日韓友情年 慎みたい、互いの政治利用/盧大統領の目と心 国際交流基金理事長小倉和夫

「日韓友情年慎みたい、互いの政治利用」

いわゆる「冬ソナ」ブームで、日本人の対韓感情は一気に好転し、本年の「日韓友情年」を温かく迎える基礎ができたように見える。民族や国籍を超えて、ヨン様やチェ・ジウさんなど個人スターへの親愛感が、素直に人々の心の中に生まれるのは良いことである。
しかし考えてみると、これは当たり前のことである。ビートルズは、英国人であろうとなかろうとビートルズであったし、ハリー・ポッター役の俳優がどこの国の人であろうと良いのであるから、今さら、ヨン様現象に驚くこと自体、日本と韓国との間の微妙な問題を提起している。

しかし、本当の問題は、「冬ソナ」現象の裏に隠れている日韓間の亀裂、ギャップである。
第一の亀裂は、お互いの間の親近感に関するものだ。日韓共同の世論調査によると、一九九九年までは、韓国人で日本人に親近感を持つ人の比率(九九年=54%)は、日本人で韓国人に親近感を持つ人の割合(同48%)より高かったが、二〇〇〇年から二〇〇一年にかけて逆転し、今や八割近い日本人が韓国人に親近感を抱いているのに対し、韓国人で日本人に親近感を持っている人は半分強にしか過ぎない。日本の「片思い現象」が起きているのだ。

そればかりではない。サッカーのワールドカップを日韓「共催」にしたことについて、日本人は良かったと思う人が多い(74%)のに対し、韓国人は半分以上が単独開催の方が良かったと思っている。
韓国人の日本嫌いはあまり変わっていない。だからこそ、韓国ではいまだに「親日」という言葉は否定的響きを持っている。「親日派」という言葉が、あたかも売国奴のような意味に使われている間、日韓間に真の友情は成立せず、日韓友情年も幻に過ぎない。

しからば、日韓両国は何をすべきか。
お互いの国内政治上の目的のために相手国を利用するということを慎むことである。日本あるいは韓国というレッテルを政治的に利用し、いわば「政治的商品」として値段を釣り上げるようなことをしてはならない。誰もが気軽に親しめる「商品」としなければならない。
とりわけ今、日韓間に第二のギャップがじわじわと目立っているだけに、このことは特に重要である。第二のギャップ、それは北朝鮮の脅威に関する認識ギャップである。

かつては韓国が北の脅威を強調し、日本が「まあまあ」と言っていたのが、今や逆転している。しかも、多くの日本人の目に、北は単なる脅威を超えて、「悪」として映っている。過去にこだわり、日本を「悪」と見て、日本嫌いになるのを、韓国に差し控えてほしいというのならば、同様に、日本が北朝鮮をいたずらに「悪玉」扱いばかりすることには、韓国との関係からいって、慎重でなければならないだろう。
このことは、実は、日韓間の第三の亀裂とも微妙に関連している。それは中国に対する見方である。多くの韓国人にとって、中国は脅威でもなければ、悪でもない。むしろ伝統的な韓国の事大主義的親近感が、次第に頭をもたげてきている。一方、日本では中国に対する警戒感や嫌悪感が急速に広がっているようだ。

日中関係を考える上でも、朝鮮半島の動向は死活的重要性を持つ。日本、韓国、中国の間の対話と協調こそ、第三の亀裂を埋めてゆくのに不可欠と言えよう。日韓友情年を、日韓中友情年としなければならないのではあるまいか。 (東京読売新聞 2005年1月12日付朝刊「論点」より)

∴この記事は、読売新聞社の承諾を得て転載しています。無断での複製、送信、出版、頒布、翻訳、
翻案等著作権を侵害する一切の行為を禁止しています。

「盧大統領の目と心」

3月1日――韓国の「独立記念日」に、盧大統領が、日本の植民地時代における強制徴用や従軍慰安婦問題などに言及して、「過去の反省の足りない日本」を批判したことは、記憶に新しい。

「またか」と、この演説は、ヨン様ブームに沸くわが国の人々の気持ちに冷水をあびせた。日本人の韓国人に対する親近感が再び低下したとしても、その責任の一担は、韓国の政治指導者が負わねばならない。

けれども、植民地支配36年とその直前の棘々しい日韓関係の時代――あわせて約50年とすれば、そのにがい苦しい歴史的記憶が韓国独立後50年や60年で終わるはずもないことは、日本人としても心に刻んでおかねばなるまい。

日本の一部に、大統領の発言は韓国国内向けの一種の政治的ショーであり、日本に向けられたものではないと云う見方がある。しかし、そう云う政治的ショーが歓迎される土壌が韓国に厳として存在すること自体、大きな問題である。

他方、大統領演説をよく読み行間の意をかみしめてみると、そこには国内政治的効果を狙った合理的計算や、国民の対日感情を自らも分かちあっているという気持ちを含めた、いわば「大統領の心」の中の動きの他に、ある種の新しい政治スタイルが滲み出ているのが分かる。新しい政治スタイル――それは、市民の目線というスタイルである。

盧大統領は、日韓間の過去の問題や日本と北朝鮮との間の問題ですら、日本と韓国、日本と北朝鮮といった国家と国家との関係の問題としてばかりこれを見ずに、市民ないし国民の観点から見ることを訴えている。云いかえれば、大統領は、韓国の最高の政治指導者としてと云うよりも、韓国民一人一人の立場に自分の目線を合わせて、云わば、市民の一人として韓国人、日本人の双方に語りかけているのだ。大統領の心は「政治」にあるとしても、その目線は、市民の目線だ。そうとすれば、それにどう応えるかは、日本「国」の問題と云うよりも、日本人一人一人の問題なのではあるまいか。

 

(信濃毎日新聞2005年3月28日付夕刊「今日の視角」より)

 

 

ページトップへ戻る