中国人ベストセラー作家・余華(ユイ・ホア)氏の講演に思う第一部 日中を見事に結ぶ講演会

余華氏の写真

余華氏
撮影:森下茂行

木下俊彦
早稲田大学国際教養学部教授


8月30日に開催された国際交流基金主催の中国人作家・余華氏の講演会に参加した。まれに見るすばらしい講演会だった。東大文学部・藤井省三教授のモデレーターぶり、王小燕(ワン・シャオ・イェン)小姐の通訳も見事だった。余華氏 =写真= は、浙江省海塩出身の中国きっての売れっ子作家である。

『活きる』、『兄弟』の表紙画像

左:『活きる』飯塚容氏訳、角川書店発行 右:『兄弟』
撮影:森下茂行

謀(チャン・イーモウ)監督の映画「活着」(邦訳名「活きる」)は、94年にカンヌ国際映画祭の審査員特別賞、主演男優賞という2部門で大賞をもらった名画だが、その脚本の原作者とはどういう人だろうかという好奇心をもって講演会に参加した。92年に出版の小説『活着』は20万部のベストセラーになった(邦訳は『活きる』=写真左=飯塚容氏の訳、角川書店発行)。
昨夏、氏は10年ぶりに長編小説『兄弟』=写真右=を発表。純文学ながら100万部のベストセラーになった。『毎日新聞』(9月5日付)によれば、上下二巻で、「人間性を否定し抑圧された」文革期とその後の「何もかもが開放され欲望が渦巻く」現代を書きわけている由(近々、邦訳も出る)。「時代の暗部に切り込んだ精緻な表現が民衆の心をつかんだ」と評される。中国国民も、周囲の環境のあまりの激変に当惑し、心のいやしを求めているに違いない。良質の文芸作品ばかりではない。中間層が増え、ひとびとの価値観も多様化し、それぞれが共感できる各種の書物、映画、音楽、アニメ、その他の趣味を求め出したのである、心のいやしを求める点では、中国の民衆も世界の他の国に近づいているということだろう。

藤井省三教授、余華氏、通訳:王小燕氏の写真

左より 東大文学部・藤井省三教授、余華氏、
通訳・王小燕氏
撮影:森下茂行

午後7時、余華氏が会場にあらわれた。微笑を絶やさない、中国のどこにでもいる農村出身のお兄さんといった感じで、とても46歳には見えない。
この日の講演会は一問一答方式で、藤井教授がまず、中国の歴史などを良く知らない聴衆に簡単に時代背景などを紹介しながら、余華氏が話しやすい雰囲気をつくっていくという主催者の配慮だろう。氏は、まず、『活着』を書くきっかけとなった生まれ故郷海塩市の特色を語り、自分の書くものは、すべて、自分が生まれ育ったあの風景の中で位置づけられるのだ、と述べた。氏は、医師の息子として生まれるが、7歳のときに文革が始まる。学校では授業は行われない。自宅の池は死体の置き場になったりする。井戸に落ちて死ぬ夢でうなされたり、霊安室は夏でも比較的涼しいので、空いているときは、そこで昼寝した、という衝撃的な話も混じる。
氏がその小説で描いたのは文革の中でしたたかにいきる名もない民衆だった。映画『活きる』の印象的な場面が数分画面に映し出される。
文革の記憶は全て必ずしも鮮明ではないというが、氏の感受性の鋭さ、深い分析力、写実的な表現力に魅せられる。
うれしい驚きは、氏が執筆し始めた動機が、ノーベル賞作家・川端康成の『伊豆の踊り子』などを読んでインスピレーションを得たということだった。生まれ故郷・浙江省は、季節がはっきり4つに分かれる春夏秋冬があり、風光明媚なところである。そういう季節感や土地柄も氏が神奈川県鎌倉の人・川端康成とフィ-リングがあった理由のひとつかもしれないと思ったりした(私も本年3月同省の蘭亭や魯迅・周恩来の旧居を訪問、感銘を受けた)。

新刊書『兄弟』の背景について余華氏はいう。「西欧は抑圧された中世から現
代まで400年かかった。だが、中国では文革から現代までが40年に凝縮された。(自分が)その大きな時代を生きたのは貴重な経験」と。この2冊の本は人間の自我を描いた私小説だ。
過去400年、西欧はその間に封建社会から近代化していったが、一方で、非西欧地域の大部分を植民地にした。その400年の最初の250年余、そのとき日本は江戸時代だった。鎖国の時代であり、封建時代だったが、大衆文化は花咲き、完全に抑圧された時代ではなかったとされている。江戸末期、日本は西洋に開国を迫られ、明治維新が起こる。それから100年、日本は他のアジア諸国に先駆けて近代化する。その間に近隣国に大きな犠牲も与えた。ひとびとはそうした近代化をさまざまに解釈し、明治以降、膨大な数の私小説が消えては、また、現れた。そこでは生きる人間の自我と社会とのジレンマが書かれることが多かった。読者は、心のいやしをそれらに求め、喜びや哀歓を共有したのである。

日本の敗戦後、内戦に勝った中国共産党は中華人民共和国を樹立。しかし、その直後から、朝鮮戦争、大躍進政策、という狂乱の時代が始まり、民衆の苦しみは続く。ソ連との対立、そして文化大革命。それは、プライバシーのない世界で、民衆の心をいやす文芸作品が現れる余地はなかった。知識人への虐待が常態化していた。それから、10年余、鄧小平(トン・シャオピン)氏の再登場。そこから、余華氏が『兄弟』の後半に描く「改革開放」時代に入る。そこでは、年率10%という急成長が続き、ひとびとは幸運を求めるが、同時に、拝金主義、汚職がはびこり、民衆の心は病み、心のいやしを強く求めるようになっている。

「80年代、中国人は皆日本に憧れ、なんでも日本から学ぼうとした、電化製品といえば日本製だった、90年代になると中国人の関心は米国に向かった」と余華氏は述べた。両国民の多くは忘れているのではないかーそういう時代があったことを。「今回、日本の京都、奈良、大阪、鎌倉を家族と回って、日本人の感性の繊細さとさりげない気配りに深い感銘を受けた。それは中国にはないものだ。中国にも日本にない優れた文化や世界がある。中日両国民が相手の優れた資質を認め合えば、相互理解が進み、共生は可能となる」、そういって氏は講演を締めくくった。全く同感。質疑応答も、自然でよかった。会場に来て万雷の拍手を送った多数の日本人、中国人聴衆も同じ気持ちだったに違いない。
たまたま会場で知人に会い、一緒に来ていた彼のいとこを紹介された。その人は東京の高校教諭で、これまで余華氏の新作を自主的に翻訳し、自費出版してきたという。彼は、「今日初めて、その著者に会えます」と述べた。彼と余華氏は、講演後の懇談で自己紹介しあい、老朋友のように、いとおしく握手を繰り返していた。(第一部終了)

木下俊彦氏プロフィール

早稲田大学国際教養学部教授
早稲田大学総合研究機構・プロジェクト研究所、日本アジア経営・技術統合研究所所長(毎月「早大中国塾」を主宰)
略歴
1963年日本輸出入銀行(現国際協力銀行)入行。
ジャカルタ首席駐在員、財務部長、海外投資研究所長などを歴任。
1996年 同行退職。その後日本経済研究センター・研究委員、日本輸出入銀行・海外投資研究所顧問などを務める。
2000年早稲田大学商学部・商学研究科教授に就任。
2004年より現職

専門分野
国際金融とくに直接投資、アジア経済、国際開発、国際企業経営、プロジェクト・マネジメント、経済協力。

日本輸出入銀行在職中より、現在にいたるまで、政府機関、学術団体などにおいて、数々の外部委員を歴任。

ページトップへ戻る