「アチェの子ども達と創る演劇ワークショップ」 ~きっかけから実現 そして未来へ~ (2)ワークショップ実施報告

「アチェの子ども達と創る演劇ワークショップ」~きっかけから実現 そして未来へ~

~紛争被害の傷跡はどのように現れ、私たちはそれにどのように向かい合ったか~

1. 参加者の顔ぶれ
2. スタッフ側の事前ブレーンストーミング
~ワークショップにおいて子どもたちの紛争被害をどのように扱うか~

3. ワークショップで現れた紛争の傷跡 ~「帰りたい」と泣き出す女の子たち~
レニの不安(合宿2日目
女の子たちへの対応策(合宿3日目)
彼女たちの気持ちと態度の変化(合宿4日目)
4. 作品づくりのテーマは「10年後のアチェ、アチェの未来」
~作品づくりのプロセスをどう進めるか、スタッフ側のブレーンストーミング~


ふたたび、レニ(合宿最終日)

子どもたちに外の世界への扉を開いた「日本」

1.参加者の顔ぶれ

1年半にわたる準備期間を経て、ついにこの企画は「アチェの子供たちと創る演劇ワークショップ」として実現しました。ワークショップは合計8泊9日にも及ぶ長丁場。参加したのは、紛争被害の激しかったアチェ州の3つの地域、ピディ県、中アチェ県(タケゴン9名、ブナール・ムリア1名)、北アチェ県の3つの地域から選ばれたそれぞれ10名ずつ、合計30名の中高校生達です。

それ以外に、さまざまな立場の大人が加わり、総勢60名以上のチームになりました。日本から参加した専門家は世田谷パブリック・シアター等で子どもを含む一般向けの演劇ワークショップを行う花崎攝さんとすずきこーたさん。それから、アチェの伝統的な語りの技術をマスターし、現代風にアレンジしてインドネシア全土で公演を行うアーティスト、アグス・ヌール・アマルさん。加えて、今回ワークショップの企画から子どもの選定、事業の運営を担ってくれたJFの現地カウンターパートのNGOTikar Pandan(TP)のメンバーと事務局。その他、ワークショップのファシリテーターとして参加してくれたアチェ人NGOスタッフ。3つの地域から、子供の付添人としてやってきた関係者。記録映画の撮影チーム。評価者を務めてくれたマレーシア科学大学で演劇理論を研究するジャネット・ピライさん、それから我々JFの本部、東南アジア総局、ジャカルタ日本文化センター職員の計5名。通訳の方々、、、これに加えて、プログラムのクライマックスとなったバンダアチェ市内のアチェ・コミュニティ・センターでの発表前日から、参加した子どもの家族も呼びました。最終日の記念写真はこんな感じ、学校みたいですね。


ワークショップ参加者・スタッフ集合写真

ワークショップ参加者・スタッフ集合写真の写真

合宿場所となったのは、バンダアチェ市から車で約一時間半ほど、アチェ・ブサール県のサレーという地にある、地方政府が持つ研修施設です。サレーは、若い人たちがお茶を飲みに来るような、リゾートというと大げさですが避暑地のような雰囲気の場所。

ワークショップ会場の写真1 ワークショップ会場の写真2
ワークショップ会場

60名以上の人数で9日間合宿生活を行ったのですから、事件が起きないはずはありません。私個人としても、忘れられない出来事、特に印象深い子どものエピソードは沢山あって、ここではとても書ききれないのですが、3カ月経った今振り返ると、一番大きなテーマは、やはり、参加者の子どもたちが背負った紛争の傷跡、これがどのようにワークショップに現れたか、そしてそれに私たちはどのように向かい合ったか、ということに集約されるかと思います。

2.スタッフ側の事前ブレーンストーミング
~ワークショップにおいて子どもたちの紛争被害をどのように扱うか~

今回ワークショップのプログラム内容を中心的に企画してくださった花崎攝さんは、フィリピンのPetaやタイのMayaなど、アジアで演劇やワークショップの手法を取り入れた社会改革や社会運動を行なっている芸術家との交流が長く、また、米国のニュージャージー州の精神病院付設の高校で、問題を抱えた高校生に演劇を教えたり、最近では、水俣病患者と(水俣の)健常者との交流を目的とした作品制作を行うという実績も持つ方です。花崎さんは、事前に2度にわたり現地調査にも参加して下さり、アチェの現地事情や子供たちが置かれた状況についても詳しくNGO関係者等から聞き取りされていました。とはいえ、外国人が、アチェで紛争被害に遭った、肉親を殺された、暴力を目撃した、暴力の脅威にさらされた子供たちを対象にワークショップをやるというのは相当に難しい仕事です。花崎さんと私との間で、また、カウンターパートであるTPのメンバーとの打ち合わせで、子供たちの紛争被害にどう向き合うかという点について、事前に議論したのは主に次のようなことでした。
  • GAM(独立派武装ゲリラ、アチェ独立運動)側の紛争被害者だけではなく、(政治的に)インドネシア国軍側につき、GAM側から被害を受けた被害者も参加者に含めるかどうか。
  • 紛争をディスカッションのテーマに取り上げるかどうか。また、その方法。
  • 子どもが(過去の経験を思い出し)フラッシュバックなどを起こした場合の、サポート体制をどのように築くか。

私たちは、企画の趣旨から言って、紛争の背景の異なる子供たち、インドネシア国軍の暴力による被害者(こちらの方が人数は多いわけですが)と、GAMの暴力による被害者(インドネシア国軍に近いバックグランドを持つ子ども)と、両方を入れることが重要だと考えました。その場合、ワークショップの中で紛争がテーマに上り、双方の子どもが過剰に感情的になってしまうというような事態もありうると考えたのですが、あえてそれは避けずに行こうと。とはいえ、逆に無理に主催者の側から、子供たちにそれぞれの紛争被害の体験を話すよう強制することもしない、というスタンスで合意しました。また、参加する子供たちに、あらかじめ自分の「宝物」を持ってきてもらうようお願いし、その「宝物」に関する詩を創作してもらうというセッションを(4日目のプログラムに)設けていましたので、花崎さんと私とは、詩の発表をするなかで自然と両親のこと、家族のこと、紛争の話、などが出てくるのではないかと考えていました。

最後の点については、花崎さんの方から、ワークショップの進行をサポートするアチェ人ファシリテーターの中に、<1>以前から子どもたちと親しく、彼らのことを分かっている人、<2>心理学やカウンセリングの訓練を多少なりとも受けた人を入れてほしいというリクエストがありました。<1>については、子供の出身地域から、付添い人としてついてきてくれた大人が参加したことで解決がつきましたが、<2>については、そのような人材を探したのですが、実質的にワークショップの運営・実施をすべて担当してくれたTPスタッフとうまく協力体制を築いて、全日程参加してくれるような人が見つからず、今回は実現しませんでした。

3.ワークショップで現れた紛争の傷跡
~「帰りたい」と泣き出す女の子たち~     

ワークショップをやってみると、実際には、事前に私たちが想定したような、「紛争」に関する議論が紛糾して収拾がつかなくなるといった事態、あるいは子供が過去を思い出してフラッシュバックに合う、といった状況にはなりませんでした。いくつか、特に男の子の参加者の中には、武器やGAMの旗の絵を描き続ける子がいたり、また、「アチェの未来」というテーマで意見を言ってもらうと、国軍兵士を父に持つタケゴンの男の子が「アチェはインドネシアの枠内で発展していくべき」といえば、GAM兵士の父を失った北アチェ県の参加者は、「アチェは自立(Mandiri)すべき」とすかさず返す、といった意見の対立は見られました。でも、だからといって、双方が感情的になって交流が進まないということはなく、自由時間には立場の異なる子供も一緒にバトミントンをやったりタケゴン地域(ガヨ人)の伝統芸能であるディドンを習ったり、紛争背景の違いが交流を大きく妨げる要因とまではなりませんでした。

それよりももっと深刻に、ワークショップの中で現れた紛争の傷跡は、今回、選ばれた3つの子どもの出身地域の中でも、特に紛争被害が深刻と言われていた、ピディ県から来た9人の女の子達の行動に現れました。

彼女達は結託して「帰りたい」と主張し、全員ではありませんが、そのうちの数名、特に高校生の女の子達は精神的にも不安定な様子で、泣いたり、ワークショップの場所に来なかったり。疲労もあるのでしょう、インドネシア語でいう「Kemasukan」(憑き物が憑く)状態でパニックになってしまった子もいました。私たちはこのM村の女の子たちに振り回され、対応に悩みました。

結果的には、彼女達は、「帰りたい」「やっぱりやってみる」「やっぱり帰りたい」、、、と二転三転した挙句、自分は参加したいと主張する子も出てきて、少しずつ雰囲気が変わり、5日目から全員がワークショップに参加するようになり、5日目からスタートした作品づくりに加わり、全員が最後の舞台に立ちました。このM村の女の子達の物語について、少し長くなりますが、紹介します。

レニの不安(合宿2日目)

ピディ県の女の子たちの「帰りたい」は、2日目から始まりました。朝食を終え、ワークショップ会場となっている講堂へ向かっていると、彼女達の宿泊棟に人だかり。近づいてよく見てみると、レニという17歳、高校生の女の子が、「私、帰りたい」としくしく泣いてます。彼らの付き添いで来ていたKontras(「行方不明者と暴力の被害者のための委員会」)というNGOのスタッフ、イスマイルが、必至にアチェ語でなだめています。ワークショップの開始時間が過ぎていたため、レニだけ部屋に残してそれ以外の女の子とイスマイルを講堂に行かせました。私自身は、レニのことが気になって、飲み物を持って彼女の部屋をノックすると、入っていいよとの返事。それから彼女の話を聞きました。

自信がない、インドネシア語ができない、家に帰りたい、ここは居心地が悪い、学校を休んできているのに、ワークショップに何の意味があるかわからない。

実は、ワークショップは、主催者や関係者の都合と、前年末にアチェで州知事選挙が行われ、治安の悪化が心配されたことなどから、結局学校の休みの時期に合わせることができず、学期中に行われました。とはいえ、元紛争地には学校に行っていない子供も多いので、そうした子供を対象にやろうというのが当初の予定だったのですが、ふたを開けてみると、TPが接触した地域の関係者(宗教指導者や村長など)の期待が高かったこともあり、学校を休んでワークショップに参加して良いという学校側や家族の許可が取れ、参加した30人のうち、1人を除いた29人は学校へ行っている子どもでした。

ピディ県では、地域のコンタクト・パーソンがワークショップの趣旨をうまく理解できなかったのか、「正式なアチェ語が習える」「アチェの踊りが習える」と誤って子供たちに内容を伝えていたことも、後になってわかりました。

レニが動揺したのも、ワークショップが何を目的としているのか、自分の想像の範囲を超えているという面もあったと思います。でももうひとつ、彼女が強く訴えていたのは「自信がない」で、そこには彼女の自意識の揺れと、大きな不安が感じられました。

そのM村では、子供たちの日常のコミュニケーションはアチェ語で行われているようで、インドネシア語は「学校で勉強する言葉」とのこと。北アチェ県の子供たちもそれは変わらないようでしたが、タケゴンの子供たちは、ジャカルタ風のスラング混じりのインドネシア語を自由に操り、他人の前でも堂々と意見を言う子供が多かった。紛争被害の背景も、M村の子供たちは、お父さんが、地中に埋められ袋詰めにされヘリコプターで宙づりのままメダンまで引きずられるという拷問を(インドネシア国軍から)受けたため精神異常になってしまった子、目の前で叔父さんが国軍に拷問されそのまま殺されてしまった子、双子の二人のお兄さんの一人は国軍に殺され、もう一人は半身不随になってしまった子、など肉親が直接的な暴力の被害を受けたという子が多かったのですが、タケゴンの方は、親が国軍兵士など政治的にインドネシア政府に近い子も多く、かつ、被害の状況も、暴力よりは、家が焼かれるといった物質的な被害を受けた子供の方が多かったという事情もありました。紛争下の状況を聞いても、M村はGAM拠点の山岳地域のふもとにあることから、村民はGAMシンパと見られ厳しい弾圧を受けた、弾圧を恐れて別の地謔ノ避難したため、成人男性が全くいなくなった時期があった、M村の子どもが通学途中に銃撃戦にあっても、なかなか近隣の村でかくまってもらえなかった、などかなり深刻な状況であったと推測されます。それに比べてタケゴンでは、弾圧の厳しさというよりも国軍派とGAM派が入り乱れて政争化したひとつの象徴的な地域ということで、今回対象地として選ばれました。

インドネシア語で堂々と意見を言うタケゴンの子供たちの前で、レニが自信をなくしてしまったとしても不思議ではありません。そもそも、M村は、今も近くに大きな道路がないため、村外の人との交流はほとんどないとのこと。

私は、レニを前にして、何と言っていいやら途方に暮れ、でも自分の人間性が試されているような気がして必死でした。
ほかの地域の子供たちと、日本人と友達になれるチャンスなんてなかなかないんだよ、ワークショップでは正式なアチェ語は習えないけど、ほかの誰のためでもなく、レニやみんなが自分に自信を持てるようにって攝さんやこーたさんやアグスやみんな考えてるんだよ。レニ達が帰ったら私たち寂しいよ。
でも相変わらず彼女は泣き続けています。

レニは自信ないっていうけどね、M村のみんなが到着したとき、私がみんなに話しかけたら、レニが真っ先に笑ってくれたでしょ。それで私救われたんだよ。日本人である私に真っ先に素敵な笑顔を返してくれたレニが、ほかの地域の人と友達になれないわけないでしょ。
と言ったら、急に彼女は泣きやんで、こちらを向きました。
レニはかわいいし、心がきれいだから、ほかの友達にもすぐに通じるよ。

これには、姉さん(Kak)、人間は見た目じゃなくて心でしょって返されてしまいました。でも、そこで急に、「私できるかもしれない、やってみる、ワークショップに出る」って言ってくれたので、2時間近く続いたこのやりとりも終わり、私は安心し、真っ赤にはれた目が恥ずかしいから少し顔を洗って、昼食後に必ず行くからというレニを残してワークショップ会場へ向かいました。

レニさんの写真

レニ

それが、昼食が終わってまたレニの部屋へ行ってみると、M村の女の子9人が結託してまた「帰りたい」の合唱。「レニはもう帰らないって私に言ったよ」っていうと、彼女は複雑な表情。ほかの女の子たちと話して、やっぱり帰りたくなったとのこと。思春期の女の子たちはこれだから難しいというか、本心はどうであれ、誰かが強く主張すると、おいて行かれたくないばかりに連帯するみたいです。
でも、泣いていた時と違って、レニの顔も少し明るくなっていたので、「じゃあとにかく今日はワークショップに出てね。明日はバンダアチェ市内への遠足だから、行かないともったいないでしょ。戻ってきてまだ帰りたかったらまた話そう」と言ってなんとかみんなのお尻を叩いて講堂へ。

やれやれ、でも朝よりはちょっと表情が安定したかと、その時は思いました。午後は模造紙の上に順番に寝っころがり、身体の形をペンでなぞり、その人の性格や趣味やその時の気持ちに合った模様(たとえば音楽が好きな子は音符を描くなど)を入れて、最後に皆の前でプレゼンテーションするという内容。

M村の女の子たちは作業を淡々と続けていました。レニがふと私に、「姉さん、私って、絵が下手だよね」。私は、後で考えれば失敗したな、と思うのですがつい、「色をつけてみたらいいのに?」と言ってしまいました。本当はあの時、レニは褒めてもらいたかったんだろうな。

ひと型とり」セッションの写真

ひと型とり」セッション

翌日は、バンダアチェ市への遠足。貸切バスで行きました。訪問したのは、州立博物館、海岸、市場。最終日の発表の舞台、アチェ・コミュニティ・センターの会場も皆で視察に行きました。参加した子どものほとんどは、バンダアチェ市内へ行くのは初めて。タケゴンから来た男の子たちに至っては、生涯で初めて海を見るとのこと。私は、最初から最後までM村の女の子たちの表情が気になっていたのですが、レニを含む高校生の何人かは、笑ったと思ったらまた暗い顔に戻り。表情が安定しません。この旅行から戻った直後、M村の別の高校生の女の子、エカが、インドネシア語で“Kemasukan”、何かに「憑かれて」パニックになり、近所のオラン・ピンタール(霊能者)を呼んで治めてもらったとのこと。やはり彼女も精神的に不安定で、かつ疲れが溜まっていたようです。

アチェの州立博物館で―M村の女の子たちの写真

アチェの州立博物館でーM村の女の子たちー

女の子たちへの対応策(合宿3日目)

3日目の晩、定期的に開催していたスタッフとファシリテーターの会議で、M村の女の子たちにどう対応するか、対策を議論しました。提案されたのは二つ。ひとつは、部屋割りを変えること。それまでは、TPが子供たちに割り当てた部屋は、出身地域別になっていました。これを地域混成にする。M村の女の子たちが相互に影響を与えあって不安が増幅しないように。もうひとつは、付添い人の女性Sさんのこと。彼女はイスラム教指導者でかつ年長者(50歳近くでしょうか)ということもあって、ワークショップのあいだ中、自分が父兄から預かった(と責任感を感じている)M村の子供たちに、ああしなさい、こうしなさいと細かい指示を出し、それが子供たちのやる気をそいでいるのではないか、ワークショップでは自由な表現を求めているのに、彼女の指導はその逆で、混乱を招いている。ワークショップの進行に直接関係もなく外国人の私が、さりげなく彼女を連れだして(紛争時の被害状況についてインタビューしたいからとか言って)、彼女を引き止め、彼女の目をそらす役割を果たしてほしいと言われ、その時から私の仕事がひとつ増えました。

彼女たちの気持ちと態度の変化(合宿4日目)

翌朝、4日目も、問題は続きました。約束なのでSさんを連れ出して別の部屋でインタビューを開始しようとしたら、またM村の女の子たちの宿泊棟でもめている様子。高校生の、レニ、エカ、ディッタがワークショップ会場まで出て来ず、新しい部屋割にも反対している模様。

花崎さんが、ワークショップに出てきた他の地域の子供たちに、彼女たちが部屋に留まっている状況を説明し、ワークショップを続けるか、どうしたいか尋ねたところ、彼女たちを迎えに行こうという提案が。皆でM村の女の子の部屋を訪れ、一緒にワークショップに参加しようと熱心に誘っていました。さすがにこれには彼女たちも嬉しかったようで、表情も雰囲気も明るくなりました。私はもうここまで来ればいくらなんでも大丈夫だろうと安心してまたSさんのところへ。

ミラさんの写真

ミラ(右)

すると、今度は、部屋に残っていた高校生3人と、同じM村の中学生、ミラの4人が、マレーシア人で評価者として参加していたジャネットさんに連れられて私のインタビュー会場の日本人宿泊棟の前に。どうしたのかと聞いたら、彼女たち4人がやっぱり帰りたいと主張するのでジャネットさんと議論するとのこと。女の子たちとの関係が少しぎくしゃくしていたSさんは自分がいると差し障りがあるだろうからと部屋に引き返し、私も4人との議論に加わりました。

ジャネットさんは、マレーシアで子どもや青少年の演劇に数十年携わってきた、経験豊富な演出家でかつ研究者なのですが、この時の彼女の対応は本当に見事でした。

彼女は一通り4人の主張を聞いた後で、まず中学生のミラに、「あなたと仲の良いほかの中学生の女の子たちはワークショップに参加するって言ってるのに、いいの?あなたが帰っちゃったらほかの子たちはどうなるの?寂しいんじゃない?」

するとミラは突然泣き出しました。彼女は、中学生の女の子グループ4人を自分が中心になって引っ張っていると思ったのに、ほかの3人がやっぱりワークショップに参加したいと言い出したので、自分だけ急に一人ぼっちになって驚き、泣きだしたようです。

次に高校生3人に対しては、「あなたたちの妹の、中学生3人はワークショップに参加したいと言ってる。あなたたちいいの?面倒みてあげなくて?年長のあなたたちが帰ったら彼女たちだってやりずらいんじゃない?あなたたちにサポートしてもらいたいんじゃない?」

すると彼女たちは、少し3人で相談したいとのこと。別の部屋に入り、5分か10分話したあと、レニがさっぱりした顔で出てきました。「やっぱり参加する」。「部屋替えもする」

これで4人がワークショップ会場へ。やっと全員そろってワークショップが始まりました。ジャネットさんに後で意見を聞くと、「彼女たちは本当はあまり仲が良くないのかもしれない。彼女たちを連帯させているのは不安。参加したい子供もいるのだから、その子達は参加させて、ひとりひとりの気持ちを確認するのが重要。それから、異年齢の子が集まっている時は、年長の子に年下の面倒を見させるという関係づくりが大切。そうすることで、年長の者には責任感が生まれてくる。」 さすが、と思いました。

この日の午前は、めいめいが家から持ってきた「宝物」について詩を創作するプログラム。レニは自分のジルバブ(イスラムのベール)に関する詩を詠んで、皆の拍手喝采を浴び、顔が生き生きしてきました。詩を創作と朗読が終わった後、ここまでのプログラムの感想を子供たちに書いてもらいました。その中で、レニの、「日本人と友達になりたい。だから帰るのはやめる」というメモを読んだ時は私は涙がでそうに。北アチェ県から来た中学生で、歌も踊りも最高に達者なイダが、「友達が帰ったらさびしい。帰らないで」と書いていたり、ミラも、「もう帰りたいなんて言わない」と。

でも、実はこの後、この日の午後にももうひと山ありました。この、M村の9人がまた結託して、TPのスタッフに「帰りたい」と持ちかけました。もうこの時は彼女たちも感情的に安定している感じで、「さっき帰らないってメモに書いてたじゃない」と言われるとミラは照れ笑いもしてました。最後は、京都大学の博士課程在学中のアチェ人詩人で、通訳兼ファシリテーターを務めてくれたシャフウィナさんが、イスラム教徒のくせに一度約束(帰らないと言ったこと)したことを反故にするなんて許されないと一喝すると、彼女たちも納得したようで、その後は帰りたいという話は消え、翌日からの作品づくりにそれぞれグループに分かれて参加しました。

私たちが取った二つの対策がどの程度功を奏したのかどうか、どの対策が最も効果的だったのかは定かではありません。でも、この日の夜から部屋割が変わり、別の地域の女の子たちとそれぞれ部屋を共有するようになった彼女たちから、これ以降「帰りたい」は聞かれなくなりました。また、ほかの子供たちが迎えに来てくれたという経験は、彼女達の気持ちに大きな影響を与えたのではないかと個人的には思います。

4.作品づくりのテーマは「10年後のアチェ、アチェの未来」
~作品づくりのプロセスをどう進めるか、スタッフ側のブレーンストーミング~

この4日目の夕方に、花崎さんは子供たちを中庭に呼んで、最後の発表のプログラムについて話をしました。グループ別で創る演劇作品のほかに、自由時間に皆で練習してきた踊りや歌や、希望者による詩の朗読を入れてもらってもいいんだよ、と子供たちができること、やりたいことを列挙して、彼らの不安感を少しでも取り除こうという意図があったようです。もうひとつ、この日、花崎さんの方から、皆にそれぞれ考えてもらいたいテーマとして、「10年後のアチェ、アチェの未来」というテーマが出されました。

「アチェの未来について」というテーマについて語りかける花崎氏の写真

「アチェの未来について」という
テーマについて語りかける花崎さん

この日の晩のスタッフ・ミーティングでの中心的なテーマは、翌日から始まる演劇作品づくりのプロセスをどう進めるか、でした。このワークショップの趣旨からいって、紛争被害者を集めて創作にあたるわけだから、「未来」だけではなく「過去」にも触れるべきではないか、あるいは「平和」をテーマにすることで、紛争についても考えられるような導入にすべきではないか、という意見も出た一方で、おもにTPやアチェ人のファシリテーターの側から、無理に紛争について話す必要は低いのではないか、それよりも「未来」にフォーカスすべきだ、という意見が強く、また、私たちの共通の不安材料として、M村の女の子たちの状態もあったので、結論としては、「アチェの未来」を導入に、参加者がそれぞれの意見を発表し、それを作品づくりの基本的テーマにつなげていく、また作品づくりのグループ割については、できる限り異なる地域の子供が入るよう考慮し、子供たちに決めさせる、という方向に決まり、ミーティングを終えました。

結局、この後、異なる地域の参加者が混じったグループに分かれ、2日間にわたるグループワークを経て、「森林伐採」「交通事情(の悪さ)」「学校運営と橋の建設(のための助け合いの重要さ)」「未来のアチェ知事のスピーチ」「貧しい子供が教育を得て有力者になるサクセス・ストーリー」を主題とした5つの作品が出来上がり、子供たちは全員舞台に立ちました。プログラムの構成づくりも当日の司会進行もすべて子ども達だけで行いました。

「過去」や「紛争」を無理にテーマに取り上げない、と決めた私たちの決断が正しかったかどうか、はわかりません。でも、帰りたいとか自信がないとかすったもんだしたM村の女の子が、全員舞台に上がったこと、最後まで参加できたことはひとつの成果だと私自身は思っています。4日目の夜のミーティングで、TPの代表で作家の、アズハリが言った言葉が印象的です。彼は、「紛争をテーマとして取り上げても取り上げなくても、精神的に不安定なM村の女の子たちを通じて、すでにこのワークショップには紛争被害が持ち込まれている」。その後のメールを通じたやりとりでも、「紛争をVerbalに(言葉で)取り上げることが重要なわけではない。そんなことしたらワークショップの場が途端にぎくしゃくしたものになる。それに、紛争に関する政治的な対話は少しずつ始まっているのだから。でも、未だアチェで行われていないのは、紛争において立場が異なった人間が、(紛争について話すためではなく)、一緒に何かを創ったり、人間的な関係を築くための市民のフォーラムで、このワークショップはそのひとつのモデルになりうる」と。もうひとつ、彼のビジョンとして、ワークショップに参加した子どもたちが、村にAってから「平和のInitiator(創始者)」になればいいのだと。

ふたたび、レニ(合宿最終日)

さて、私が一番時間を費やした高校生のレニについて、その後の話を少し。彼女は、もともと詩が好きだったのでしょう、アチェ・コミュニティ・センターで行った発表の場では、グループとしての作品発表のほかに、希望者で作った詩の朗読セッションに参加し、堂々とインドネシア語の詩を詠みあげていました。最初私が騙されてたのか?と思うほどの変貌ぶり。でも、よくよく考えてみると、彼女は最初からいろいろとやってみたくて、自分の中の自意識と葛藤していたのかもしれません。私たちに背中を押してもらいたかった部分もきっとあるだろうと思います。

舞台上で詩を朗読するレニさんの写真

舞台上で詩を朗読するレニ

レニの村、M村が紛争中どんな状況だったのか、私には想像がつきません。でも、銃撃戦が続き、見せしめのために村人が殺され、男性が避難していなくなり、女性も武装する、、、。そういった緊迫した状況の中で、子どもが自由に意見を言ったり、歌や踊りを楽しんだり、といった余裕は全くなかったことだけは確かでしょう。もうひとつ、具体的にどの子どもの両親が該当するかはわからないのですが、M村では、男性がGAMの戦闘に参加するため山岳地帯へ隠れたり、別の地域に避難したりする中で、避難先や逃走先で別の女性と結婚する、というケースも多かったようです。紛争が家族関係も複雑にする、そのことが子ども達に与えた影響も大きかったかと思います。彼女達に、このワークショップの成果としてどれだけのものを残せたのか、レニたちは今どうしているのか、とても気になります。

5.子どもたちに外の世界への扉を開いた「日本」

ぜひ日本のみなさんにご報告したい点がもうひとつ。このワークショップを実施するにあたって、「日本のことを知ってもらいたい」「日本文化を伝えたい」というのは、頭の隅にはあったものの(もちろんJFの職員としては、、折り紙を持っていったり日本のお餅を持って行って焼いたりもしたのですが。また、インドネシア語字幕つき日本映画も上映もやりました。でも)、特にワークショップの中心的な目的ではなかったのですが、現地で「日本のことを知りたい」という子供たちの熱意にびっくりしました。花崎攝さんやすずきこーたさんがワークショップのなかで使う日本語をオウム返しに叫んだり(「じゃあ」というのがみんなのお気に入りに)、片言の日本語を覚えて必死に私たちに話しかけてきたり。あまりの熱意なので、ジョクジャカルタの短大で日本語の授業を教えた経験を持つ、通訳の沼澤麗さんに、即席の日本語講座もやってもらいました。

後になって考えてみると、彼らにとって、日本は単なる日本ではなく、「外の世界」の象徴だったのでしょう。紛争の間、情報も人の行き来も制約される中、外部との接点がほとんどなかった彼らにとって、今回のワークショップでの日本人専門家との交流は、自分たちの世界が大きく広がった、稀有な経験であったに違いありません。一方で、ほかの地域から来た子供たちの交流や、(遠足の日の)バンダアチェでの州立博物館の訪問で、「(自分の村を超えた)我々のアチェ」に意識も向いただろうし、他方、日本人が話す言葉や身振り手振り、そのすべてが珍しく、それが新しい外の世界とのつながりを感じさせることにもなったのだと思います。発表の最後の演目は、みんなで日本語で歌った「花」でした。

※本文に登場する児童はすべて仮名です。

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