韓国映画を銀座へ

 

JFサポーターズクラブイベントの写真1

ぺラ一枚の契約書

自分自身も、少なからずやってきた映画のことを話して、そしたらたまたま、運が良かったんですけど、僕が92年に制作をした『月はどっちに出ている』っていう映画を、ベルリン映画祭に出したので、一昨年、93年ですね、彼はその時ベルリンで観てたんです。なので、そういう話になってうちとけたんですね。彼は、その日のうちに監督を呼んでくれてですね。当時は大ヒットしてましたんで、日本からも3社ほどオファーがあったんですが、監督や主演のオ・ジョンへという女優さんも来てもらって、ホテルのバーで延々と飲みまして、とにかくしょっぱなからですね、「韓国とビジネスするっていうことは飲むっていうことなんだな」と思いました。とにかく飲むなと。飲むのがとにかく強いですね、韓国の人は。女性も強いです。

結局、4時か5時まで飲んでですね、僕もう次の日帰る手筈ですから、9時50分とか9時30分とかの飛行機だったんですね。ですから、金浦までの時間を見て、まあ7時ぐらいには出なきゃなっていうことでした。契約の話をしたかったんですけれども。僕もそれまでに、いろんな国の映画を契約しておったんで、契約の文面とかですね、契約の中身を詰めたかったんですけども、その話がついぞできずに朝を迎えてしまって、社長帰りますっていうんで、ホテルのロビーに降りて行ってチェックアウトして、すると、その会社の常務っていう人が車を出して、金浦空港まで見送ってくれるっていうんで、彼がロビーにいて。とにかく眠かったんですけれども、その車の中で彼が書類を僕にくれまして、それがあの『ソピョンジェ・風の丘を越えて』の契約書だったんですね。社長が、朝一番で契約書作って僕に渡してくれたという。

今まで、いろんな契約を僕もしてますけれども、今まで僕がかわした契約の中でもっとも短い契約です。ペラ一枚。「私はあなたに売ります」って書いてある。それだけ。それは非常に感動的な契約でして、とにかく信じてるからっていう期待も感じましたし、彼の信頼を裏切っちゃいけないなっていう、そういう思いも感じました。

 

JFサポーターズクラブイベントの写真2

銀座へのこだわり

それから、日本に帰ってきて『風の丘を越えて』っていう映画を配給宣伝するためにいろんなことをしたんですが。韓国映画を初めてやったわけですから、非常にこだわったことがありました。それは、ひとつ、韓国映画を銀座で公開したいということです。日本の興行界…、映画の興行界というのは時代が変わっても、銀座が、有楽町、日比谷、銀座、この界隈がメインストリートなんですね。ここでの劇場での収入やデータが全国に発信していくわけです。ですから、どうしても銀座でやりたいと思いました。

それまで韓国映画っていうのは、だいたい中野武蔵野ホールっていうところでやってまして、だいたい60席ぐらいのホールで小さくやっておったんですね。「中野でやるもんだ」っていうのが韓国映画でした。ですから、興行者、劇場の経営者としてはその当時、「韓国映画とインド映画は当たらない」っていう定説があったぐらいです。ですから、やっちゃいけないジャンルだったんですね。だから誰もやりませんでした。とにかく、その定説みたいなことを覆したくて銀座でやることにこだわったんです。銀座の映画館を一軒一軒いろんなところと交渉しまして、やっと『銀座テアトルシネマ』という、当時は『テアトル西友』といいましたが、劇場があけてくれたんですね。

型破りの宣伝戦略

その劇場でやると決まったんですが、当然映画を宣伝するためには試写会をやりますから、試写会をうつわけですね。何度か案内を出していろんな評論家やいろんな雑誌の編集者を招待するんですけども、当初から招待してもまったく人が来ませんでした。当時、僕らがかけるような単館系ミニシアターという映画館でかかってる映画の主流はヨーロッパ映画だったんですね。ヨーロッパ映画を評論するということが、その当時の映画評論家の仕事であって、韓国映画を評論するのはちょっと違うぞということでした。ですから、偉い評論家も観に来なかったんですね。今や、キネマ旬報のベスト10になると、10本中3本ぐらいは韓国映画なんですけども、当時は「韓国に映画あるの」っていう感じだったんです。そんなわけで、優秀な作家がいるとかですね、いい俳優がいるっていうことを、映画評論家や編集者は考えてなかったんですね。

じゃあ、どうしょうかっていうことで、戦略を変えまして、映画評論家に観せてもしょうがないなと。観ないんだからしょうがない。とにかく、考えてみれば『ソピョンジェ』という映画は、ある意味ミュージカルだなと。歌を歌う映画ですから。そういったミュージシャンに観せようということで、いろんなミュージシャンに観せました。あとはそういった伝統芸能なので、そういった伝統芸能に携わってる方々に観せようということをしました。そういったところから広がる、大学の先生たちやですね、あとは文学や社会学や文化人類学や、いろんなところをとにかく少しでもひっかかる人がいれば観せようということで、そういうところばかりあたって試写会をやっていました。

3ヶ月ぐらいですね、宣伝をし始めると少しずつですね、そういったところから、映画の評論家や映画雑誌にも出るようになりました。韓国、今も近いですけども、当時の監督や俳優さんっていうのは、今は少し違っちゃいましたが、容易に来てくれました。『ソピョンジェ』のプロモーションのために6回ぐらい日本に来てもらいまして、上映会と演奏会、歌の披露会みたいなことをやっていきました。

韓国映画の常識を変える

そういうことを何回か重ねたんですね。そして興行をすると非常にたくさん入りまして、当時、銀座でやってる西友っていう劇場の劇場新記録を樹立しまして、多分14週間ぐらいやりましたかね。非常に好評のうちに興行が終わったんですね。
この興行が終わった後に、全国のいろんな映画館の館主さんが「韓国の映画だけども入る映画があるんだね」っていうことで、我々の会社にもたくさん問い合わせがありました。それで、いろんなところにかけていったわけですね。
今でも、この『風の丘を越えて』っていうのは、我々、やってますけども、今まで我々が学校上映、学校でかけた16ミリですけども、学校でかけた上映の回数は1番多いですね。我々が持ってる映画の中でも、最も多い回数をまわしてる映画に今現在なっています。もう10年以上経ちましたけども。

 

ページトップへ戻る