私もJFSCメンバーです 葉恵さん −1−

葉恵氏の写真

JFSC会員で、翻訳家であり、筑波大学大学院で村上春樹の研究をされているマレーシア人の葉恵さんにお話を伺いました。

―日本との関わりはいつごろから始まったのですか?


1980年に主人が筑波大学の大学院に入り、そのときに私も一緒に来日したのが最初でした。もちろん日本語もまったくできなかったので、まず日本語学校に入学して日本語を学び、そこから日本語学に興味が湧いてきて、筑波大学で日本研究を専攻しました。
在学中に友人と流行の小説の話をすることもあり、当時デビューしたてだった村上春樹の名前もその頃初めて聞きましたが、私自身は読んだことはありませんでした。
読みやすい推理小説とかそういったものが好きで、赤川次郎をよく読んでいましたね。


ちょうどその頃、マレーシア政府の「ルック・イースト」政策の推進によって日本から様々な科学技術や文化が導入され、当時の国民、特に華人社会の若者は日本のポップカルチャーに注目しはじめました。私はマレーシアの中文紙や雑誌から依頼され、日本のドラマや音楽・漫画・アニメ・料理・旅行などに関する記事を数多く執筆しました。また、日本の昔話もマレーシアの中学生向け雑誌に翻訳して紹介しましたよ。


―村上春樹の作品を翻訳するきっかけは何だったのですか?


1987年から主人の仕事の関係で、香港で2年間暮らしました。そのときに、香港の出版社から、日本の小説を翻訳して香港で出版したいという話がありました。その後出版社の契約翻訳者となり、正式に日本小説を翻訳する仕事に着手しました。その頃翻訳したのは推理小説で、赤川次郎や夏樹静子などの作品が主でした。1989年頃に台湾で「ノルウェイの森」ブームが起こり、それが香港でも話題になり始めました。そこで、香港版を出版しようという話が私のところに来て、初めて「ノルウェイの森」を読み、それで村上を翻訳し始めました。


そして、1991年に香港版「ノルウェイの森」が出版されました。すぐに香港でも「ノルウェイの森」ブームが巻き起こしました。さらに村上ブームは中国や他のアジアの国々へと広がっていきました。マレーシアへも、1992年あたりから中国語版の「ノルウェイの森」が入り、中国語圏からブームがスタートしました。
台湾、香港、中国は同じ中国語とはいっても、ニュアンスや言い回しが違ったりするので、翻訳も少しずつ違うのです。また中国でもいくつか翻訳が出ていたりします。マレーシアでは台湾版が人気があるようです。


―「ノルウェイの森」の後も村上春樹作品の翻訳をされたのですか?


1991年から92年にかけて「ノルウェイの森」「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」の3冊を翻訳しました。それ以降は、1992年に台湾で著作権法が成立し、台湾の出版社が村上春樹の著作権の繁体字版での翻訳の権利を取ったため、台湾で翻訳されたものがそのまま香港でも出版されるようになったのです。ですから、私は92年以降村上作品の翻訳を手がけておらず、一読者として楽しんでいました。


それにしても、90年代初めから、私は香港・マレーシアの中国語メディアを通して現代日本文学や文化を紹介してきました。特に村上春樹に関しては『ノルウェイの森』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』の主な三作を翻訳刊行し、多くのエッセイを執筆し、香港・マレーシアにおける村上文学受容に大きな役割を果たしたと思います。その経歴が評価され、2006年3月にジャパンファウンデーションが主催した国際シンポジウム「春樹をめぐる冒険―世界は村上文学をどう読むか」に翻訳家として招聘され、報告・交流等を行ないました。それは、国籍、人種、文化、言語を超えて、村上春樹という共通項を持つ人々がひとつになる、とても素晴らしい体験でした。


参加者のひとりであるアメリカ人の翻訳者は「もともとは日本の現代小説には興味がなかったが、村上春樹の作品を読んでから好きになった」と言っていました。他の人も、村上作品に出会ったことで日本の小説や日本をより好きになったという人がとても多かったのです。そういう意味では、村上春樹は日本の文化大使のような存在ではないかと思います。

例えば、東京大学で文学を専攻している、ある台湾人留学生は、高校生のときに村上春樹の小説を読んで感動し、好きなフレーズをノートに書いたりしていて、ついには日本留学まで果たしました。そういう人を何人も知っています。




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