国内上映事業 アラブ映画祭2006 シンポジウム イラク編 イントロダクション・製作の困難

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アラブ映画祭2006 シンポジウム 採録

イラク映画復興のために
開催:2006年3月4日 土曜日 会場:国際交流基金フォーラム

  • 司会:
  • 石坂健治(国際交流基金)
  • 通訳:
  • ナジーブ・エルカシュ

イントロダクション・製作の困難 / サマーワとバグダード / 隣国からのエール / 質疑応答

イントロダクション

司会: ジャパンファウンデーションは2005年から「アラブ映画祭」を始めましたが、できるだけ継続していきたいと考えております。今日は、イラクからはるばる来日された監督さんたちに、いろいろなことを語っていただく、シンプルな進め方にしたいと思います。では自己紹介も兼ね、おふたりにそれぞれの映画ができあがったプロセス、製作の背景を伺いたいと思います。まず、『イラク、わが故郷』のマーフード監督。
製作の困難
マーフード:

マーフード氏 サマーワは私の町ですが、湾岸戦争の後、1991年に亡命しました。抑圧的な制度のため、サマーワに戻ることは不可能でした。ですから私は皆さんと同じように遠い場所で、自分の国のニュースを受け取りました。今回の戦争が始まる前、様々な国の軍隊が隣国のクウェートに集まり、徐々に緊張が高まっていく様子が報道され、私は遠くオーストラリアでその緊張した状況を見ていました。近くにいたかったが無理でしたので、イライラしながら遠いオーストラリアにいました。自分の目で最初から見たかったし、自分の力で記録したかったのです。

戦争が起きてから3カ月後、オーストラリアの映画会社がドキュメンタリー映画製作のため、私とふたりのオーストラリア人監督をイラクに派遣することになりました。私はその映画の30%くらい監督を務めましたが、映画はオーストラリアの2004年の作品として国連の平和賞を受賞しました。そういう具体的なきっかけがあり、イラクに入ることができました。

製作の条件を映画会社と話し合い、ドキュメンタリーの撮影が終わったら、機材はどんなものでもでもいいから、イラクに残ってキャメラが使えることができるようにしました。戦後の町はどこも同様だと思いますが、今のサマーワはこの映画に出てくるような感じで、社会的に非常に不安定な状態です。誰でも銃を手に入れることができ、道端で売っています。なぜかというと、サダム・フセインの前政権は、それぞれの学校に銃を集めていたからです。

ある時、鉄工屋を営む友人の店で、銃弾を売る12歳の少年と出会いました。非常に不思議な光景でした。12歳の子どもが、人を殺す道具を平気で売っているのです。キャメラを持っていたので、さっそくその子に、君のドキュメンタリー映画を作ってもいいかと聞きました。彼は「いいよ」と言ってくれたので、マイクやキャメラをすぐ用意しました。子どもたちの生活を見ると、治安の悪さがよく分かります。また法律や警察が機能していないことも明らかでした。

その子は元々、大工の見習いとして働いていたのですが、サマーワ地域のセメント工場が全部破壊されてしまい、仕事は無くなりました。その子と一緒に移動すると、私の知らないサマーワ、私がいなかった時期のサマーワを知ることができました。最初、私はその子についての映画を作るつもりでしたが、撮り進めていくうち町全体が主役になり、私も登場人物のひとりになり、子どもの話はその中の一部になりました。この映画は、私が目にした戦争時代のイラクのある町の記録です。

たまたま日本の自衛隊がサマーワに駐在しており、ふたつの場面に出てきます。ひとつはウルク遺跡を守ろうとしているところで、ウルクは私たちが誇りにしているメソポタミア文明の代表的な遺跡のひとつです。もうひとつは、七夕のお祭りです。七夕のことを私たちは知りませんでしたが、どんな祭りかと聞くと、希望の夢の祭りということでした。

祭りに参加した子どもから将来に対する夢の話も出て、これはサマーワの人たちにとって、夢を持つ貴重なきっかけだったと思います。

そういう背景があって、今日ここで日本人の皆さまに会うことができ、本当に嬉しく思います。皆さんが私の映画を観ているときの感情、気持ちがとてもよく伝わってきました。日本に招待されたことを非常に感謝していますし、今日イラク映画の話をする機会をいただき、本当に嬉しいです。今日は私の映画だけでなく、もっと大きな問題であるイラク映画の話をさせていただきたいと思います。

司会: 続いてアル=ダラージ監督から、『夢』の製作背景のお話をお願いします。
アル=ダラージ: この映画を撮り始めてから上映に至るまで、2年半かかりました。これはイラク人が作った作品です。イギリス、オランダとの共同製作作品ではありますが、イギリスやオランダの政府でなく、人間的な協力を得たというだけです。映画の物語が最初に思い浮かんだのは、イギリスのリーズに留学していた頃です。イラク戦争のニュースを見ていると精神病院についてのリポートがあり、非常に驚きました。急いでイラクに帰りたくなり、8年ぶりに帰りました。胸の中にはイラクに帰りたいという思いが強くありましたが、それと同時に、イラク映画を復活させたいと強く思いました。

戦争が終わって3カ月後、街を歩いていると、精神的な病と思われる人たちがふらふらしていました。治安の悪い状況の中でしたし、そういう方を見つけて友人と病院に連れ戻したこともありました。そこから病院関係者たちとの関係が始まり、毎日病院に行き、日常的なことを少しずつ手伝うようになりました。やがて患者さんの物語をゆっくり聞くこともできるようになり、病院で映画のシナリオを書くようになりました。

最初、私は短編映画を作ろうと思いました。長編映画を作れるとは思わなかったし、映画産業の問題が多々ある中で現実的に考え、短編映画を目指しました。2003年の終わりにはリーズに戻り、映画製作の準備を開始しました。製作費を集めるため120くらいの会社、団体、国際交流組織に申し込んでみましたが、すべて返事はNOでした。というのは、イラクでは映画製作は行なわれていないし、保険会社もカバーできない状態でしたから。ひとつの団体がフィルムを買える程度の予算をくれましたので、それからイラクに行き、現地スタッフとロケハンを行ないました。

その時、私は長編映画を作りたいと思いました。もちろん不安はありましたが、なぜか決心して、周りの人たちに長編映画を作ると宣言しました。周囲の人間には驚かれ、「お前も精神的な病気になったんじゃないか」などと言われましたが、「戦争自体が狂気だからね」と答えました。周りの皆には、イラク映画を作ることで、新しいイラクを作っているような気がする、とも言いました。そうして撮り始めたら、長編を撮るのに足りる生のフィルムが手に入りました。

最初の問題は、キャメラを見つけることでした。イラクでは映画を撮れるキャメラはたったひとつしかありませんでしたから、その1台を使いましたが、まずそのキャメラを直すことが必要でした。役者もいなかったので、アマチュアの役者を雇って撮り始めました。イラクではその前の15年間にわたって映画製作が行なわれていなかったので、役者を説得することすら難しかったのです。熱意を持つ人はなかなか見つからなかったので、人のネットワーク、コネを最大限利用して、友だちの友だちとか、たまたま出会った人とか、そういう人々を使いました。

アハラーム役の女優を見つけるのは、多くの問題点もあったので本当に大変でした。例えば、女性が主人公なのに、治安が非常に悪い状況で撮影を行なわなければならないし、社会的な偏見も生まれてきていた。レイプの場面もありますし、本当に難しかった。あまりにも難しかったので、アハラームという女性のキャラクターを男に、つまり「アハラーム」という女性の名前ではなく、「アハマド」や「アリー」という男性の名前のタイトルに変えたらどうか、などと冗談を言うスタッフもいました。

アハラーム役の女優は友人を通して見つけたのですが、多くの条件が課せられました。まず、レイプ場面を完全に変えることです。そして、レイプする相手を実際のご主人にすること。さらに彼女の1歳になる子どもの面倒も見なくてはならないので、私は監督兼ベビーシッターでした。私たちの休憩は自分たちが疲れた時ではなく、子どもの食事タイムが来た時でしたし、彼女の演技も子どもの調子によって変わりました。子どもがちゃんと寝ている時は調子が良かったけれど、泣いている時はなかなかうまくできませんでした。でも私にとっては小さな問題でした。他の問題に比べたら、大した問題ではなかった。

撮影は2004年の最後の4カ月間に行ないましたが、当時のバグダードでは、電気が1日に2~3時間しか使えませんでした。場面によっては車のライトを照明代わりにしたり、車のバッテリーにつないだりしました。門限という問題もありましたし、撮影中、キャメラに小さな問題がありましたが直せる人がいなかったため、3週間も撮影を中止してシリアに行き、修理して戻ることもありました。

しかし一番大きな問題は、撮影が終わる5日前でした。私たちはサダム・フセインのバース党の残党に拉致され、スタッフの中には撃たれて負傷した人もいました。「お前らはアメリカの協力者で、アメリカの言うとおりやっているのだろう」と言われました。彼らの計画は、私たちに拷問を与えて殺し、チグリス川に捨てることでした。しかし5分間くらいでパトカーの音が聞こえ、私たちは道でそのまま置き去りにされました。嬉しくて皆、泣いてしまいました。しかし病院へ行って話し合いながら喜んだのも束の間、今度はわけのわからない警察というか、正規の警察ではなく民間警察のようなのが来て、私たちを逮捕しました。彼らが私たちに拷問を加えて5時間くらいすると、今度はアメリカ軍に引き渡されました。アメリカ軍は「お前たちはテロリストで、テロのプロパガンダ映画を作っているだろう」と言いました。再び拷問――物理的拷問と精神的拷問――に合い、5日間拘束されました。私はオランダ国籍を持っているので、オランダ大使の協力で解放してもらいましたが、条件として1週間以内にイラクを出るよう言われ、まだ5つのシーンが残っていましたから、急いで撮影しました。

こういった映画製作の状況は、今のイラク映画の状況およびイラクそのものの状況を現す、ひとつの物語であるといえます。イラクが素晴らしい国になることが私の夢です。治安が回復し、普通の国になることが。ですから私の役割は、本格的な映画を作ることです。
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