嗚呼、マニュアル人間

 

12月14日 ―― 赤穂浪士47士の吉良邸討ち入りの日だ。

「忠臣蔵は日本人の心」と言われるだけあって、この事件を巡っては歌舞伎や演劇は勿論、映画やテレビ番組も昔から多くの種類ないし版がある。私自身がスクリーンで観ただけでも長谷川一夫が大石内蔵助を演じたものもあれば三船敏郎のものもあった。
昔の版と現代の版を比べて驚くことが幾つかあるが、その一つに、大石内蔵助がいよいよ赤穂城を明け渡し、「これが見納め」と城を振り返る場面の違いがある。昔の映画では、ここで大石は一言も発しない。万感の想いを胸に秘めて城壁を仰ぎ、静かに去っていく。ところが昨今の映画では、ここで「もう再び生きてこの城には戻れまい。これが見納めだ」などと台詞が入る。これでは大石の胸の内の“万感”が伝わらない。三文オペラになり下がっている。
しかし考えてみると、今の観客の多くは、ここで台詞を言わないと大石の気持が伝わらないのかもしれない。「察する」とか「以心伝心」とかいう言葉が流行らなくなった今日、何事もはっきり言い、はっきり書いておかないと人々は思いが至らない。気を回すということも、すたれつつある。
言い換えれば、何事もマニュアルに書いておかないと実行されず、マニュアルに書いてある通り実行すれば、それで良いと言う風潮が横行していることを意味している。
音楽における“間”、絵画の“余白”、会話の中の“沈黙” ―― それらは全て、「察する」文化、想像し気を配る文化の要素に他ならない。マニュアル人間になるよりも“間”を大切にする真人間になりたいと言ったら、時代遅れと批判されるだろうか。

 

「あすへの話題」(2004年12月15日「日本経済新聞」夕刊掲載」)

 

 

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