出演者紹介インタビュー(ベトナム、カンボジア、ミャンマー)


ベトナムの国旗 ベトナム

マイ・リエン MAI LIEN

マイ・リエン氏の写真

ティンホイ(Thinh Hoi)の生まれです。

14歳以前の私は音楽に縁が深かったわけではありませんでした。 
1967年に各地の学校でオーディションがあって、それがきっかけで今の国立音楽院(Vietnam National Academy of Music)に入学し、4年間、ダン・タム・タップ・ルック(36弦琴)を勉強しました。

卒業してから1972年まで軍の慰問で各地に行っていましたが、1975年のベトナム戦争終結後、海外等でも公演するようになりました。

夫のバフォーとは1971年、私の卒業式の時に出会いました。
バフォーが卒業公演を観に来ていて、この女性と結婚することになる、と思ったんだそうです。私も一目惚れでした。

バフォーは優れた音楽家です。

彼は、戦争中、やはり軍の慰問で各地を訪れたことがきっかけで少数民族の音楽の研究とその楽器、演奏法の習得をしていました。
1976年から二人でトルン(竹で出来たシロフォン系の楽器)の改良プロジェクトを始めました。
中部高原の楽器であったトルンを様々な曲が演奏できるように改良するプロジェクトです。バフォーは私が演奏できるようにいろいろな工夫をしてくれました。
そのトルンはバフォーの努力があって今はベトナムを代表する楽器の一つになっています。
バフォーとの活動と並行し、国立歌舞団の団員として1978年にはキューバ、1979年には日本で2ヶ月の公演、1982年にはイタリアなどを巡演しました。
そういった実績が認められて1985年には政府に表彰されました。

私たちにはバニャという息子がいます。
1976年に生まれたのですが、名前はいにしえの中国の音楽家からもらいました。優れた音楽家になって欲しいという願いからです。
バニャは3歳で音楽を始めて、今では演奏家そして民族音楽の研究家として活動しています。

私たち一家がやってきた少数民族の音楽の実践的保存活動というのは、政府が手をつけない分野なのです。
でも私たちは、なんとか自分たちの力でやって来ました。
バフォーは様々な楽器を前に、どうしてこういう音がするのか、どうすればより良い音になるのか考えて楽器を改良し、自分の演奏に活かしています。

今のベトナムで伝統音楽は盛んとは言えない状況です。
でも自分たちは好きでやってきましたし、これからも伝統音楽を大事に守っていきたいと思っているのです。

(2013年6月29日談)

ベトナムの国旗 ベトナム

ミン・チー MINH CHI

ミン・チー氏の写真

ハノイの出身です。生まれたのは1961年です。
父は演出家、母はベトナムの伝統歌劇チェオの女優です。

1975年にチェオの世界に入り、それから38年この仕事をしています。
チェオの音楽以外にも、水上人形劇や古典歌舞劇のカイルオンなどでも音楽を担当して来ましたし、海外公演にも一緒に行っていました。

10代からプロとして劇音楽に関わって来ましたが、学校はベトナム演劇・映画院を出ました。

ベトナムにおける伝統音楽の役割ということを考えた場合、まず社会にとって重要なことの一つである教育に資しているということが言えると思います。
ハノイのような都会ではあまり重視されていないのかもしれませんが、田舎では祭の時等にチェオが上演され、とても大事な教育効果を発揮しています。
現在ベトナム全国に16のチェオ劇団があります。
私たちの劇団は日本、フランス、イギリス、ドイツ、韓国等全部で16カ国を訪問してきました。

ご存知の通り、今のベトナムでは開発が進んでいます。でも開発が進めば進む程伝統音楽は失われる。
しかし、どの国にも伝統芸能があります。未来のベトナムのためにも伝統芸能は必要なんです。

1988年日本に行った時に、日本でいかに能や歌舞伎が大事にされているかを知りました。テレビでも盛んに放映していました。
ベトナムでは伝統芸能に関して言うと、月1回くらいしかテレビ放送がありません。
経済的にも難しい問題に直面していて、楽観できない状態です。

(2013年6月29日談)

カンボジアの国旗 カンボジア

チャンナ CHANNA

チャンナ氏の写真

1961年、カンダルで生まれました。
家族全員が音楽家というわけではありませんが、兄は歌手でした。

ロンノル時代の1972年に伝統舞踊の学校に入りました。
その後クメール・ルージュの時代になり、奴隷状態におかれ、卒業は不可能でした。
1979年8月ポルポト派のプノンペン追放後、自動的に舞踊家・音楽家として仕事に着きました。クメール・ルージュの時代を経て、生き残ったアーティストが稀少だったためです。

舞踊家として活動した後、文化省のサーカス団で音楽を担当する部署の責任者になり、その後、王立芸術大学で舞踊を教えました。
今は文化芸術省に所属し、伝統芸能の継承、普及というより重要な責任を負う仕事についています。

カンボジアの社会も大きく変わっています。
生活に密着していた伝統的な芸能は失われつつありますが、私はそれらが消えゆくのを見たくないのです。ですから文化省での仕事を大切なものだと感じています。
政府、特に文化芸術省は伝統文化の行き先に多大な関心を払い、毎年のように多くの事業を展開していますし、ほとんどのプロジェクトはとてもうまくいっています。

(2013年6月27日)

カンボジアの国旗 カンボジア

ヴタ VUTHA

ヴタ氏の写真

1980年、プノンペンで生まれました。
伝統音楽の家に生まれました。母親以外は全員が音楽家です。
ピン・ペアト(祝賀演奏の際に用いられるクメール音楽のアンサンブル)を専門にしていますが、他のスタイルでも何でも演奏できますよ。

宗教行事での演奏もしますし、演劇や宮廷舞踊のための音楽もやります。
そういう家で育ちましたから、7・8歳から父について演奏の修行をしました。

その後、 芸術中等学校と王立芸術大学で演奏を学びました。また、伝統的なものだけでなく西洋音楽も学びました。
2004年に大学を卒業し、2007年からは文化芸術省に所属し演奏活動を続けています。

文化芸術省の活動は、自分に世界のアーティストとの共演の機会を与えてくれます。

(2013年6月27日)

ミャンマーの国旗 ミャンマー

アカダミ・ミャンマーピ・チャウ・セイン ACADAMY MYANMARPYI KYAUK SEIN

アカダミ・ミャンマーピ・チャウ・セイン氏の写真

私は、1972年9月10日にヤンゴンで生まれました。

父は早くに亡くなったので、祖父が父親代わりをしてくれました。
祖父は優れたコメディアンとして活躍していました。叔父がサインワイン奏者でした。芸能に携わる一家です。
母方は農家出身でしたので、芸事とは関係ありません。

小さい時から音楽は大好きで、ラジオで聴いた曲は一回で憶えて唄っていました。
6歳くらいで太鼓の伝統的なアンサンブルを見て、我慢できなくなり、バッタラー(シロフォンの一種)を始めました。
でもやはりアンサンブルの花形であるサインワインをやりたくて、学校でも机を叩いて練習していたのです。
申し上げたように叔父がサインワイン奏者だったので、体格がそれなりになった9歳の時に習い始めました。
学校が休みの時は演奏旅行に出掛ける叔父について歩きました。
叔父はとても厳しい師匠でした。短気ですぐに叩く。
祖父は幼い私が不憫だったのか、心配してくれて、サインワインはやめて踊りをやりなさいと言われましたが、叩かれても叩かれても私はサインワインが好きで、叔父にくっついて学び続けました。
私の子供時代は今と違って、アンサンブルの楽器を順番にすべて習得しないとサインワイン奏者にはなれなかったので、長いこと修行を続けました。

その後事情があり、ヤンゴンからシックウィン(Sit Kwin)に移りましたが、その頃祖父が手づくりのサインワインをプレゼントしてくれました。とても嬉しかったです。
祖父はとても優しく、少しずつでしたが私に色々な楽器を買い与えてくれました。彼は私がどうにも音楽が好きなのをすでに知っていましたから、その頃には「ただのサインワイン奏者ではなく、優れたサインワイン奏者になれ」と言ってくれるようになっていました。
1984年ヤンゴンに戻り、セイン・バ・モウという人のアシスタントになり、数年そこで修行、1992年にその師匠からミャンマーピ・チャウ・セインという現在の芸名をいただきました。
1998年には独立して自分の楽団を持ち、これまでにサインワインのコンクールで11度の金メダル、また従来のサインワイン奏者があまりしてこなかったCDの製作もでき、幸せな音楽人生です。

現在ではコンクールの審査員も勤めていますが、今年ミャンマーで開催される東南アジア競技大会 (SEA Games) の音楽担当を始め、国の行事にも積極的に参加しています。
また様々な機会での生演奏の他に、歌手達との共演CD録音、映画音楽のアレンジと忙しくしています。2010年には音楽を担当した映画が、ミャンマーのアカデミー賞を受賞しました。

伝統、ということは常に頭にあります。しかし、私は自分が音楽家という以上に伝統音楽の奏者、という枠をはめて自分の活動を考えたことはありません。
ミャンマーの伝統はミャンマー人にとってとても大事なものです。
ただ、グローバリゼーションの世の中、伝統を担う者達もオープンな考えを持って進んで行くべきだと思うのです。

(2013年6月26日談)

ミャンマーの国旗 ミャンマー

ボ・トュ・レイン BO THU RAIN

ボ・トュ・レイン氏の写真

1986年3月7日、ヤンゴン郊外のコッムー(Kauak Hmuu)という農村で生まれました。一家は農家で、音楽とは関係がありません。
でも村の小さな太鼓のグループに入っていました。音楽は好きでした。

12歳のころ、記憶が定かではないのですが、今の師匠のチャウ・セイン先生か、あるいはその前の師匠のセイン・バ・モウ先生が地元のお坊さんの葬式にきて演奏しているのを見て、いてもたってもいられなくなりました。どうしても「あれ」がやりたくなったのです。それで1999年ヤンゴンに出て、芸術学校(School of Fine Arts)に入りました。
2002年に卒業し、卒業とともにセイン・バ・モウ先生に師事しました。

2002年から2010年までセイン・バ・モウ先生のアシスタントとして彼の楽団で演奏しました。
その後セイン・バ・モウ先生からチャウ・セイン先生に師事するように言われ、今はチャウ・セイン先生のアシスタントをさせていただいています。
セイン・バ・モウ先生は私の将来を考えて、音楽の仕事や映画音楽の知識がとても豊富なチャウ・セイン先生に師事するよう勧めてくれたのだと思います。

今、ミャンマーの伝統音楽は現代的な音楽と盛んに融合していると思います。
そういうなか、ミャンマーが置かれている状況の中で、進歩しながらも伝統音楽のあり方を守るのが自分たちの世代の役割だと思うのです。
サインワイン奏者の中でも「近代化」を目指すあまり、何かを見失ってしまっている人たちがいます。私は、そういう大事なものを失いたくないのです。変えたくない。伝統的なものを変えたくないし、そう言う意味で本当の伝統音楽奏者になりたいのです。

ありがたいことに、これまでに4、5人のプロデューサー達から、独立して自分の楽団を持たないかと言ってもらいましたが、自分はまだ楽団を持つレベルではないと思ってます。まだまだチャウ・セイン先生に師事して伝統音楽の担い手としての自分を磨かなければなりません。

(2013年7月1日談)

[お問い合わせ]

国際交流基金(ジャパンファウンデーション)
文化事業部 アジア・大洋州チーム
担当 : 玄田・松永
電話 : 03-5369-6062

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