マニラホテルでマッカーサー元帥を思う

 

マッカーサー元帥の写真

知的交流会議事業の「日本アセアンフォーラム」に参加するため、マニラを訪れました。

最終日、空港に行く前の空き時間を利用して、マニラホテルに立ち寄りました。
このホテルは1912年創業の老舗で、マッカーサー元帥が太平洋戦争前に5~6年居住していたことで知られています。

ここには元帥の居室が今もそのまま残されています。スイートルームを特別に改造したようで、とにかく広く、執務室、大食堂、応接間などが続きます。関連資料も多数展示してあって、ちょっとした資料館となっています。

案内してくれた人から「君ら韓国人」と聞かれ「いえ、日本人」ですと答えましたが、意外な表情が返ってきたような気がしました。後で思い返すと、元帥の銅像があるアジアの国はフィリピンと韓国。いずれも元帥が勝利し、それぞれ日本と北朝鮮から解放したところ。韓国人と思われたのはそのためだったのかもしれません。敵対国であった日本人が熱心に見にくるのは不思議に思えたのでしょうか。それとも、日本でも元帥への関心が高いのを知らないのでしょうか。

韓国では最近の反米運動の高まりで、一部の暴徒が仁川にある元帥の銅像を撤去しようとする騒動がありました(結局それに反対する人たちと警官隊によって阻止されましたが)。世の中変わったものです。

元帥は史上最年少で陸軍参謀総長に就任し、退役後フィリピンの顧問として迎えられ、太平洋戦争までこのホテルに居住。太平洋戦争開戦前に、日米関係が悪化する中で再度米国軍人に現役復帰しました。

ちなみに元帥の父親も、陸軍軍人でフィリピン総督を努めています。フィリピンとは縁の深い家系です。元帥がアジア通を自任していたのもそのためでしょう。元帥は陸軍士官学校を史上最高得点で卒業し、その成績は今だやぶられていないとか。その後も史上最年少の士官学校校長と、いつも一番を通してきました。

第二次世界大戦で欧州戦線の連合軍最高司令官を務め、後に大統領となったアイゼンハワーの士官学校時代の成績は中の下で、マ元帥の副官を務めたことがあります。アイゼンハワーは当時を振り返って「私がマ元帥から学ぶべきだったのは尊大な演技だった」というようなことを言っています。皮肉をこめた発言と思われます。

あの有名なレイテ島上陸写真(下)もわざわざ取り直させたという逸話があり、元帥が広報効果を非常に重視していたのは間違いありません。さらにページトップの写真で被っている軍帽も、実は米国軍人の正規のものではなく、フィリピンより贈られた高級なものです。元帥はこれをとても自慢にしていたらしく、ルーズベルト大統領の特別許可を得て被り続けていたといいます。

 

レイテ島上陸の写真

Life誌に掲載された、歴史的意義を持つ写真(撮影 Carl Mydans

相当にきざですが、有名な「I shall return」や、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という米議会での演説、死去する数年前にウェストポイントで行った「・・・私の記憶は、最後は常にここに戻ってくる。そして、思い返す言葉は義務、名誉、祖国・・・(彼の人生最後の演説)」などというせりふが出てくるのは、さすがです。

ところで、欧州での英米連合軍最高司令官を選ぶとき、ルーズベルトとチャーチルは次のような条件を出しました。
「頭のいい幕僚は他にも一杯いるからいらない。英米のチームワークをまとめられるような人物。」

英米の将校が会議をしても意見があわず、途中で席をけって出ていくようなことが頻発していたようです。英国人はまだ大英帝国のプライドがあり、米国人はそれに我慢がならなかったのでしょう。そこで選ばれたアイゼンハワーは「I like IKE」と多くの兵士に敬愛され、見事に役割をまっとうした次第。その後大統領に選出され、2期8年をまっとうしたのも、なるほどと頷けます。
マ元帥は、英米連合軍の司令官に選ばれたとしても、失敗していたのではないでしょうか。しかしアイゼンハワーには、歴史に残る名演説がありません。

マ元帥も一時は大統領選に意欲を示しながら、結局は断念。アイゼンハワーが大統領に当選したときに感想を聞かれ「彼は私の優秀な副官だった。これからもうまく任務をまっとうするだろう」と、結構尊大なことを言っています。でもこれは負け惜しみというか、部下に先を越されたことが悔しかったのでしょう。

その尊大さから元帥の米国での評価は複雑ですが、日本では概して良いのでは。離日する元帥を多くの日本人が沿道で見送ったというのは敗戦国民、被支配者の態度として世界史上稀ではないでしょうか。元帥は占領国に恵まれたとも言えます。

日本とアジア、アジアと米国の関係を考える上で、たいへん面白い見学でした。

 

 

ページトップへ戻る