JFサポーターズクラブ11月のイベント報告 -2- 国際交流奨励賞 日本語賞受賞 記念講演会 リービ英雄 「日本語の人生」

JFサポーターズクラブ 2007年11月のイベント報告 国際交流奨励賞 日本語賞受賞 記念講演会 リービ英雄「日本語の人生」の画像

パート2
リービ英雄 日本語の人生

講演の後半は、中国、米国、日本にまたがるリービ氏自身の越境体験が語られました。

講演会の写真1

校を17歳で卒業し、1年間日本に滞在。このときの2つのキーワードは「新宿」と「やまと」でした。新宿で1960年代的な生活をしながら、奈良および飛鳥を訪ねます。京都から徒歩で宇治に向かいそこで一泊、翌日奈良まで歩き、3日目に、「歴史の時間を南下するかのように」飛鳥にたどり着きます。万葉時代の人々もそうしたであろう、自分の足だけが頼りの旅行。万葉集に登場する地名、日本語がはじめて書き言葉に登場した時の地名がそのまま残る地を訪ね歩きました。リュックには万葉集の文庫本をしのばせていました。

英国の詩人ホジソンによる、万葉集の一部英訳(国際交流基金の前身である国際文化振興会作成)を読んだことがありました。ビクトリア朝の美しい英語に翻訳されたその文章から、「山は雄大、川は広い」という壮大なイメージを抱いて「やまと」にやってきたのです。

ところがそこで最初に襲ってきた感情は、なんと「失望」でした。万葉集に詠まれた雄大な自然、しかし実際いってみると、目の前にある大和三山は思ったよりずっとちっぽけでした。万葉集英訳版を読んでアメリカのロッキー山脈や中国の黄山のような雄大さを思い浮かべていたのに、実物は丘を3つ並べた程度のもので、がっかりしたといいます。

万葉集にだまされたと思ったリービ氏でしたが、アメリカに戻ってそれを読み返したとき、このようなちっぽけな自然から、万葉集、なかでも長歌に表現されている構造美を生み出した当時の日本人の想像力に、ある種の畏敬の念を感じるようになったといいます。

青年時代に感じた「実際の自然と歌われた自然のズレ」、だまされたと思った気持ち、そしてのちに、「やまと」の自然を写実的に見てしまった自分を反省したという体験が、いつまでも彼を万葉集に引き留めています。

「万葉集から卒業できない。30年たっても40年たっても、万葉集は僕のところに戻ってくる。これは日本の表現の最高のモデルです。」
リービ氏はそう語っておられました。

講演会の写真2

日本語を深く理解するにしたがって、リービ氏の中に「一生を翻訳だけで終えるのは寂しい」という気持ちが生まれてきます。日本文学の大作は、ドナルド・キーン先生、サイデンステッカー先生などによってほとんど訳されてしまっていたからです。

唯一の例外は万葉集であったため、プリンストン大学の図書館で万葉集の翻訳に取組みます。これと平行して、できるだけ日本に滞在したいと思い、あちこちから奨学金をもらい、日米往還に注ぎ込みました。アパートを借りて住み、また米国に戻る生活で、敷金・礼金をいくら無駄にしたかわかりません。

この間に山上憶良に関心を持つようになります。百済から日本にやってきた帰化人とされている憶良は、こちらの国の言葉で表現者となり、万葉集に歌を残しています。憶良に触発され、また中上健次に日本語で小説を書くことを勧められ、リービ氏は『星条旗の聞こえない部屋』によって、日本語による作家としてのデビューを果たします。

この頃彼は、自らも越境を経験し、芥川賞を受賞した在日韓国人作家の李良枝(イ・ヤンジ)さんから、「日本語の小説を書いてください」という激励の言葉をもらいます。李さんは日本で生まれ、成人してから故国を訪れて留学も果たしますが、日本語的な感情を持っているため故国に戻れない自分を認識していました。彼女の作品には、そのような彼女自身の姿が投影されています。

リービ氏は新人賞を獲得したところで、米国での職を捨て日本定住を決意します。そして日本に落ち着くと、今度は中国に出かけるようになります。そこから生まれた作品が『ヘンリーたけしレウィツキーの夏の紀行』です。

河南省の開封は今では小都市にすぎませんが、1000年前には人口100万人を擁する世界最大の都市でした。そこにシルクロードを通って西洋からユダヤ人がたどり着き、東アジア人になったという伝説があります。リービ氏はその痕跡を探しに、開封を訪れました。

何人もの人に尋ねましたが、なかなか手がかりをつかむことができません。しかしついに1人のタクシー運転手と出会い、古い病院裏の赤レンガの建物に導かれます。ボイラー室となっている古い建物の床には石炭が積まれ、その下に幾何学模様が施された石のふたがありました。重いふたを開けると、そこにシナゴーグ(ユダヤ教の寺院)の井戸があらわれました。

「だれかが、いた。」「だれかが、なった。」「がいじんが、がいじんではなく、なった。」そういう思いが、井戸のふちにしゃがみこんだリービ氏の頭に浮かびました。

多和田さんのように2カ国語で文章を書いたり、越境、バイリンガルというと、現代の最先端のことのように思われがちですが、アイデンティティー、言葉、民族ということにおいては、実は一部の古代人のほうが私たちより進んでいたのかもしれません。

「中国大陸においてではありますが、私自身の日本語の人生の小さなクライマックスがそこにありました。」

リービ氏はこのように語って、講演を締めくくられました。

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