笑顔に追いつく不便なし

モスクワ国立大学付属アジア・アフリカ諸国大学
池津丈司

 週のうち1日はモスクワ大学への出勤日である。私にとってこの週1回の出講は,教育現場に戻れる貴重な時間でもある。現場の様子がわからなければ,日本語教育アドバイザー(以下「アドバイザー」)としての活動も地に足の着いたものにならないだろう。このコラムは今年で2回目で,前回はアドバイザーの仕事全般について書いた。来年もまた私が書くことになりそうなので,今回はこの大学でのクラスの様子をご紹介することにしたい。

 私の受け持ちのクラスは3クラスで,学生は皆日本語専攻であるが,それぞれに経済学部,歴史学部,文学部という名前がついている。少し分かりにくいかもしれないので,まず,この大学の仕組みについて簡単に説明しておこう。


文学部の会話授業

 モスクワ大学の日本語日本文学科はモスクワ市の中心部,赤の広場で有名なクレムリンの前のアジア・アフリカ諸国大学(ISAA)というところにある。このISAAは組織上の位置づけとしてはモスクワ大学の1学部なのだが,研究機関と教育機関の両方の機能を備えているということで大学という名前になっている。そして,このISAAの中にさらに文学部,歴史学部,経済学部などがあり,それぞれの学部で日本文学,日本史,日本経済を専攻する学生は同時に日本語も主専攻とすることになっている。いうなればダブル専攻の方式が取られているのである。

 日本語専攻の各学部からのクラスには各学年10〜15名が在籍しているので, 1学年の在籍者は30~40名で,現在1年生から5年生まで約190名が日本語を専攻し,うち20名余りが日本に留学中である。

 私が担当しているのは1年生の会話クラス。講座長から指示されている目標は,学年末に一問一答の会話だけでなく段落を持ったスピーチが一人でできることで,できればきれいな字の書き方も教えてくれと頼まれている。自慢でも謙遜でもなく私の字は汚い。しかし,学生というのは教師を乗り越えて成長していくものである。たった1年間の授業だが,私よりきれいな字を書く学生も少なくない。

 さて,大学1年生といっても,この国の初中等教育は11年間なので,普通は17歳で大学に入学する。ところが,この国では小学校への早期入学が多いため,ISAAの場合,入学時16歳という学生が結構な割合を占める。4月から8月の早生まれなら,日本では高校1年生の年齢である。箸が転げても可笑しい年齢とはいうけれども,本当に何がそんなに面白いのだろうと思うくらいによく笑う。

 ISAAの校舎は現在,ナポレオン軍に侵攻されて以来という200年ぶりの改修工事が行われている最中である。工事は今年,向かって右半分が完成したところで,昨年は古い方の校舎で,今年はその新しくできた校舎で授業をしている。半分しかできていないのだから当然教室不足である。文学部の授業は学科の教員室(カフェドラ)で行っている。

 ロシアの大学には,たまには例外もあるようだが,一般的には日本のような個人に割り当てられた研究室のようなものがない。カフェドラという20u程度のこじんまりした教員室が一つあるだけである。事務員が1名ここで仕事をしていて,講座長や偉い先生たちも執務をするときはここを使う。講師は常勤も非常勤もここに荷物を置いて教室へ向かう。そして,授業が終わったら荷物を持ってうちへ帰る。研究は自宅でするものなのである。

 この部屋に10名ほどで囲める会議用のテーブルが一つあって,文学部一年生14名の授業はここで行われる。黒板もホワイトボードもなく,人の出入りが多く,電話がしょっちゅう鳴り,人口密度のやたらと高いこの部屋で会話の練習を行うのである。大御所の厳しい先生が入ってきて仕事を始めると,にぎやかだった教室は緊張して一気に静まりかえる。会話の時間にこれは正直言ってやりにくい。一度他の教室に移動させてもらおうかと学生に尋ねたが,学生たちはそれでもここのほうがお互いが近くて居心地がいいのだそうだ。


歴史学部の会話授業

 新しい校舎は気持ちがいい。しかし,設備が完全にそろっていないなどの不便さもある。経済学部と歴史学部の授業は未完成のL.L.教室で行われている。未完成というのは,衝立で固定された机が24人分あるだけでL.L.の機械(テープレコーダ,コントローラ,モニター,ヘッドホンなど)がないのである。窓の外ではまだ工事の人が壁を塗ったり,時々壊して修正したりしている。その工事の人たちが時々下品なことを大声で話すらしい。教室はそのたびに笑いの渦に包まれる。しかし,この教室の問題はそんなことではない。まず,どこに立っても全員の顔が見えない。どこへ動いても常に4,5人の顔しか見えないのである。後ろのほうの学生からは私だけでなく黒板もよく見えない。だから私が板書すると,後ろのほうの学生は立ち上がってノートを取る。この教室で前期は2クラス合同で25名が会話練習を行っていた。机は24個しかないのに。

 しかし,勉強は環境でするものではないのだとつくづく感じる。学習効率が下がったり,成績が低くなったりはしていないからだ。昨年のやり方に多少の工夫が加わって,むしろ良くなっている。学生たちにとってこの不便さは,本当は不便でないのかもしれない。彼らはこれを楽しんでいるのではないかとさえ思われる。「不自由を常とすれば不足なし。及ばざるは過ぎたるより勝れり」とは徳川家康の遺訓であるが,彼らの絶えない笑顔は,ロシアの厳しい自然の中で培われた力強さの表れなのかもしれない。



■ 派遣先機関の情報
イ. 派遣先機関の位置付け
及び業務内容
モスクワ国立大学付属アジア・アフリカ諸国大学(通称ИСАА(イサア))はロシアの最高学府モスクワ国立大学の一学部に位置するが,研究機関と教育機関の両方の性質を持つので大学と称される。文学作品の翻訳,教科書の執筆,通訳等の活動で著名な教授陣を揃え,ロシアの日本語教育を牽引してきた。日本語教育専門家は,日本語の授業,教材作成への協力等を行う。また,在ロシア日本大使館の協力を得てロシアおよびCIS諸国における日本語教育アドバイザー業務を兼務。各地の日本語教育事情調査,モスクワ地区でのセミナーや日本語関連諸行事の開催および現地化の推進,各地で行われる巡回セミナーの講師,その他諸行事への協力などを行う。
ロ. 派遣先機関名称
モスクワ国立大学附属アジア・アフリカ諸国大学
Institute of Asian and African Countries, Moscow State University
ハ. 所在地
Mohovaya str. 11, Moscow, 103009, Russia
ニ. 国際交流基金派遣者数
専門家:1名
ホ. 日本語講座の所属学部、
学科名称
アジアアフリカ諸国大学(モスクワ国立大学の一学部)
文学部 日本語・日本文学学科 
ヘ. 日本語講座の概要
(イ)沿革
 
(1)講座(業務)開始年   1956年
(2)専門家・ジュニア専門家派遣開始年 1993年

(ロ)コース種別
  専攻

(ハ)現地教授スタッフ
  常勤21名(うち邦人2名),非常勤2名

(ニ)学生の履修状況
 
(1) 履修者の内訳   1年39名、2年30名、3年39名、4年47名、5年17名
(2) 学習の主な動機 日本語・日本文化への関心、留学、日本での就職
(3) 卒業後の主な進路 一般企業・日系企業就職、日本滞在、進学
(4) 卒業時の平均的な
日本語能力レベル
日本語能力検定1〜2級
(5) 日本への留学人数 22名


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