中東の都市・建築文化にみる共存と融合の歴史: ユダヤ教、キリスト教、イスラーム 欧州・中東・アフリカ課 山下王世(きみよ)

 

最近、マスメディアをはじめとするあらゆる場面で文明の衝突という言葉を耳にする。十字軍からイラク戦争まで、緊張した国際政治の場では衝突が話題の中心となってしまいがちだ。私たちが日々のニュースや新聞などから繰り返しその言葉を耳にし、文明と聞けば衝突のイメージを連想してしまうことはもはや仕方のないことなのかもしれない。

しかしながら、あるひとつの文明が他の文明と接触したときに起こす反応は、衝突だけなのだろうか。実は、他にもさまざまな反応が起こっているのではないかー。

私自身は、そう思う。都市や建築などの文化史研究をしてきたこともあり、このような文明の接触が「出会い」や「新たな創造力」という側面をもつことに常に注目してゆきたいと思っている。都市や建築の歴史をかえりみると、異なる文明や文化が出会ったとき、それまでになかった新しい建築空間が創造されたり、時代を先導する美が生みだされたりする事例を発見することができ、このような出会いに心が強く惹かれるからだ。

 そのような魅力的な出会いがトルコ共和国最大の都市イスタンブルにある。その町にある大規模なモスクの多くが、聖ソフィア大聖堂とよばれるキリスト教の教会堂に外観がよく似て見えるのだ。これは二つの建築文化が出会い、新たな建築美がうみだされた事例のひとつといえる。

ご存知の方も多いと思うが、ここですこし都市イスタンブルの歴史を振り返ってみよう。1453年までおよそ一千年もの間、イスタンブルは東ローマ(ビザンツ)帝国の首都として栄えた。その当時、コンスタンティノポリスとよばれたこの大都市には、キリスト教の司教座として聖ソフィア大聖堂のような大規模教会堂が建設された。

1453年にこの街はオスマン帝国に征服され、イスタンブルと名をかえる。その後およそ600年もの間、今度はイスラームの大帝国の首都として、東地中海の商業と文化の中心地となる。最盛期にはスルタンたちが、自身の名を冠する大モスクをイスタンブルの高台に次々と建設しその壮麗さを競った。これらの大モスクの外観が、聖ソフィア大聖堂のそれときわめてよく似ているのは、なぜなのだろうか。


イスタンブルがオスマン帝国下に入った15世紀半ば、聖ソフィア大聖堂は改修され、ムスリムの手に渡った。その時、帝国下のキリスト教徒はどうしたのか。国外追放されたと想像する方も多いかもしれないが、実はその正反対であった。

スルタンは、東ローマ時代にキリスト教やユダヤ教の商人が培ってきた通商の営みを継続することこそ、オスマン帝国の発展に不可欠と考えたのだ。したがって、キリスト教徒は、人頭税を支払いさえすれば、ムスリムと同じように商売をすることができたし、信教の自由も保障された。当然、イスタンブルにあった教会堂のいくつかはキリスト教徒の手に残された。

こうしてオスマン帝国は、非ムスリムの文化や通商能力を内包しつつ、16世紀半ばには領土が最大になり最盛期を迎えることになる。モスクへ改修されたとはいえ、聖ソフィア大聖堂も、非イスラーム教徒とともにイスタンブルの街に存在し続けた。大きなドームをもつその独特の外観が、オスマン朝モスクのデザインに多大なる影響を及ぼしたのだ。両者がよく似ていると感じられるのはそのためといえる。

オスマン朝の建築家たちは、聖ソフィア大聖堂の大ドームが醸しだす大空間をどのような想いで見つめたのか。超えなければならない目標だったかもしれない。あるいは大規模ドーム構造の弱点を学ぶ好材料だったのかもしれない。

最近のマスメディアには、ユダヤ教・キリスト教とイスラームが衝突しているようなニュースがあふれている。しかし歴史をきちんとひもといてみると、衝突だけでなく、共存と融合の歴史も確かにあったということを改めて思い知らされる。

 

 

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