日本における韓国映画と私 プロローグ 〜 韓国映画の夜明け前

 

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映画会社の仕事とは

今ご紹介にあずかったように、映画をやっているんですが、映画をやってると言っても、映画会社って、皆さんどういうイメージを持ってらっしゃいますか。私の場合は、映画を作るということをやっていますし、映画を配給する、配給するっていうのは貿易のようなものでして、映画を買ってくるわけですね。あとは映画館を経営するっていう、その3つをやっております。
その3つをやる会社の代表をやっております。ですから、私どもの映画を私が全部作っているわけではないのですが、その中でもいくつか作って参りましたし、買いつけてきた映画についても、ほとんどは私が見て買いつけてきたという経緯があります。

韓国映画のことを、まずお話しましょうということなので、お話いたしますが、実は我々が扱ってきた映画っていうのは、多分160本ぐらいあります。その内で、韓国映画は実は22~23本でして、多くはありますが、圧倒的多数ではない。一番多いのは、当然日本映画なんです。当初は韓国映画を扱っていませんでした。

パリ留学時代~韓国のイメージ

我々、89年からこういう業務を始めたんですが、韓国映画を扱ってこなかったのは、今こんなこと申し上げると変ですけれども、私自身ですね、韓国に対してすごくイメージが悪かったんです。私、名前は李ですけれども、パリに留学をしている時に同じクラスになった韓国人がいたんです。30人ぐらいのクラスだったんですが、初めにみんなが自己紹介をした時、終わってから彼のところに行って、「僕は韓国語できますから、同じコリアンですから仲良くしましょう」って、そういう話をしたんです。84年のことでしたが。そしたら彼は真っ青になって、翌週にクラスを変わってしまったんですね。僕はすごく驚いてですね、どうしてそんなことがあるのかなって思ったんです。その当時韓国の人たちは、『海外に行ったら、日本から来て、韓国語しゃべる奴っていうのは朝鮮総連のまわしものだから、とりあえず近づくな』という教育を受けていたらしいですね。ですから、それほど厳しい時代だったんです。私は、ただそういったことで非常にショックを受けまして、何かすごい心の狭い人たちだな、という印象があったんです。

 

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日本で映画の仕事を開始~当時の韓国映画状況

日本に帰ってきて映画会社に就職しまして、当時就職したのは徳間書店というところでした。当時の徳間書店は大映という映画会社とか、ジブリというアニメの会社、そして、東光徳間という中国映画を配給している会社、いろんな会社が徳間グループの傘下にありまして、そこで映画を始めたわけです。

しばらくすると、自分でも会社を興しまして、初めに配給業務から入ったんですが、初めて配給した映画はポーランド映画でして、その後もヨーロッパの映画をコツコツと配給していました。
韓国の映画も、もちろん観てはおったんです。当時は、池袋のスタジオ200っていうところで行われていた、四方田犬彦先生という、今、明学(明治学院大学)の教授ですけども、彼がやってらっしゃった韓国映画連続上映というのがありまして、そこに通っては韓国映画を観ていました。

すごくいい映画もたくさんあって、韓国っていうのは80年代、70年代後半ぐらいから、非常に豊かな映画があるなー、優秀な映画監督たくさんいるなーっていう認識はしておったんです。ただ、その当時の韓国映画っていうのは、今とは全く違いまして、若い方あんまりご存知ないかもしれませんが、80年代初頭まではですね、韓国映画っていうのは日本人にとって、あるんだけども観るべきものじゃないっていう、ほとんどそういう印象だったんです。レンタルビデオ店に行きますと、『アジア映画』っていうコーナーに韓国映画は1本もなかったんですね。ほとんどは中国映画でした。または香港の映画が主流だったんですね。

韓国映画がどこにあるかっていうと、ポルノ映画のコーナーに、『韓国エロス』っていうコーナーがありまして、そこに『桑の葉』とかですね、なんとかっていうものが何本かあったんです。非常に、がっかりするような状況だったんです。そういうところを見て、僕も常々、この状況ってこのままでいいのかなって疑問には思っていました。

 

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