10月のイベント〜ハフィズが語る「15年前の約束」〜報告

 

10月21日、ジャパンファウンデーション・クアラルンプール日本文化センターのハフィズ職員が、 日本とマレーシアについて語るイベントを開催しました。

 

外事務所課の原さんとハフィズさんの琴連弾の写真

海外事務所課の原さんとハフィズさんの琴連弾

ハフィズ職員はまず、ホワイトボードに「ムハマド・ハフィズ・ビン・オスマン」と書いて、自分の名前について説明しました。「オスマン」は父親の名前、「ビン」は「~の息子」という意味、「オスマンの息子のムハマド・ハフィズ」ということになります。日本と違うのは、マレーシアには名字というものはなく、「ムハマド・ハフィズ」全体が名前である点です。「ムハマド」は、日本でいえば「新之助」、「竜之介」の「介」にあたるのだとか。ですから「ムハマド」君という呼びかけは、彼らからすると、とても変なのです。

父・祖父に影響を受けた日本観

ハフィズ職員は、父オスマン、そして祖父と、3代に渡る日本との関わりについて話しはじめました。

父オスマンが小学校に入学したとき、マレーシアは日本統治下にありました。日本軍が建設した小学校に通った父。父の思い出にあるのは、お菓子をくれたり、ラジオ体操を楽しく教えてくれた、優しい日本人の先生です。そこで習った昔話や日本の歌は、日本人の優しさとともに、父の心にしっかり根をおろしました。成長して父親となったオスマンは、息子に日本の昔話や、日本の歌を、繰り返し聞かせてくれました。日本の昔話や歌は、ハフィズさんにとって、父とのなつかしい思い出の一部です。「桃太郎」は長い間、マレーシアの昔話だと思い込んでいましたし、今でも父が歌ってくれた「あいうえおの歌」を良く覚えています。

その頃テレビでは、マレー語に吹き替えられた「アニメ世界名作劇場」が放映されていました。番組の最初と最後に流れる歌は日本語だったので、ハフィズ少年は幼いながらも、これが日本の番組であることに気づいていました。ただ「母を訪ねて三千里」のマルコ少年が旅する土地も、日本だと思っていたようです。その認識が少しずれてはいるものの、ハフィズさんにとって日本は、はるかな憧れの国でした。
音楽が趣味の父は、日本の伝統音楽が好きで、ドライブのときもカセットテープでよく聞いていました。幼いハフィズも、自然とそれに親しむようになりました。琴の音にひかれるようになったのは、このときからです。

祖父の場合は、マレーシアが日本の植民地となったときすでに大人であったため、父とは異なる日本体験をしています。祖父は日本語を上手に話すことができたそうです。占領下のマレーシア人としていろいろ辛い経験もあったことでしょうが、日本人の礼儀正しさ、約束を守る態度、友情を大切にする点を、非常に尊敬していました。ハフィズはこんな祖父から、日本人の美点を繰り返し聞かされて育ちました。

東方政策と「おしん」

1981年にマレーシア首相に就任したマハティール氏は、東方政策”Look East”を打ち出します。「日本は戦争に敗れはしたものの、戦後世界で2番目の経済大国に発展した。マレーシアはこの日本から、技術や労働倫理、経営哲学を学ばねばならない」というのがこの政策の骨子です。これを機に、研修員や留学生が、マレーシアから日本に多数派遣されるようになります。

この頃マレーシアでは、テレビドラマ「おしん」が放映され、大ブームとなりました。ハフィズ少年は、祖父から聞かされていた日本人の美徳を体現するような、おしんの不屈の精神、勤勉、家族を大切に思う心にひかれ、日本へのあこがれを強めていきました。

 

初めて日本語を学んだ時の教科書を手に語るハフィズさんの写真

初めて日本語を学んだ時の教科書を手に語るハフィズさん

マレーカレッジでの日本語デビュー

小学校を卒業すると、中高一貫校である「マレーカレッジ」に入学します。この学校は、英国植民地時代に建設されたものです。英国の名門校イートンにならって「東のイートン」を目指し、マレーシアで指導的な地位にある人々を輩出してきました。この学校に入学したハフィズ少年は、外国語選択の際に迷わず日本語を選び、本格的に日本語学習をはじめました。ここで彼は、生まれてはじめて生身の日本人と接します。海外青年協力隊として派遣されてきた、日本語の先生たちです。彼らは、ハフィズ少年が抱いていた日本人のイメージそのままでした。優しく生徒に接し、一生懸命指導してくれました。若い先生方は日本のポップミュージックも教えてくれたので、ハフィズ少年はそれを繰り返し繰り返し歌い、日本語学習に役立てました。五輪真弓と山口百恵がお気に入りでした。

在学中、天皇皇后両陛下の同校ご訪問が中止になるという悲しい出来事もありましたが、ハフィズ少年はそれにくじけることなく、日本への思いをますます強めました。日本の大学に留学しようと心に誓い、日本語の勉強に励みました。努力のかいあって東方政策プログラムの奨学金を獲得、文部省(当時)の試験にも合格して、ついに日本留学が実現します。

日本での大学生生活

大学(筑波大学国際総合学類)に入って一番にやりたかったことは、筝曲サークルに入部することでした。父の影響で幼い頃からあこがれていた琴を習うためです。サークル紹介初日に早速入部。漢字ばかりで書かれた楽譜は読みこなすのが一苦労でしたが、本人いわく「普通の日本人の10倍かかった」という努力を重ねて、琴の腕を磨きました。

アルバイトにも精を出し、キャンパスの近くを走る常磐線の車両清掃係りをはじめ、子供向けの英語教室の先生、タレント事務所に所属してテレビ出演など、積極的に日本社会に飛び込み、様々な経験を積みました。将来の進路については、マレーシアに戻って外交官になることも考えたのですが、日本で築いた人間関係を断ち切る決心もつかず、日本で就職活動を行い、最終的に日本の金融機関に内定を得ました。

姿をあらわした壁

のどかなマレーシアで生まれ、あたたかい人々に囲まれて東京郊外の大学で幸せな生活を送っていたハフィズ青年は、就職を機に、日本の違った面を体験することになります。入行した銀行で配属されたのは、ビジネス街の中心にある新橋支店。言葉遣いひとつにも神経をすり減らす厳しい企業社会に、彼ははじめて、日本と自分との間にある壁のようなものを意識するのでした。私生活でも、日本と深くつながりたいと思う気持ちがくじけるような経験をし、心の傷を抱えてマレーシアに帰国します。社会人になって2年が経っていました。

(この辛い経験も隠すことなく語ってくれるハフィズさんの姿から、すでにそれを乗り越え、日本を多面的にとらえられるようになっていることを、筆者は感じました。)

 

民族衣装で演奏後、リラックスした表情で記念撮影の写真

民族衣装で演奏後、
リラックスした表情で記念撮影

それでも架け橋になりたい

マレーシアに帰ったハフィズ青年を待っていたのは、東方政策事務所のポストでした。マハティール首相の考えに共感し、日本とマレーシアの架け橋になれる仕事を望んでいた彼は、喜んでそれを受け、マレーシア政府と日本政府の共同プロジェクト実施などに活躍しました。

マハティール首相の引退を転機に、今度は国際交流基金のクアラルンプール日本文化センターの職員となり、現在に至っています。日本での経験を武器に、日本とマレーシアの文化交流、知的交流の促進にその力を発揮しています。天皇皇后両陛下が15年前の約束を果たすために彼の母校を訪問されたときも、案内役を立派につとめることができました。
(詳しくは「両陛下をマレーカレッジにお迎えして」参照)

さらなる飛躍をめざして

ハフィズさんは、日本の大学に入学して始めた琴を、就職してからも、マレーシアに帰ってからもずっと続けてきました。イベントの締めくくりは琴の演奏。彼が選んだのは「飛躍」というタイトルの連弾曲。ジャパンファウンデーション本部・海外事務所課の女性職員が、着物姿でパートナーをつとめました。マレーシアと日本の友好を琴の音にのせて、最初はやや緊張気味の演奏でしたが、しだいに二人の息がぴったり合ってくるのがこちらにも伝わってきました。曲のタイトルから、彼が内に秘めている熱い思いを感じることができました。

イベントを終えて

イスラム教徒であるハフィズ職員は、イベント当日の朝から、何も口にしていませんでした。一ヶ月続く「ラマダン」(イスラム教徒が戒律により、日の出から日没まで飲食を絶つ期間)にあたっていたからです。水も口にできないのですが、彼は実にすがすがしい表情で、ジョークも交えながら、楽しく語ってくれました。参加した会員はみな、ハフィズさんの真摯な姿に心をうたれたようです。

ハフィズ職員は、東京での研修(3カ月)を終えて11月にマレーシアに帰国します。マレーシアでのジャパンファウンデーションの活動がますます充実したものになるよう、ハフィズ職員の活躍に期待しています。
(情報センター)

 

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