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交流雑感

大海渡 憲夫氏

国際交流基金
日米センター参与
大海渡 憲夫
(おおかいど のりお)

今年の夏は、先の大戦と日米そしてアジアとの関係に就き考えさせられることが多くあった。7月初め国際交流基金(ジャパンファウンデーション)に着任後、早々に米国に出張する機会を得た。米国の都市はこれまで35年間にわたる商社勤務を通じ馴れ親しんできたところが多いが、今回は訪問先も目的も異なり、新しい出会いがあった。

日系アメリカ人シンポジウムでのこと

ロサンゼルスでは、日系アメリカ人シンポジウム「日米関係の新しい展望:ポップ・カルチャー、メディア及びスポーツ分野で」に出席し、久し振りに日系米人の友人達と再会した。1969年私が交換留学生として初めてカリフォルニアの地を踏んで以来の友や、その後1974年に東部の大学院に再留学した際にキャンパスで苦楽を共にした人々もいた。
盛会裡に終わったシンポジウムの後で催された在ロサンゼルス総領事ご主催の晩餐会で、心温まる一時があった。出席されていた河野洋平・衆議院議長との親交に応え、ダニエル・イノウエ上院議員がピアノの即興を披露されたのである。イノウエ氏は大戦中、米国への忠誠を誓い442部隊に配属され、激戦下で右腕を失ったがリハビリの一環で薦められるままにピアノを習熟したという。左手のみで奏でた「ダニーボーイ」と「真白き富士の嶺」。風雪を経た美しい響きだった。

全米日系人博物館にて、戦中に思いを馳せる

ロスに滞在中、市内の施設を視察した。日米文化センターはイサム・ノグチの石の広場、日本庭園、880席の劇場等を擁する立派な施設だが、会員の世代交代や運営上の課題を抱え、自力再生の道の険しさに直面しているとのことだった。かつて栄えていたリトル・トウキョウも閑散としており再建が問われているという。日系企業の勢いはトランス地区に移ってしまったらしい。その一方で、次に訪れた全米日系人博物館は異彩を放っていた。館内に大戦中の日系人強制収容キャンプを復元し不幸な歴史を再現している。案内役の84歳の男性は収容された当時は20歳だったという。思い出を綴った解説の合間にそれとなく聞いてみた。キャンプでの衣食住はどうだったか、心休まることはあったかと。曰く、日本による真珠湾攻撃をきっかけに開戦後間もなく敵国人扱いを受け、一夜のうちに移住させられ財産も没収された。監視下でプライバシーのない集団生活だったが、軍の輸送車で運び込まれる食料や物品は充足していたし、1箇所平均1万人前後を収容していたキャンプは窮屈だったが、若き男女にとっては思いもかけぬ出会いの場でもあったという。それを聞いてなぜかホッとし、無意識のうちに戦時中の日本の悲惨な生活環境を思い描き較べていた。

資料の宝庫、「プランゲ文庫」

ワシントンD.C.に移り、メリーランド大学プランゲ文庫を訪問した。同大学の歴史学者でありGHQの民間検閲局長であったゴードン・プランゲ博士(1910-1980)が、日本占領下の1945-1949年の間に発行された全ての出版物(新聞、図書、雑誌、パンフレット、ポスター)、文書、通信を検閲後も一括保管していたが、後に母校メリーランド大学マッケルディン図書館に寄贈した。博士の功労を称えて「プランゲ文庫」と命名され今日に至っている。検閲リストの中に、私の大学時代の恩師である故千種義人教授が1949年に著した「計画経済論」があり驚いた。当時は社会主義的と問題視されたのだろうか。財閥解体後の三菱、 三井等の顛末記もあった。当時使われた粗悪な酸性紙の劣化が甚だしく、大学側の文庫保存の苦労は絶えないらしい。図書館長自らが、これまで受けてきたジャパンファウンデーション、日米センターからの助成に対して謝辞を述べていた。現在、日本の国会図書館と共同で、子供の絵本(カラー刷りだが腐食が進んでいる)のマイクロフィルム化を推進中で成果物は両図書館で共に所有するという。作業に携わる日米双方の専門家、それに混じって両国のボランティアの青年男女が黙々と働く姿が印象的だった。

*    *    *

私は微力ながらジャパンファウンデーションや日米センターの活動の一助となり、文化、教育交流の増進に貢献して行きたいと念じており、できる限りこれまでの経験を活かすべく色々と考えを巡らせている。例えば、在米日系企業のCSR (社会貢献) や草の根運動と連携し相乗効果を生み出す可能性や、米国人の日本やその文化への理解を更に深めて行くためには東海岸、西海岸中心の活動に加えて中西部、南部への浸透を図ること等が思い浮かぶ。こうした課題に取り組む上で、留学期の全米行脚や商社での市場開拓、事業展開の経験が役に立つかも知れないと愚考している。

全米を車で走破して見た、米国の深さ

振り返ると、留学時代に米国を知りたい一心で、アラスカとハワイを除く48州を全て自力で運転して回ったことがあった。ボロ車を駆使し、寝袋持参で時には各地の国立公園や国有林で休んだり、湖で沐浴をしたりもした (当時はパスポートを提示すると無料で優遇された)。必ず立ち寄ることにした各州都は、町並みにどことなく類似性があったが、それぞれ立派だった。旅を続けるにつれ、大陸国家の広大さ、奥の深さ、自然の豊かさ、それに荒天と化した時の雷雨や竜巻の恐ろしさを目の当たりにした。都会人のスマートさとは異質な、内陸部の人々のホスピタリティにも触れた。
旅行中、バーモント州に立ち寄り林間学校での奉仕活動に加わった。ニューヨーク市第六学区(ハーレム周辺)からやってきた小中学生を相手に日本の文化やスポーツを教える仕事だったが、子供たちの旺盛な好奇心に励まされ、喧嘩の仲裁に追われる毎日だった。カンザス州で逗留した宿の主人に頼まれカウンティ・フェアの会場で、キャンバス地に絵筆で即席の書道を、多少嗜んでいたとはいえ空手や柔道のデモをせがまれた時は気恥ずかしかった。南ルートではメキシコにも迂回し、北ルートではカナダにも出入りした。思えばこのころ既にNAFTA(北米自由貿易協定)のベースとなるボーダレスな人々の往来、交易は日常となっており、一体化へ向けて歩み始めていたのかも知れない。

商社時代に経験した「大陸式」物流

その後の商社活動では更に米国の深部へと足を運んだ。裾野の広い自動車関連業界との取引で、また鉄鋼加工流通センターの多店舗展開で、中西部から南部諸州を隈なく回った。工場立地で州政府の誘致を受け、州都に赴く度に(この道はいつか来た道と)ノスタルジアを感じることもあった。過疎対策に腐心する州政府は土地や施設の無償供与に加え、現地雇用者に対する訓練、指導料まで肩代わりする熱の入れ様で私たちを驚かせた。日本のJust-in-time の概念を導入した時の苦労を思い出す。日本では顧客の在庫を極力減らし分刻みで納入管理するが、広大な大陸での物流はどうしても時間厳守とまでは行かない。在庫量や納入期限に幅を持たせ予め許容範囲を定めておく必要がある(さもないとクレーム処理に追い回される)。 Just-out-of time と改名し、何とか定着させて行った。こうした対話と現場重視の考え方は、土地勘や語学に助けられた北米関連の仕事に限らず、他の国々や企業とお付き合いをする上でも役に立ってきたと思う。文化や教育の交流にも一脈通ずるものがあるのではないだろうか。

利便性高まるアジアとの往来

米国との関係が公私にわたり最も長いが、日本をベースにアジアの周辺諸国とのお付き合いも多岐に亘ってきた。飛行機では、米国内横断と日本-東南アジア間は共に5-6時間圏内にあるが、時差が少ない分だけアジアを旅する方が気軽で弾みが良い。例えば夜行便でバンコクを発ち、翌朝成田から会社へ直行するという簡便さもある。また、バンコク辺りをハブとすると近隣諸国への出入りは実に便利であり、陸路でもオリエント・エクスプレスに加え、アジア・ハイウェイ(国連の支援もあり整備されつつある)を辿ればヨ−ロッパにまで行き着く。東アジアの一隅の日本からの視点とは違い、大陸内部に身を置くと、地続きに連なる国々の、人々による自由な往来や交易が進めばアジアもやがて一体化し得るのではないかと思えてくる。
一方、行く先々で人々の生活や文化に接し親近感が増す中で、避けて通れないのが戦時下の日本軍の軌跡に遭遇した時の複雑な感慨である。過去の行為に対する反省とは裏腹に、日本がその後の努力で地域住民に受け入れられ、感謝されている証はないのかと探し求める気持ちが混在する。そうした意識は、隣国の中国や韓国に対してはより強くなる。電話やメールで用が足りなければ、即日行き来することも可能な距離にいるがため、自然と隣人感覚は培われる。付き合いが深まり互いの距離が狭まるに連れ、将来を語り合うために、過去もまた忘れ去ることなく理解し合い整理しておきたいと思う。

交流は、水の流れのように
国家間の争いは、一時とはいえ国際交流の見地からは断絶を意味する。元の流れに戻すのは至難であり、双方の意思と忍耐、そして努力の積み重ねがあって初めて可能となる。日米関係然り、日中そして日韓関係もまた然りと思う。自然界の水の流れは、雨季や乾季で姿を変えても、必ずどこかに注いで行くという。折に触れ散策する八ヶ岳周辺は、水源が豊富にあり湧き水で知られる。古来水にまつわる話も多く残っており、土地の人々は「水の道」と言って自然の流れを大切にしている。人が手を加え、せき止め、干上がらせても、大雨が降れば水の道は戻ってしまうと言い伝えられている。大切に思う国同士の相互理解や文化交流も、人間の歴史の必然の流れの中にあると考えたい。できれば互いに流れに棹を差さずとも、共に流れ出でて大河をなし、やがて大海に注ぎ込んで世界中を潤すような交流が具現して欲しいものと思う。

2006年9月
大海渡 憲夫 (おおかいど のりお)
国際交流基金(ジャパンファウンデーション)日米センター参与
(1971年三菱商事株式会社入社。マルチメディア事業部長等を経て、2000年新機能事業グループCEO補佐。現在、三菱商事ICT事業本部プロジェクト開発担当補佐兼ANXeBusiness Corp.(米国) 取締役。)
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