『ワンダーバスジャパン2006』特派員報告! -2- ボランティア特派員 林真樹子さんのレポートです。


ワンダーバスジャパン2006活動の写真1
ケアンズ会場で書道を教える林さん(右奥)

あまり日本文化に触れていないという地域の人たちは、一体、どんなふうに異文化に反応するのだろう?何を感じるのだろう?出発前の私は、これから向かう、想像もつかない未知の世界に、いろいろと思いを巡らせていました。オーストラリア人と交流するのも、子どもたちに日本文化を伝えるのも、初めてだったのです。

果たして、オーストラリアの人たちの異文化への対峙の仕方は見事なものでした。その彼らの態度には、現代の日本に住む私たちが学ぶところも多くありました。


ワンダーバスジャパン2006活動の写真2
真剣な表情の小学生たち

一回目のケアンズの公演や書道のワークショップで、私は何か自分の中に矛盾を感じていました。胸をわくわくさせてはりきっていた私が、実際はとても静かだったのです。

子どもたちは神妙な顔をして椅子に座り、ぶっきらぼうに、恥ずかしそうに、「名前を書きたいです。名前は○○です。」と言います。そんな彼らを相手に、情熱的に日本文化を伝えたいと考えていたのとは裏腹に、精神統一し、静かに黙々と書を仕上げる自分がいました。日本で書道をするときとまったく同様です。子どもたちは、その私の呼吸に耳を傾けるかのようにじっとこちらに息を合わせています。実際に書くときには、左手で半紙を押さえるんだよ、と言って、日本でまず大切にされる、書道の姿勢や型からも伝えるようにしました。教わったように呼吸に合わせて仕上げた書は、初めてとは思えないほどの出来です。はしゃいでいたのは大人たちであったかもしれません。

その夜、私はワンダーバスの運転手、キースに質問しました。
「ねえ、キース、どうしてオーストラリア人はこんなに静かなの?」
reserved(内気な、遠慮がちな、の意)という言葉を知っているかい?初めは遠慮がちに、相手をよく見ようとするのだけれど、一度気を許すととてもオープンになるんだよ。larrikinの意味を辞書で引いてごらん。古い慣習を大切にしない若者たちのこと、とここには書いてあるけれど、本当は、良い意味で、革新的である、既存の概念、形式に囚われない。これがオーストラリア人を表現する代表的な言葉なんだ。」

彼はこれまで、40人以上もホームステイで日本人を受け入れてきました。2週間前にお父さんが自殺で亡くなった少年と4年間共に過ごしたこともあるといいます。そんな彼の、熟考・洗練された言葉は、ずしりと響きました。
(あのときの控えめな態度は、保守的に思えた。しかし、相手をよく知って尊重しようとしているからで、実はもっとフランクで自由なんだ・・。私たち日本人のことを他者であると意識して、もっと知ろうとしてくれているんだ・・)
どうしても見えてこなかった、一連の行動の理由はこれだったのです。


ワンダーバスジャパン2006活動の写真3
熱帯植物に囲まれたモスマン会場

次の公演はモスマンという、ケアンズよりもう少し北、バスで二時間ほどの小さな町でした。モスマン市街の人口はたったの3000人。その日は、山奥の町や村からも、バスで一時間以上かけて小学生から高校生までがつめ掛けました。こんなに大きなイベントはモスマンでは10年来のことだとか。

ここでも、子どもたちの姿は変わりません。参加型のUltra Japan Quizで嬉々としてはしゃいでいる姿とは大違い。初めての日本文化を「静かに」鑑賞しようとしていました。おもしろおかしく、とっても賑やかで表情豊かなU-Stage(チンドン屋)さんが入ってきても、少しざわつくくらい、かしこまっています。手を振ろうと思わず大きく乗り出した友人を隣から押さえる姿もありました。書道でも相変わらずです。これが彼らの礼儀なのでしょう。

さて、私たちの文化に対して、reservedではありましたが、私たちを理解し、オープンにはなってくれたのでしょうか?

この日の夜、再びイベントがありました。U-Stageさんの太鼓や三味線、天狗や鬼の面を被っての演出や、日本に関するビデオ&Water boysの映画の上映がありました。すべてが終了し、会場撤去に向かう私たちを見つけ、彼らは次々と、大きな声でにこにこと挨拶してくれたのです。あんなにも内気だった子たちが、こんなにもオープンになってくれるなんて!心の底から日本人や日本文化に心を開いてくれたのだ、と確信しました。アボリジニに東洋系に白人系、多種多様なルーツをもった子どもたち。背もでこぼこで肌の色もまちまちだけれど、どの子も同じ満面の笑みを浮かべていました。それを見て、とても嬉しくなりました。オープンになった後は、きっとオーストラリア人らしい、larrikinさを出してくれるのでしょう。

情報の横溢する社会で、私たちは、新たな情報に対して、敏感だけれどすっと流しているだけのように思えます。一つひとつの事柄に真剣に対峙し、自分の中の核と融合させていく時間を持っているでしょうか。すべてが「虚ろ」のような気がしてなりません。若い世代、まともにコミュニケーションをとれない子が多いと聞きます。全身をセンサーのようにして、じっと息を飲みながら他者を「感じよう」としていた子どもたちを見習いたいと思いました。

他の国での異文化への態度はどういったものなのでしょう。さらに興味は広がります。



ページトップへ戻る