森本公誠・東大寺別当インド講演

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国際交流基金(ジャパンファウンデーション)は、日本紹介のための文化人派遣事業として、森本公誠氏(東大寺別当・文学博士)を、インド2都市(コルカタ、ニューデリー)に派遣し、「東大寺と菩提僊那」のテーマで講演会を開催します。

日程・会場:
2007年1月22日 月曜日 コルカタ大学
2007年1月24日 水曜日 インド国際センター

お問い合わせ:
ジャパンファウンデーション 文化事業部 文化企画課  担当:藤本
Tel: 03-5369-6059 / Fax: 03-5369-6036

1.プロフィール

森本公誠(もりもと・こうせい) 東大寺別当・文学博士

森本公誠

1934年姫路市生まれ。
1957年京都大学文学部卒業。61年から62年カイロ大学留学。64年京都大学大学院博士課程修了。68年京都大学文学博士学位取得。65年から98年京都大学文学部講師。

東大寺図書館長、東大寺学園常任理事、東大寺財務執事、同教学執事、同執事長、同大仏殿主任、同上院院主(いんじゅ)を経て2004年5月より現職。
初期イスラム時代の社会経済史を専攻。とりわけギリシャ語・アラビア語パピルス文書とアラビア語史書を対校しながらエジプトの税制史を明らかにした。1975年日経経済図書文化賞受賞。

著書に『初期イスラム時代エジプト税制史の研究』(岩波書店、1975)、『イブン・ハルドゥーン-人類の知的遺産22』(講談社、1980)、『善財童子 求道の旅-華厳経入法界品・華厳五十五所絵巻より-』(朝日新聞社、1998)、『世界に開け華厳の花』(春秋社、2006)など。また訳書にイブン=ハルドゥーン『歴史序説』全4冊(岩波文庫、2001)。

2.東大寺と菩提僊那(レジュメ)

森本公誠

今から1,255年前の西暦752年4月9日、東大寺では、聖武天皇(在位724年から749年)が発願されてから9年、着工から7年の歳月をかけて完成した盧舎那(るしゃな)仏の開眼供養の盛儀が執り行われた。開眼とは、形としてのブッダ像に眼を描き入れ、ブッダの魂を迎え入れることである。その開眼師の役目を果たしたのが、南インド出身の僧侶 菩提僊那(ぼだいせんな) Bôdhisênaであった。

開眼式のとき、大仏殿内に端座する巨大な金銅仏はまだ鍍金半ばであったが、大仏殿内や前庭は色とりどりに荘厳され、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇の臨席のもと、文武百官や1万人を超す僧侶が見守るなか、開眼師の菩提僧正が仏前に進み、筆を取って開眼した。本来なら自分が勤めるべきであるが、病弱で起居がままならないので、代わって筆を執るようにと、聖武天皇から請われたからであった。開眼師に選ばれたのは、単にインド出身者というばかりでなく、すでに在日16年、僧侶を監督する役所の最高責任者の地位にまで上っていたからであろう。

菩提僊那
2002年10月の「東大寺大仏開眼1250年慶讃大法要」開白の折に、開眼される直前の菩提僊那僧正像。本像は現在も東大寺に安置されている。(撮影:植田英介)

座高16メートルに及ぶ金銅仏の鋳造はむろんのこと、巨大な大仏殿や付設の建造物の造営事業は困難を極めたと考えられる。
それにもかかわらず、およそ延260万人の協力を得て完成したのは、聖武天皇に対する国民の強い支持があったからであり、それは天皇が治世前半に行った政治が人々に受け入れられていたからに違いない。それならば、天皇はどのような政治を行ったのであろうか。

天皇は初期には儒教思想に基づいて、徳をもって治めるという方針を採り、天災などの被害にあった困窮者に手を差し伸べるという政治姿勢を示された。

しかし、735年と737年の天然痘の全国的な大流行に直面するや、疲弊した国民を救済するには、もっと組織的に仏教思想を広める必要があり、その手段として、当時60あまりに分かれていた「国(くに)」ごとに僧院と尼僧院を建てて、人々に仏教思想を説く教育の場とし、首都の僧院にはブッダの悟りを象徴するビルシャナ大仏を造像し、かつ地方の僧院に必要な僧侶を養成する機関とすることを計画された。

その思想的根拠は『金光明最勝王経(きんこうみょうさいしょうおうきょう)』と『華厳経(けごんきょう)』という二つの経典にある。その内容の一端を紹介し、あわせて菩提僊那の存在意義についても触れたい。

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