転機となった 『風の丘を超えて』

 

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風の丘を越えて 監督:イム・グォンテク 提供:シネカノン

カンヌでの衝撃

ただ、そういう状況を変えるきっかけになったのは、日本で94年に公開された『風の丘を越えて』という映画です。この映画がきっかけになって、韓国映画が変わったと言われています。『シュリ』という、私が2000年に公開した映画だという方もいらっしゃいますが、私はこの映画だと思っています。
私、カンヌの映画祭っていうのは毎年行くんですが、5月はカンヌの時期、もう来月ですね。94年のカンヌ映画祭に行った時に、この『風の丘を越えて』を観ました。この映画はイム・グォンテクっていう監督の作品なんですが、イム・グォンテクさんっていうのは、当時から韓国映画の重鎮で、今でも韓国映画の父親的存在です。彼の映画が出るということで、勇んで行ったんですけれども、上映が取り止めになったっていうニュースでした。『ある視点』というセクションに選ばれたということで、すごい楽しみにしていたんですが。『ある視点』っていうのは、だいたい新人監督が選ばれる、有名監督が選ばれるジャンルじゃないというので、そこに監督が不服だ、不満だということで取り止めたっていうことなんですね。で、残念だなと思って、当時は韓国映画を扱っている、韓国映画振興公社というのがありました。今は振興委員会といいますが、当時は公社でした。公社に行くとですね、今とは違って誰も来ないようなブースがひとつありましてね、ポツンと。カンヌは、大きなブースが何百とあるんですね、映画の売り買いの場ですから。その一番はじっこにですね、閑散として誰も来ないブースが1個ありまして、それが韓国映画振興公社でした。

そこに行くとですね、やる気のな~いおじさんが一人座っててですね。「韓国映画何かいいのありますか?」って言っても寝てるんですね。要は誰も来ないから寝ててもいいわけですね。適当に、「そこに資料あるから持っていきなよ」っていう感じのおじさんでした。で、『風の丘を越えて』の原題は『ソピョンジェ』っていうんですが、「『ソピョンジェ』を観たいんですけど」って言うと、「え?『ソピョンジェ』? 『ソピョンジェ』はないなあ」って言って、「まあ、ただ後3日ぐらいしたら職員が韓国から来るんで、ビデオでも持ってこさせようか」って言ってくれて、その職員が3日後に届けてくれたのが『ソピョンジェ』のビデオだったんです。

非常にいい状態じゃなくてですね、そのビデオをもらって、ホテルのデッキで観たんです。で、皆さんご覧になった方いらっしゃるかどうかわかりませんが、私はとにかく大変な衝撃をうけました。今でも記憶にありますが、観終った後しばらく立ち上がれなかったですね。それぐらいショックな映画でした。何がショックかと言いますと、とにかく自分がまったく知らなかった世界でした。『ソピョンジェ』というのは、パンソリという韓国の伝統芸能、口承芸能ですけども。日本でいうと、浄瑠璃や浪曲の原型になったといわれている一種の歌ですね。その歌の旅芸人たちの話なんです。
哀切を帯びたその歌のフレーズや、実際にオ・ジョンへというパンソリの歌い手が演じてるんですけれども、その彼女のキャラクターですね、とにかく。お話の展開もそうですけども、いろんなことで本当に非常に感銘いたしました。そこで初めて、韓国映画をやってみようと思いました。

タイムリミット48時間のパスポート

韓国映画をやるにはどうしたらいいかっていうと、当時僕は、朝鮮籍だったんです。朝鮮籍というのは、当時は韓国に行けない国籍です。僕は朝鮮高校を出てますから、自分が選んだわけじゃなくて父親が選んだ籍を採ってきたわけです。国籍を変えようという意識もなくてきたわけですね。ただ、カンヌから日本に帰国して、とにかくすぐに韓国領事館に行ったんです。領事館に行って領事課に行って、こうこうこうだと告げて、「『ソピョンジェ』を配給したしたいんだけども、韓国に行きたいんだ」という話をしたら、担当官は笑っていました。「何を言ってるんだ」と。「朝鮮籍というのは、敵国の人間だ」と。「敵国の人間が行くということはありえない。」特に韓国の国民的な映画だったんですね、その当時、すごくヒットしましたから。「それを配給するなんてありえない」って言われまして。一蹴されまして、そうかと思ったんですけども。

そこで僕も、まあ意地もありますし、すぐに引き下がらなくてですね、「次の日また来ます」ということで、韓国人なんで話せばわかるだろうということで、次の日、お酒を持って行きました。お酒を持って行ってですね、「まあまあ、飲みましょうよ」っていう話をしましたところ、彼も「いやいやこんなところで飲みませんよ」っていう、ま、当然ですよね。終わって、もうしつこいから「一杯だけつきあいますよ」っていうことで、彼の業務が終わって西麻布で一杯飲みました。

自分が知り得る限りの韓国映画のことや、口からでまかせでですね、「僕が韓国映画を配給したら韓国映画は変わるんだ」という、壮大なホラをついてました。そしたら彼は、「いや~、まあまあ、韓国映画好きなんだね」と。ただ『ソピョンジェ』っていうのは、当時100万人初めて韓国で動員した映画になってまして、4月に公開されて、その当時はもう大ヒット中だったんですね。そういう映画を在日の、特に朝鮮籍の人間がやるっていうのは、とにかく彼にとって考えられないということなんですね。ただ、「熱意は汲んだんで、とりあえず韓国に行ってみなさい」というんで、48時間以内有効というパスポート、臨時パスポートというのをもらいました。48時間以内有効なので、1泊2日なんですね。1泊2日で帰って来なきゃいけない。向こうの映画会社に連絡をしまして、ファクスもうちましたし電話もしまして、「『ソピョンジェ』という映画の件で行きます」と。で、行ったわけです。

 

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国家安全企画部員のエスコート

初めてソウルの空港、金浦ですね、当時。金浦に着いて、何の感慨もなかったですね。初めて訪れた自分の父親の祖国だっていう感覚は、まったくなかったです。それでゲートに入ったんですけれども。そうすると入国審査のところで、臨時パスポートを出したら、審査官が「ここじゃないです。ブルーのところに行きなさい。」というんで、そっちにまわされるとですね、黒い服を着たごつい男の人が3人ぐらい待ってまして、「安全企画部です」って言われまして、安全企画部の名刺をもらいましてね、彼らのすごい大きな車で移動しまして、僕は当時、新羅ホテルっていうところに泊まったんですけれども、そこまで連れて行かれまして、いろんなことを聞かれました。「何のために来たのか」とかですね、いろいろ。

安全企画部っていうと、僕はイメージとしてはすごい恐い印象があったので、ちょっとビビったんですけども。非常に紳士的な対応でですね、僕をホテルまで連れて行ってくれて。そして、「明日帰るんだから観光して帰りなさい」と言われまして、いろんな博物館の案内とかいただきました。

豪傑社長と直談判

カバンを置いてすぐにですね、映画会社、当時韓国で一番大きな映画会社だった、日本でいう東宝みたいな『テフン映画社』っていうところの社長に会いにいきまた。タクシーで行きましたら、社長が待ってらっしゃったんですね。

入ると大きな丸テーブルがありまして、奥のほうでテフン映画社の社長が電話をしてたんです。それがすごく、ものすごい大きな声で電話の相手を怒鳴りつけてるんですよね。あの、何て言うんですかね、ヤクザの親分みたいな感じで。怒鳴りつけ方がすごいんで、僕はそこで電話が終わるのをしばらく待ってたんですね。で、電話パッと切って、ガシャンと切ったらパッと振り向いたんですよ。顔もヤクザみたいなおじさんで、いや、ヤバイなって思ったんですけど、とりあえず、「日本から来ました」って、「連絡した李です」って言ったら、「ああ待ってたよ」って。「あなた、あの、韓国語しゃべれんの?」 って言われて、「一応しゃべれるんです」って言ったら、「そうか」って。「昨日ね、安全企画部から電話きたよ」って言われて、「楽しみにしてたんだよ」って。「安全企画部から『要注意人物だから、まあ適当に言いくるめて返せ』って言われた」って言うんですよ。ガハハハって笑ってね、非常に豪快な人で、「じゃ、今から冷麺食いに行こう」って言われまして、冷麺を食べに行きました。結果的に、その冷麺屋に4時間ぐらいいました。冷麺屋で焼酎を飲んで冷麺を2杯食べて、延々とですね、まあ、彼は朝鮮戦争の時にですね、北側から南に逃げて来た人なんですね。兄弟は9人兄弟で、彼以外の兄弟は朝鮮戦争で全員亡くなったんですね。彼は末っ子だったんです。そういった経験の話をうかがって、そして、どういう思いでこの映画を作ったかという経緯もうかがって、そうか、こういう人だからこういう映画を作れたんだなーと、僕も非常に、思いました。

 

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