、ぼくは日本の閉塞感、個より全体を重んじる風習、前例主義・・・といったものに、うんざりしていた。

そんな日本と引き換え、アメリカは輝いて見えた。当時のアメリカは、日本人に対して、かわいい妹や弟が来たかのように、何でも見せてくれ、何でも教えてくれ、非常に親切だった。人々はおおらかで、国の雰囲気も自由、平等、人権を追求する姿勢があり、ドリーム・ランドに来たかのような心境だった。

例えば、こんな話がある。冬のワシントンD.C.で飛行機がポトマック川に墜落し、80人くらいがなくなった事故があった。たまたま橋の上を車でとおりかかっていた男性が、夢中で車を飛び出して流氷の浮かぶ真冬の川に飛び込んで、一人の女性を救った。この男性は、この行動がもとでその後下半身不随になり、一生病院通いを続けることを余儀なくされたのだが、あの時、なぜとっさに川に飛び込んだかという質問に、「それがわたしのprincipleだから」と答えたという。

自分の考えをしっかりともち、それを頑固なまでに貫き通す強さと誠実さ。このアメリカのよさが顕著に表れた事例ではないだろうか。

《これからの日本へのメッセージ》

これからは、「ドメスティック」と「インターナショナル」という二つの領域が併存するのではなく、両者が溶け合ってひとつの世界を成している世の中にますますなってゆくだろう。そのなかで、たとえば教育などの身近な社会の問題から、環境問題、核と平和の問題といったより大きな問題まで、日本が主体的にどの国の人に対しても発言できるようになってほしい。

また、このように世界の人々と問題を話し合うためには、英語の能力が不可欠である。これからの日本を、世界を担っていく人々が、英語で情報を仕入れる努力を怠ってはいないだろうか。常に完璧に理解できなくとも構わない。まずは英字新聞から世界の生の情報を仕入れる人が少しでも増えることを願う。

今、日本が経済的に豊かになったことによって、ぼくらが留学した時代から1970年代ころまであった、日本人がアメリカに行ったときに、アメリカの物質的豊さにたいして感じた純粋な驚きは、もはやなくなっている。日本がそれだけ経済的に豊かになったというのは喜ばしいことだが、その結果、もうアメリカに学ぶことはない、日本の方が安全で、識字率も高く、場合によってはリッチないい国なのだ、というarrogantな感情がときに垣間見られることは、非常に危険だと思う。

アメリカは、確かに一部の地域での犯罪発生率や、拡大する貧富の格差、教育の自由化がもたらした教育格差など、抱えている問題は多数あることは事実である。しかし、それでも時代を超えて守られている価値があることを銘記しておきたい。それは、自らの問題点に気づき、その修正・改革に本気で取り組むこと。そして改革を明確な理念を意志をもって達成すること。多様な意見をもつ人々が皆発言し、個が主張しあうという厳しいけれども自由闊達な言論があること。これらのような目に見えない価値に気づかないままに、傲慢になることはなんとしても避けたい。日本をよりよい国にしてゆくためのヒントがアメリカにはまだまだあるはずである。それを発見すべく、アメリカは十二分に研究対象となるのである。

最後に、福沢諭吉の唱えた「独立自尊」ということをキーワードとして挙げておきたい。全体よりも個を大切に。もっと百家争鳴の状況で、新しいアイディアや価値観がどんどん生まれる社会になってほしい。閉塞感がある状況を打開してくれるのは外圧(External pressure)しかないと思いがちだが、国内で多くの議論をして、その上で合意(Internal consensus)を作っていくことを目指してほしいと思う。その意味で、帰国子女、日本在住外国人、留学経験のある人たちなど、異なる価値観に身をもって触れてきた人たちが、日本を内側から変えていくための大きな力になることを大いに期待している。
2005年8月
(了)
寺澤芳男(てらさわよしお):
1931年 栃木県生まれ
1954年 早稲田大学政治経済学部卒業、野村證券東京本社に入社
1956年 フルブライト奨学生としてペンシルバニア大学大学院ウォートンスクールに学ぶ
1972年 米国野村證券社長
1973年 ニューヨーク市名誉市民となる
1988年 日本の民間人として初めて国際機関、MIGA(世界銀行グループの多数国間投資保証機関)の初代長官に就任
1992年 帰国、 日本新党より参議院議員選挙に立候補、当選
1994年 羽田内閣において国務大臣・経済企画庁長官に就任
1999年 ローン・スター・ジャパン会長
2001年 (株)東京スター銀行 会長に就任
主な著作:
『ウォール・ストリート日記』(主婦の友社)、『ウォール・ストリートの風』(ネスコ)、『ウォール・ストリート物語 上・下』(角川書店)、『ワシントンの窓から』(読売新聞社)、『人生の転機はいつも刺激的』(講談社)、『Thank You といえる日本人』(読売新聞社)、『英語オンチが国を亡ぼす』(東洋経済新報社・新潮社OH!文庫)、『日本人英語でも恥ずかしくない』(東洋経済新報社)など。
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