JFサポーターズクラブ 9月のイベント報告

 

9月6日(水)、国際交流基金の創設以来、幅広い活動に携わってきた小松諄悦氏に 「ジャパンファウンデーションの34年」を語っていただきました。

 

小松諄悦氏の写真

ジャパンファウンデーションの前身である国際文化振興会(KBS)時代から36年、その職業人生において一貫して文化交流に携わってきた小松氏の講演は、参加者にとっても、過ぎ去った日本の36年を振り返るよい機会となりました。年長の出席者には、懐かしい出来事に自分の若かりし頃を思い出す、若い聴衆にとっては今まで史実としてしか知らなかったことを体験者から聞くという、興味深いイベントとなりました。小松氏と仕事で関わりのあった方々を含め、110名余りのご参加をいただきました。

36年を1時間で語るには余りに短く、思い入れの深かったそれぞれの事業を語り始めると、時間がいくらあっても足りないといった講演でしたが、当日の雰囲気を知っていただくため、その中のエピソードをいくつか、ご紹介させていただきます。

 

小松氏の講演会の写真1

■ 文化交流36年(1970-2006) ■

1971年、国際交流基金の前身である国際文化振興会(KBS)に入社。KBSは1933年の国際連盟脱退直後、日本が国際社会で孤立することを恐れて設立されたものである。KBSは戦後まもなく業務を再開したが、小松部長入社時には細々とした活動をしているにすぎなかった。

当時東南アジアでは反日運動が巻き起こり、ニクソン・ショックが日本を覆っていた。日本がエコノミックアニマルという批判を受けていた頃である。東南アジアとの関係改善、日米関係の強化が緊急の課題となり、それが国際交流基金設立の直接的な原因となった。

1972年、虎ノ門の晩翠軒で国際交流基金の業務を開始。入居予定のビル落成が間に合わず、かつての中華料理屋の円卓で仕事を行った。 2ヵ月後、新築なった大東ビルに入居。

東南アジアとの交流のため、73年に宝塚歌劇団東南アジア公演を実施。鎖国を解いたばかりのビルマに、華やかな舞台を持っていった。宝塚は階段を豆電球の電飾で飾り、それの点滅操作で舞台を盛り上げるのが特徴であるが、ビルマでは大きな裸電球しか用意できず、日本の舞台を忠実に再現することはできなかった。しかしチケットはブラックマーケットで70倍のプレミアがつき、公演は大好評であった。御諏訪太鼓の公演は、戒厳令下のベトナム、マニラを訪問するという冒険をした。特にベトナムのサイゴンは、陥落数カ月前の公演。反響は大きかった。

1975年ロンドン事務所長として赴任。当時日本製品は、英国のどの家にも一つはあったはずだが、日本への関心は、まったくといってよいほどなかった。そこで教育の場での交流から取組むことにした。英国の中学、高校の教員を日本に招き、日本を知ってもらう。日本人学校の補習校と、現地校の交流をおこなう。英国の青年を日本に送り込んで、日本の英語教育の手助けをしてもらうプログラム(JETの原型)を立ち上げる。当時労働党のキャラハン氏が首相であったが、英国病といわれる不況時であったため英国内に就職口が少なく、優秀な人材を日本に送り込むことができた。

1981年、ロンドンで『江戸大美術展』を開催。これは日本の文化交流で最も成功した事例。10億円の予算(うち日本側2億)を使ったが、たいへんな評判となり、そのうち8億を回収することができた。これ以降、1991年、2001年と、日本を紹介する大型イベントが英国で10年ごとに開催されることになる。

国際交流基金の10周年にあたり、海外の知名度は徐々にアップしているにもかかわらず、国内ではまだまだ知られていないということで、国内広報に力を入れることにする。三笠宮憲仁殿下が嘱託として勤務され、三笠宮様からのご依頼ということで、著名な方々に僅少の謝礼で基金事業に参加していただくことが可能となった。黒柳徹子氏が10周年の記念講演会に出演。このときはNHKホールが満杯になり、その模様がテレビ放映された。

 

小松氏の講演会の写真2

1986年からはケルン日本文化会館副館長として、西ドイツに。ベルリンの壁崩壊の興奮をドイツで体験。何よりも、一滴の血も流さずに東西統一を成し遂げたことに、ドイツの人々が誇りを感じていることをひしひしと思い知る。市民の力で歴史が動いたこの体験を、南北朝鮮も踏襲してほしい。

1990年のイラク軍クウェート侵攻時、日本政府は135億ドルの多国籍軍支援をおこなったが、軍隊を派遣した米国からは、「血を流していない」として評価されなかった。また日米の緊張関係や、日米経済摩擦が高まるなか、日米間の信頼を強化することが重要課題となり、日米センター(CGP)が設立された。共通課題の解決を目指し、安全保障、テロへの対処、環境問題、人口問題などを話し合う知的交流事業が開始され、国際交流基金の業務の幅が拡大した。

1995年、バンコク日本文化センター所長に就任。1977年の福田ドクトリンにあるように、「対等な協力者として」の交流を目指すが、援助国、被援助国という関係性が存在するため、その実現は難しい課題であった。そんななか、演劇『赤鬼』の日タイ合同公演は国際的コラボレーションの成功事例であり、ロンドン、韓国へと発展していった。

2001年にアジアセンターの事業部長に就任。東アジア共同体の芸術交流、知的交流として、何ができるか考えた。その中で生まれたのが、2002年に始まった日中韓次世代リーダーフォーラムである。これは、日中韓3カ国の政界、官界、財界、学界、メディア界から30~40歳代の若手リーダーを集め、3カ国をともに訪問して、参加者間のディスカッション、各国指導者・政策担当者との意見交換、等を行ない、相互の信頼関係を築こうというもの。3カ国がそれぞれ事務局となり、事務局間のコラボレーションも必要になってくる。参加者が名実ともにリーダーとなる、将来が楽しみな事業である。

これからの課題として、アジアの共通の歴史認識ができるように努力していきたい。

最後に、仕事を通じて巡り合ったいろいろな人に感謝。基金の設立とその発展に大きく貢献された楠田實氏、文化交流にかける情熱にあふれていた高円宮殿下、高校の後輩で、国際文化交流を自分のミッションとして仕事に励んだ古島法夫氏など(全員故人)。そして、本日講演を最後まで聞いてくださった皆さんに感謝したい。

 

当日は、国際交流基金のあゆみを示す年表、過去の事業のポスター、出版物などが展示されました。

 

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