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特別寄稿
アメリカとわたし Vol.4 『Greatを目指すということ ─自動車をつうじて、Peopleとともに─』その1

特別寄稿
特別寄稿一覧
アメリカとわたし vol.4 Greatをめざすということ?自動車をつうじて、Peopleとともに?

その1、その2その3

船橋 洋一氏

ジャパンファウンデーション
参与
田口 俊明

《すばらしい車をつくる、戦勝国アメリカ》

1941年に生まれ、第二次世界大戦中は幼少期だった私には、太平洋戦争について個人的体験は特にない。1945年の終戦時には4歳で、横浜の家は空襲で焼けてしまったというような話を両親から聞いて覚えてはいるが、自分の記憶としてもっているわけではない。
父が米国系の保険会社で働いていたこと、母が在日米軍で働いていたことなどから、間接的にアメリカについて聞いてはいたが、具体的なイメージをもっていたわけではなかった。子ども心に、アメリカは「日本に戦争で勝った国」だと思っていた。

幼いころから、なぜか自動車に惹かれていた。走っている車を見ると胸が高鳴った。中・高生の頃、つたない英語で、「Please send catalog」などとハガキに書いて、アメリカやヨーロッパの自動車メーカーに送ると、たいていがカタログを送ってくれた。

当時自動車は高嶺の花で、自分で買うなどということは考えもしなかった。きれいなカタログを眺めてアメリカの車が一番だと思っていた。日本の車は小さかったし、アメリカの車は、日本車とは比較にならないようなまぶしいばかりの高級感を放っていた。

《アジアのモータリゼーションの仕事がしたい・・・トヨタに入社》

国際基督教大学時代には、外国人(ノン・ジャパと呼んでいた)の教授や同級生がいて、ここではじめてアメリカ人とも付き合うことになったわけだが、英語で行なわれる授業についてゆくのにはかなり苦労した。将来、アジアのモータリゼーションにかかわる仕事がしたい、と何となく考えはじめ、中国語を1年間かじってみたりもした。

当時は、日比谷公園や後楽園で自動車ショーを開催していたが、ほとんどが日本の車ばかりである。私は、トヨタとホンダの車が好きだった。どちらかの会社で働きたい、と思うようになり、先輩からさそわれたトヨタの方がたまたま入社試験が早く、社会人生活のほとんどを過ごすことになった。当時はかなりの売り手市場で就職はかなり楽だった。

《第1期輸出研修生として、渡米》

1964年、私はトヨタ自動車販売に入社した。国内の販売が圧倒的な時代で、我々が入社の年に研修生制度ができた。輸出にかかわる人材を育成するということで、私はこの制度の第1期生3人のうちの1人として、名古屋で2年間そしてアメリカで1年間、研修する機会を与えられた。
国内研修中、名古屋トヨペットでセールス実習をさせてもらった。カタログをかばんに詰め、1軒1軒住宅を回り、飛び込み営業もしたが、新車・中古車を合わせて9台を売り上げたことは今も強く記憶している。販売店での研修は、その後トヨタの新入社員教育に組み込まれ現在に至っている。

国内研修の仕上げとして東京の欧米部北米課で実務を半年くらい学び、1966年9月にいよいよ渡米した。もちろんはじめての海外渡航である。研修生ということでトヨタ車を運ぶ貨物船に横須賀から乗り込み、毎日船倉内の温湿度調査をしながら、12日間かけてロサンゼルスまで渡った。ハリウッドにあった米国トヨタ本社でオリエンテーションを受けた後、飛行機で東部の研修地へ向かった。

米国トヨタ東部事務所はニュージャージー州にあった。ニューアーク港から少し離れた住宅街の一角にある倉庫ビルの2階で部品倉庫と事務所が一緒だった。メイン州からフロリダ州まで東部17州の輸入・販売・サービスを担当していた。社員は日米合わせて30名位だった。研修生と言う立場から与えられた仕事をとにかく何でもやった。

若かったからか、カルチャーショックのようなものはなかったが、アメリカのインフラ・物量の豊かさには正直驚いた。ロサンゼルスで初めて走った広大なフリーウェイは名神高速道路ができはじめたばかりの日本から比べると圧巻だったし、マンハッタンのエンパイヤステートビルをはじめとする高層ビル群にも圧倒された。

ニュージャージーとマンハッタンを結ぶ通勤路となるリンカーントンネルでは、料金所を通過したあとに、7車線から2車線に車線が減るところで、皆が譲り合ってスムーズに流れていた。当時の日本では見られない運転文化だった。
どのように譲り合えば一番時間的ロスが少なくて効率的かについて暗黙の了解があったのだ。祖父母の世代から自動車を運転しているアメリカの車社会は成熟してマナーも良くなるのか、と感心した。


その1、その2その3

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