若者同士の絆がアジア・太平洋地域の未来を創る −アジア・パシフィック・ユース・フォーラム沖縄−

 

アジア・パシフィック・ユース・フォーラム沖縄の写真1

「今日、はじめてわかったんだ」。カンボジア出身で、現在アメリカの南カリフォルニア大学で国際関係学の博士課程で学ぶコサールが興奮している。タイのガゥインと話していて、お互いの国の言葉にいかに共通の単語が多いかに初めて気がついたと言う。言語学的にみるとカンボジア語とタイ語の双方ともインドのサンスクリット、パーリの両語からの借用が多い上、タイ語にはカンボジア語も多く入っている。隣国同士の知識人にとっても、こういったことが知られていないことに私はかえって驚いた。

一方、ベトナムのチー、タイのパイ、ミャンマーのティエンギー、ラオスのノイを含めたインドシナ女性陣は、メコン流域の開発の問題や国境を超えた難民問題について、一生懸命に議論している。人口12億人の中国から来たチーユーや10億人弱のインドのアイシャがいる一方で、人口90万人程のフィジーのルイサや東チモールのジョアキムがいる。モンゴルのオソロが地球温暖化について話すと、ソロモン諸島のサラナは温暖化で海面が上がれば自分の国が海に沈んでしまうと真剣な顔だ。

これは、那覇市内で私の見たひとこまだ。今年3月14日から10日間の日程で、「平和と繁栄への協働‐アジア太平洋地域共同体の形成に向けて」というテーマのもと、「アジア・パシフィック・ユース・フォーラム沖縄」(主催:国際交流基金・沖縄県、協力:財団法人国際文化会館)を、沖縄県で開催した。日本を含め18カ国から来た24名のメンバーを見ていると、まさにアジア・太平洋地域の縮図だ。

 

アジア・パシフィック・ユース・フォーラム沖縄の写真2

そもそも、「アジア・パシフィック・ユース・フォーラム」は、1974年に発足した「パシフィック・アスラマ」にその端を発している。これは、インドネシアのスジャトモコ (元国連大学学長)、タイの思想家スラック・シワラックらが中心となって組織した国際フォーラムだ。 文化的背景を異にするアジア各地の若者が寝食を共にしながら、言語・宗教・価値観などの差異を超えて共通の問題について話し合い思索することを通じて、相互理解と連帯意識を深め、交流の輪を広げることを目的としたものであった。

「パシフィック・アスラマ」は、1974年までに3回開催された後、資金的問題もあって途絶えていたが、1984年に国際文化会館が復活させた。1996年からは、国際交流基金が加わり「アジア・パシフィック・ユース・フォーラム」として数年ごとに開催されている。名称は変わったものの、「フォーラム」は、当初の「アスラマ」の精神を受け継ぎ、アジア太平洋地域の若手リーダーが、地域が共通に抱える経済開発、社会正義、地域文化とグローバリゼーション、アイデンティティといった大きな問題について、国や専門分野を超えて広い視野から合宿形式で議論を行い、人と人との顔の見えるネットワークを作ることを目指している。

私の所属する日本研究・知的交流部では、海外での日本研究の振興と知的交流の推進を目的として、研究者の派遣や招へい、研究機関・大学やNGOへの助成、セミナー、フォーラム等の開催などを行っているが、参加者の多様性や若者の合宿形式というスタイルをとっても、「アジア・パシフィック・ユース・フォーラム」は、なかなかユニークなプログラムだ。

日程前半の4日間は那覇市に滞在し、各人が事前に用意してきたペーパーに基づき、自分の現在の関心テーマについて発表を行った。その後、フィールドトリップとして米軍基地、平和祈念資料館などを訪問。5日目からは、慶良間諸島の一つ、座間味島に移動し、グループセッション。3つのグループに分かれ、グループごとに一つのロッジに滞在して、議論を深めた。8日目に那覇に戻り、総括セッションを行い、翌日行われた公開シンポジウムで全プログラムを終了した。

 

アジア・パシフィック・ユース・フォーラム沖縄の写真3

シンポジウムでは、各グループの発表にそれぞれの工夫が見られた。グループ1のテーマは、「安全保障と信頼醸成」。これまで周辺地域の政治的思惑によって大きな影響を受けてきた沖縄の歴史を、「オキナワ」という少女の物語としておとぎ話風に紹介した。その上で、沖縄の地理的戦略性と独自の文化的背景から、沖縄がこの地域のいわば「カタリスト(触媒)」として、地域の未来に貢献していく可能性を示唆した。

グループ2は、「持続可能な発展」を主題として、メコン川流域の開発や東アジアの開発を例に引きながら、経済発展と環境、人間開発のバランスを取っていくことの重要性について訴えた。さらに、国家レベルにおいて地域共同体構想の一貫として提唱されている「東アジアサミット」を補完するものとして、市民の代表による地域サミットを行うべきとの提案があった。

グループ3は、「文化とアイデンティティ」をテーマに、メンバー全員が参加して、演劇によるプレゼンテーションを行った。「もし、20XX年某国において「泡盛」禁止令が出されたらどうなるか」。固有の文化のメタファーとしての「泡盛」の消滅が、個々人や民族のアイデンティティを変質させていくありさまを象徴的に描いた。

シンポジウムの最後に発表された「沖縄宣言」はこういうフレーズで締めくくられている。「異なる場所から、さまざまな文化的背景を背負ってここに集まったわれわれは、『多様性の中の団結(unity in diversity)』をめざす旅を皆でともに歩む道を見つけていかなくてはならない」。

「多様性の中の団結」。10日間の合宿は、まさにこの言葉の真の意味を探るプロセスであった。

途中、思わぬことが起こった。那覇から座間味島に高速フェリーで移動する際のことだ。その日は朝から風が強く、海は大しけで、港を出てからジェットコースターに乗っているような激しいゆれが続いていたが、ちょうど中間地点あたりに来たときに、エンジンが急に止まってしまったのだ。しばらくするとアナウンスがあり、エンジンの故障で、座間味島まで航行することができないので、手前の渡嘉敷島に急遽行き先を変更するという。

船酔いでへたばっている一行を引き連れてどうしたものかと頭を抱えたが、結果的には、座間味村と渡嘉敷村の村役場間のすばやい連携で、バスと小型ボートが手配され、2時間遅れで座間味港にたどり着くことができた。混乱するなか、協力して荷物を運んだり、ダイビング用の小型ボートの上でびしょぬれになりながら手すりにしがみついたり、という共通体験は、皆の連帯感を深めるのに期せずして一役買ってくれた。

このようなハプニングもあり、最初は硬かった雰囲気も、日を追うごとに和んでくるのがわかった。もちろん文化的背景や専門、性格も異なる20人あまりの個性的な面々が10日間も一緒に生活を共にしていれば、細かな対立や行き違いは起こる。しかし、プログラムが終盤に近づく頃には、主催者の我々が驚くほど、シンポジウムでの発表の準備のために夜遅くまで協力して作業する姿が見られるようになった。

24名の参加者は、さまざまなセッションを通じ、このフォーラムを沖縄で実施したことの意味を考えていた。沖縄が、中国や東南アジアなど様々な近隣諸国の文化を取り入れながらも、いかに独自の文化を維持、発展させてきたかを学ぶとともに、戦争の悲惨さや米軍基地問題を間近に見ることで、国際政治、安全保障の問題を肌身に感じていた。そして、それが彼らの議論に深みと厚みを加えたと思う。「私たちは沖縄で多くを学んだ。シンポジウムでは少しでもお返しをしたい。だから、一生懸命知恵を絞っている。」と参加者の一人が言った言葉が強く印象に残っている。ここに生まれた24名の小さな「共同体」が、プログラム終了後も、長く継続し、さらに大きく育っていってくれることを期待している。

 

 

 

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