マニラ事務所からの速報 No.1 マニラ事務所長 鈴木勉

日比をつなぐ“ふたつの血”日本語スピーチコンテストを制した若きトップランナー

日本語スピーチコンテストの写真1

2月19日にフィリピンで行われた日本語スピーチコンテストから、フィリピンにおける日系人の歴史に思いをはせています。

全世界で235万人以上が学んでいると言われている日本語。日本語を始める動機は人それぞれだが、今の若い人なら“日本のアニメや漫画が好きだから”というのが一般的で、もうちょっと年上だと“就職に役立つから”といったことが多い。テクノロジーとポピュラーカルチャー。これが大多数の外国人がまずは抱く日本のイメージ。

しかしこの世界には、そうした表象的なイメージを通した日本とのつながりよりも、もっと生々しく、そして残酷なまでに運命的に日本とつながっている場所もある。

日本語スピーチコンテスト。世界各国で日本語を学ぶ人たちのために行われる一大イベント。フィリピンは今年で33回目を迎え、去る2月18日に開催された。会場となったショッピングセンターSHANGRI-LA PLAZA MALLの映画館は大勢の
聴衆で満員となり、期待と適度の緊張感に包まれた。日本語の学習時間数などによってビギナー部門とオープン部門に分けられて、それぞれ5人と7人が5分ずつのスピーチを行った。私は主催者である国際交流基金マニラ事務所の所長として審査に加わったので、審査の内部情報については書くことはできないが、個人的な感想として圧倒的に印象に残っているのは、ミンダナオ島南部の町ダバオからやって来た二人の若者のことだ。この二人はおそらく私だけでなく、多くの聴衆に強い印象を残し、オープン部門の1位と2位を受賞した。


日本語スピーチコンテストの写真2

1位のクリス・ランス・ラサイ君はダバオにあるミンダナオ国際大学の3年生。ハイスクールが4年制のこの国では大学3年生でもまだ18歳。ちょうど日本の大学1年生と同じ歳だ。スピーチのタイトルは“ふたつの血”。ダバオからさらに南に車で40分のところにある生まれ育ったトリルという町の日系人についての話。大学の授業で戦前の日系麻農園の調査をした時の老人たちとの対話が彼のスピーチのテーマだった。

ちょっと長いが引用する。

「当時、トリルでは日本やアメリカ軍の船に使われる麻を生産していました。だから高い値段で売れるので、給料も高く、フィリピンだけでなく、日本からも多くの働き手が集まって来ました。その後千以上の日本の会社が来て、近代的な産業を作ったそうです。しかし私がもっと驚いたのは、二万人以上の日本人がダバオやトリルに住み、日本人がフィリピンのもとで働き、日本人のもとでフィリピン人が働く。国籍や習慣を超えて、五十年もの長い間、協力して平和に暮らしていたことです。今わかっているだけでも、トリルの人口の十人に一人は日系人です。これは日本人とフィリピン人が仲良く暮らしていた証なのに、素晴らしいことなのに、フィリピン人はこのことを知りません。」

私自身もフィリピンにおける日系人の問題について詳しく知ったのはマニラに赴任してからだ。聞けば聞くほど、これまでの自分の無知に、そして大多数の日本人の無関心に疑問が湧いてきた。日本からの移民労働者の歴史は今からおよそ100年前に遡る。ルソン島北部山岳地帯の道路建設に携わったのを契機に移民労働者が次々と送りこまれ、ダバオに麻(アバカ)農園が開拓されて活況を呈し、最盛期にはフィリピン全土に3万人、その内ダバオには2万人の日本人がいたという。現在フィリピンの在留邦人は13,000人だから、その2倍以上いたことになる。国際化とはいうけれど、日比関係については戦前のほうがむしろ進んでいたのだ。

ところがこの日本人移民労働者とその家族の生活を戦争が根本から破壊した。150万人以上が亡くなったといわれる戦争の後、日本人である彼らはフィリピン人からの報復を恐れ、ある者は山中に逃れ、逃げずともその出自ゆえに社会の底辺に置かれざるをえず、日本政府の支援もなく、文字通り“棄民”として艱難辛苦の日々であったそうだ。その様子は大野俊著「ハポン-フィリピン日系人の長い戦後-」(第三書館、1991年)に詳しい。

1980年代になって日系人の困窮を目の当たりにした帰還兵や元ダバオの日系人が中心になり、救済運動が始まった。NGOや宗教団体の支援のもとに日系人組織を作って生活支援や権利保護が行われた。いまではダバオ市内に立派な日系人会館があり、会員は5500人。間違いなくアジアで最大の日系人組織だ。会員の中にはまだ1世も4名存命で(昨年10月現在)、既に5世の会員まで誕生している。

こうした日系人に対する支援の中で最も重要な活動が日本国籍の取得問題である。つらい苦しい“無国籍状態”に関心が向けられたのが80年代後半になってからで、日本の厚生省の調査団が送られたのが1988年。親が日本人と証明のできる二世はほぼ皆日本の国籍を取得しおわっているが、現在の問題はそれが証明できない人たちが約800名いること。しかしそれもついにこの2月2日に、フィリピンで初めて、父親が日本人であることを書類によって確認はできないが、状況証拠で日本人であると認定して新たに戸籍を認める“就籍”の第一号が誕生した。実はこの“就籍”、中国の残留孤児のケースはこれがほとんどで、既に1000人以上が日本国籍を認められて帰国している。中国残留孤児のことは誰でも聞いたことがあるだろう。しかしフィリピンの“孤児”たちは、いかに長い間世間から無視され続けてきたことだろう。

同じ日本人として、かくも異なる境遇に置かれた人たちが大勢いること、仕事や旅行でこれまで何度もアジアを訪れていたのに、アジア最大の日系人コミュニティーについて、その存在すら知らなかったことは、少なからずショックだった。ショックついでに言えば、日系人問題はこの戦前からの日系人(“旧日系”という)問題のみならず、いわゆる“ジャパゆきさん”と日本人の父親の間に生まれた混血児、通称“ジャピーノ”、もしくは“新日系”の問題も深刻だ。2004年には日比国際結婚が8500件。この10年で毎年6000~7000件の結婚があり、既に10万人以上の“ジャピーノ”がいると推定されている。彼ら、彼女たちの多くは父親が不在である。そして今後もその数は増え続けるであろう。フィリピンと日本との間には、なんとも絶ちがたい濃い関係がある。しかしいずれにしても、このアジアにおける最大の日系人コミュニティーの存在は、色々な意味で今後ますます注目されてゆくのは間違いない。文化交流というジャンルにおいても、彼らが重要なアクターになる日はそう遠くない。その意味でも無関心ではいられない。

昨年の10月、「ハポン」の著者であり、その時期に国際交流基金の客員教授としてマニラに派遣されていた大野教授とダバオに向かい、ミンダナオ国際大学を訪問した。この大学は日本のNGOの支援を受けて設立されてまだ4年目の大学だが、250名の学生がいる。日本から5人もの常勤の日本人教師を受け入れ、比較的恵まれた環境で日本語を学んでいる。多くの学生の夢は日本語をマスターして日本で働くこと。今回スピーチコンテストで受賞した二人はそんな学生たちのトップランナーだ。

実はダバオと私の縁は25年前に遡る。まだ自分が高校2生の頃、当時一種のブームでもあった“南北問題”についてのある大学の懸賞論文に応募して佳作となり、それがきっかけでフィリピンを訪れた。ダバオではコプラのプランテーションや海洋民族(バジャオ)の水上部落を訪問し、地元の高校生たちと交流した。今でもその印象は強烈に残っている。日本では想像もできない貧困というものに出会ったが、そうした厳しい現実とは裏腹に、人々には奇妙にも不釣合いな幸福感が漂っていたのを覚えている。その幸福感とはいったい何なのか、とても気になってその後何度もアジアを旅し、気付いたら自分はこの仕事を選び、こうしてフィリピンに戻って来ていた。そして今は逆にダバオの若者を日本に送り出す側にいる(1位の副賞は日本での研修旅行)。

「戦後、日系人はいじめられるので名前を変えて、静かに暮らしていました。でも、小さな村では名前を変えてもわかるので、山の奥に隠れ、また、わかるともっと山の奥に家族と三十年も逃げました。みんな、ずっと服は一枚だけでした。本当のことを話すと、こんな悲しい歴史を私は知りたくなかったです。それは私だけではありません。フィリピン人にとっては忘れたい歴史だから、戦前の素晴らしいこともみんなに伝えなかったのだと思います。インタビューの最後に、『よく我慢しましたね。』と、私がおばあさんに言うと、『ふたつの血が流れているから強いんだよ。』顔は涙でいっぱいでしたが、おばあさんの言葉は二つの国が、昔のようにもっと強く協力できる日が近いことを、私に教えてくれているように思いました。」

若い18歳のまっすぐな眼差しの向こうには何があるのだろうか?

私は16歳の夏、このフィリピンと出会った。しかし、彼にとっての日本とは、私にとってのフィリピンとは比べものにならないくらいにずしりと重く、深いものかもしれない。



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