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文法を楽しく
受身文

 「文法をやさしく」(現在「文法を楽しく!!」)の「受け身(1)」「受け身(2)」には受身文についての詳しい説明があります。今回はそれらの説明を踏まえたうえで、学習者の皆さんから出た、受身の二つの質問についてお答えしたいと思います。
 その前に受身の復習を兼ねて、問題です。次の問題について考えてください。友達と話し合ってみるとおもしろいかもしれません。

問題1: 「ほめられサロン」という、インターネット上のバーチャルな店があるそうです。どんな店だと思いますか。
問題2: 「いじめ問題」がなくなりませんが、あなたはいじめっ子といじめられっ子のどちらに問題があると思いますか。
問題3: ほめられて育った子と、叱られて育った子では、大人になってどんな違いが出ると思いますか。

 問題に対しては、こちらからは特に答えは出しません。話し合ったり自分で調べたりして、考えてみてください。では、質問に入ります。

【学習者からの質問1】

 「私は足を踏まれた」という文は、「私は足が踏まれた」という言い方にしても通じますか。また、「何かとられましたか」という文では、「何か」の後ろに省略されているのは「が」か「を」のどちらですか。

【学習者からの質問2】

 「泥棒にかばんが盗られました」はおかしい文だと思いますが、例えば次の会話で「かばんが盗られた」は、私には正しく感じられるんですが…。

<交番で>
:かばん盗られたんです。
警官 :誰にですか。
:知らない泥棒にです。

 学習者の質問1と2は、同じことが問題になっています。受身文にはいくつかの種類があって、その一つに、主語(多くの場合「私」)の所有物・体の一部などに影響(多くの場合、被害・迷惑ですが、次の(3)のようにそうでない時もあります)が及んだ時に用いる受身文(以降、「所有受身文」と呼ぶ)があります。基本的には、「主語が/は 誰か所有物・体の一部を V(ら)れる」の形をとります。

(1) 私は子供カメラこわされた。
(2) 私は電車の中で(隣の人)足踏まれた。
(3) 先生作文ほめられた。

 所有受身文「(主語が/は)NをV(ら)れる」の「Nを」は、「Nが」にはなりません。

(1)’ ?私は子供にカメラがこわされた。
(2)’ ?私は電車の中で(隣の人に)足が踏まれた。
(3)’ ?先生に作文がほめられた。

 「Nが」が用いられない理由は、「所有受身文の中心はあくまでも主語(多くは「私」)で、その主語が自分の状況・状態を訴えようとしている時に、新たに出来事や情報を伝える「Nが」が現れるのはそぐわない」ためと考えられます。
 「が」は、出来事が起こった時や何か変化があった時などに、それを「発見」して、伝える働きがあります。次のような場合は、すべて「が」になります。(参照:文法を楽しく「は」と「が」(1) 2006/01)

(4) あ、バスが来た。
(5) あそこに子猫がいる。
(6) 地震だ。地震が起きた。
(7) <財布を開けて>あ、お金がない。

 ですから、質問2<交番で>のような会話は間違いではありません。そこでは「かばんを盗られた」ことが出来事として、新しい情報として伝えられています。このような場合は「かばんが盗られた」も、単独文として適切になります。
 インターネットで、どのような文脈で「NがV(ら)れる」が使われているか探ってみました。検索して出てきた 例文の中で「足が踏まれる」が比較的多かったので、「足が踏まれる」で考えます。

(8) 満員電車のなかで、自分の足が踏まれた。彼はその時足を踏まれながら、−中略−
じっと耐えていたというのです。
(9) エスカレーターに乗った時に、足が踏まれたことに気づいた。頭を横にしてよく見たら、ある坊やが私の足を踏んでいた。
(10) うかつあやまり: たとえば相手に自分の足が踏まれた時に、「すみません、こちらがうかつでした」と自分が謝ることで、その場の雰囲気をよく保つこと。

 (8)は言い切りの形で、(9)は名詞節「〜こと」の中で、(10)はトキ節「〜時に」の中で使われています。(8)〜(10)に共通しているのは、主語は省略されていて「足が踏まれた」ということだけを述べていることです。主語になる人ではなく、むしろ、「足が踏まれた」ことに視点が置かれ、それに対してどうしたか、どう思ったか、どうするかということが中心になっています。
 いくつかの例を見て結論として言えるのは、「NがV(ら)れる」は受けた影響について、それを一つの出来事として伝えたり述べたりする時に、単独で使うことができるということです。

 では次の質問に移ります。次の質問は自動詞の受身に関するものです。

【学習者からの質問3】

 「私の子供が泣いた」を受身にすると、「私は子供に泣かれた」になるが、私には「子供に泣かれて、困った」より「子供が泣いて、困った」のほうが分かりやすいような気がします。

【学習者からの質問4】

 自動詞の受身は話し言葉にはあまり使われないのではないでしょうか。「訪問販売員に来られて困った」と「訪問販売員が来て困った」では、迷惑の程度はどちらが強いのですか。

 日本語教育に当たる先生方の中には、自動詞受身こそ被害・迷惑を表す典型的な、日本的な受身なのだから、教えたほうがいいという考え方と、「訪問員に来られて困った」「子供に泣かれてしまった」などと言わなくても、「訪問員が来て困った」「子供が泣いてしまった」と言っても同じなので、教える必要はないという考え方があります。
 先日テレビを見ていたら、原発の被害を受けた福島県のある小さい町の町内会の会長さんが次のようなことを、本当に困ったという感じで言っていました。

会長 町内会をちゃんと立て直したいのだけれど、たくさんの人に引っ越されてしまって…。

 ここでは、「たくさんの人が引っ越してしまって」と言ってもいいのですが、「引っ越されてしまって」と言うことで、そして、それを他の人が聞くことで、ああ、会長さんは本当に困っているのだということがよく分かりました。
 インターネットで「泣かれる」「死なれる」の使用状況を見てみると、多くの例がありました。その一部を紹介します。

(11) 仕事を辞めてほしいと子供に泣かれました…迷っています…。
(12) 彼女に「化粧変えたね、どうしたの?」と聞いたら泣かれた。間違った事は言ってないと思うんだが。
(13) 私さ、銀さんに先に死なれちゃ困るよ。
(14) 高齢者の"病院死"が普通になると、私たちは身内の死を目の前で見ることがなくなりました。家族は、「ここで死なれたら面倒臭い」「怖い」と、自宅を死に場所として認めなくなりました。

 (11)(12)は「泣かれる」、(13)(14)は「死なれる」の例です。(11)は母親の気持ち、(12)は彼女のある男性の気持ちを表しています。いずれも主語は「私」((11)では、私が「泣かれた・迷っている」、(12)では、私が「聞いた・泣かれた」)で、私の気持ちが一貫して表されています。「子供が泣いた」「彼女が泣いた」でも間違いではありませんが、1文や文の集まりである文章を通して主語が一貫されていると、理解しやすいし、情感が伝わります。
 (13)も「困る」のは「私」であり、主語の一貫性として「(私が)死なれちゃ」となっています。(14)は、やはり家族の面倒くさい、怖いという気持ちの原因が、「(家族が、高齢者に)死なれたら」と自動詞受身で表されています。
 このような文を見ていて、私は、日本語に自動詞受身がある以上、やはり教えるべきだと考えています。教え方に工夫をして、あまり口頭練習をしなくても、理解表現としてなぜそういう表現があるかを日本の文化の一つとして説明してほしいと思っています。
 どのレベルの学習者から自動詞受身のニュアンスの違いが分かることが必要なのか、また、ニュアンスの違いを分かってもらう(使い方が分かる)ためには、文脈がはっきりした、自然な文章の中で出す必要があるということも、今後、指導する側が考えなければならない問題だと思います。

参考文献
  • 菊地康人・増田真理子(2009)「初級文法教育の現状と課題」『日本語学』9月号 明治書院 pp.64-74

(市川保子/日本語国際センター客員講師)


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