出演者紹介インタビュー(タイ・ラオス・ブルネイ・日本)


タイの国旗 タイ

トサポーン・タサナ TOSSAPORN TASSANA

トサポーン・タサナ氏の写真

1981年3月2日、バンコクに生まれました。父はタイ伝統音楽の教師でしたので、自然に父につき、そして多くのことを教わりました。しかし身体的にも音楽的にも成長してゆくにつれ、私はさらに多くを学びたくなりました。
10歳の頃、学校の伝統音楽クラブに参加しました。そこでは音楽を学ぶだけでなく新しい友人たちとも出会えました。その年頃の子供たちには絶好の学習の場だったのです。

高校時代、ちょっと寄り道をしたこともありました。
他の分野の音楽もやってみたくなり、高校のマーチング・バンドに加入したのです。トランペット、スネアドラム、ベースドラム等の西洋楽器を演奏しました。もうそれらの演奏はほとんど忘れてしまいましたが、そのときに得た世界の音楽についての知識は、プロの音楽家としての私の人生に非常に役立ちました。

大学進学にあたって、私はタイ有数の音楽大学の一つに進むことを即断し、入学することができました。大学時代は自分のすべての時間と精力を、ラナートの上達のために注ぎ込みました。

大学時代より、多くのプロジェクトや演奏に参加し、ラナートや他のいろいろな伝統楽器を演奏してきました。自分の限界を狭めたくないし、伝統音楽だけをやりたいわけではないので、いろいろなスタイルの演奏をやってみようと、ジャズやフュージョン、現代音楽と様々な分野のグループに参加しています。自身の専門性を高めるためには、自らの限界を決めずに、できる限り視野を広げる努力をすべきだと信じています。

大学卒業後は、週末に音楽を教えたり演奏団体に参加する一方、日系企業に就職しました。音楽とはまったく関係のない仕事です。
そこで5年間働きました。しかし考えた末、やはり音楽で生きてゆこうと決心したのです。そして仕事を辞め、フルタイムで音楽をやる生活に戻りました。

今は、平日は音楽教室を開き、週末にはルアン・プラディット・パイロ財団で教えています。今回のような刺激的なプロジェクトにもたびたび参加していますが、このような国際共同制作は、伝統音楽が生き残ってゆくためにとても重要だと言えます。というのも、タイでは学校で伝統音楽について教えるものの、たいがいごく短時間であるため、ほとんど印象に残らないのです。タイの伝統音楽は貴重なものであり、かっこいいものであって、他の仕事をしなくても音楽だけで食べてゆけることを示さなくてはいけません。

今後より一層、タイの伝統音楽を守り、若い音楽家たちの手本となって、タイの伝統音楽がスポットライトを浴びて国際舞台に出てゆけるように道を切り開こうと私は心に決めています。
休むことなくタイの伝統音楽を演奏し続けるために、私は人生を捧げているのです。“音楽が恋の糧であるならば、奏し続けよ”(シェイクスピア「十二夜」)という通りに。

(2013年7月2日談)

タイの国旗 タイ

クリス・シャイニングスター(ラブイズ) CHRIS SHINING STAR (LOVEiS)

クリス・シャイニングスター(ラブイズ)氏の写真

1983年にパリで生まれました。
父はシンガー(ジャズ、ポップス等)ですので、音楽のある環境で育ちました。
12歳になった1994年までフランスで育ち、その後バンコクに移りました。ただ、バンコクに移ってからもフランス語の学校に通っていたので、実はタイの音楽は古典、ポップスを問わずほとんど知らなかったんです(笑)。

18歳までギターの先生に2、3年ついたり、唄を習ったりしましたが、主には父にいろいろ教えてもらいました。
でも音楽家になりたい、という気持ちになったのは17歳くらいのこと。それまでは普通の音楽好きの少年でした。
その頃タイのポップスに触れました。
それからはタイポップスの世界に身をおいています。

そもそもタイのポップスに取り組んだのは、タイの音楽市場というものがとてもはっきりとした好みを示していて、タイ語以外のジャズやファンクをプロとして続けることが難しいから。

タイの現状で言えば、伝統的なものやアートと言われるようなものをやるのはとても難しいです。
市場に受け入れられる音楽の幅というのはとても狭いと思います。

でも、今はあまり先を見たくないです。
目の前のこと、タイの音楽のためにがんばって行きたいと思っています。

(2013年7月2日談)

ラオスの国旗 ラオス

セントン・ブッサディ SENGTHONG BOUTXADY

セントン・ブッサディ氏の写真

1975年8月9日、ヴィエンチャン市チャンタブリー郡にある、Saylomという村で生まれました。父は政府の役人、母は商人で、音楽家の家系ではありませんでした。

8歳のとき、母が村祭に連れて行ってくれたのですが、そこでドラムセットを目にしました。家に帰るなり、空き缶や蓋、バケツなどを集めてドラムセットを作り、友達を呼んでバンドを気取って演奏していました。

両親は私が音楽好きなのを理解してくれて、小学校卒業後、ドラムセットと伝統音楽を学べるように国立芸術学校(National School of Arts)に入学させてくれました。

私の一番好きな楽器はドラムですが、他の楽器も大好きですし、演奏を学びたいと思っています。

国立芸術学校卒業後は音楽の教師になりましたが、その後、芸術教育大学(Art Education College)に入り、さらに音楽の勉強を続けました。大学を卒業してからは、国立芸術大学でドラムを教えています。

私の故郷には、児童文化センター(Children's Cultural Center)という、音楽を学ぶ機会が少ない子供たちに伝統音楽を無料で教える場所がひとつだけあります。伝統音楽を学べる場所は多くはありませんが、伝統音楽が未来に向けてより発展してゆくための一端を、私も担えればと思っています。
そして、ラオス社会の中で伝統音楽がさらに浸透してゆき、ラオスの伝統音楽がもっと世界中の人々に知られるよう、私も力を注いでゆきたいと思っています。

ラオスの国旗 ラオス

プサヴォン・サクダ PUTTHAVONG SAKDA

プサヴォン・サクダ氏の写真

1992年9月9日、ヴィエンチャン市チャンタブリー郡シブンファン村で生まれました。音楽とは無縁の家の生まれです。

10歳のとき、「ラオス音楽スポーツクラブ」に参加しました。初めはその中のサッカークラブに入ったのですが、そこにあった楽器に関心を持つようになり、音楽クラブに入りました。とても幸運なことに、著名な音楽指導者である、クラブの創立者カムスアン・ヴォントンカムさんが、私が音楽クラブに参加する機会を与え、音楽の資質を伸ばしてくれたのです。15歳のときにケーン(笙)を始めて、バスドラム等の楽器も学んできました。

2007年に、フランスでの文化交流プログラムに参加する機会があったのですが、そこでラオスの伝統音楽の素晴らしさに気が付きました。ラオスの音楽は、他国の伝統音楽に比べて強い特徴があるのです。この時の貴重な経験が、ラオス伝統音楽への私の関心を引き起こし、プロの伝統音楽家になろうという思いを起こさせたのです。

その後2008から2009年にも、ラオスの文化を海外に紹介するため、ラオスの音楽家を代表し、韓国と日本での文化交流プログラムに参加しました。現在は、ヴィエンチャン郊外に住む音楽を学ぶ機会が少ない子供たちに、無料で伝統音楽を教える「ラオス音楽クラブ」で教師をしています。“ラオスの伝統音楽はとても素晴らしく、独特のものだ”ということを次の世代に伝えるために、伝統音楽を保存してゆくべきだと思います。将来、伝統音楽の演奏に興味を持つ若者や子供たちが増えてゆくことを願っています。

ブルネイの国旗 ブルネイ

ユスリ YUSRI

ユスリ氏の写真

出身はブルネイの首都、バンダルスリブガワンです。

両親ともにポップシンガーでした。
父は警察官だったのですが、両親ともSerojaというバンドの歌手でもありました。60年代のことです。

そう言うわけで私が生まれた時から家の中には音楽があったのですが、私も3歳で母の唄ってくれた唄をそのまま繰り返して唄ったというので驚いたと母から聞きました。
友達と唄うのが好きで、よく唄っていましたが8歳のとき初めて子供の唄のコンテストに出ました。その時はなにもとれませんでした。
でも翌年再び挑戦した時には優勝、その後も出るコンテストのほとんどで優勝しました。

その頃は作曲家になりたくて、ピアノ、シンセサイザーを独学で勉強して曲を作っていました。

学生の頃はフュージョンバンドをやっていて、日本のT-Squareなんかをコピーしていましたよ。キーボードとアルトサックスを担当していました。
活動は熱心にしていましたが、ブルネイには音楽シーンと言えるようなものはないのです。要するに「プロ」という意味合いが他の国と違います。だから国際的な意味でプロだったとは言えなかったと思いますが、いろんなところに出演はしていました。

その後ロイヤルブルネイ航空のアテンダントになりましたが、バンドも続けていて、また作曲家としてもラジオ局で仕事をしていました。ジングルなんかもたくさん作りましたよ。

キャビンアテンダントになって10年経った頃、文化省が伝統音楽のプロのグループを作ることになったので、そちらに転職しました。
それまでも唄えるということで文化省に呼ばれ、伝統音楽の歌唱に参加したことはしばしばありました。16歳の頃には民謡のコンテストで優勝したこともありましたし。
でも2008年にその文化省のグループに入ったのがきっかけで本格的に伝統音楽を演奏することになったのです。

自分の音楽の才能を見いだしてくれた両親、特に母にとても感謝しています。

今の仕事はブルネイの文化を継承して行くことで、そのことにベストを尽くしているつもりです。現在の文化大臣はとても熱心な人でプロジェクトはうまくいきつつあると思います。
伝統音楽というのは、深く入って行くのがとてもたいへんなものです。かなり辛抱強く続けて行かないとなかなか奥深いところにいけないのです。
我々の国の音楽は、マレー人の音楽的な基礎の上にアラブ等から来たイスラム系音楽の影響をうけて成立しています。我々の歴史の大切な一部です。
若い人たちにも音楽を教えて、伝統の大切さを伝えて行きたいです。特に伝統的な唄い方というものを教えて行きたいですね。

(2013年7月2日談)

日本の国旗 日本

堀 つばさ HORI TSUBASA

堀つばさ氏の写真

出身は京都です。
3歳からピアノを習っていましたが、太鼓との出会いは小学校5年の頃、母が通っていた太鼓のサークルの練習についていったことからです。

音楽は好きで、中学校で吹奏楽を始め、高校は音楽高校に進みました。
その頃、友達とロックバンドをやり、高校を卒業してから1年はバンドでプロになろうとがんばっていました。
イギリスのロックが好きだったのでロンドンでドラマーとして修行したいと思い、下見のつもりでロンドンを訪ねました。
でも、実際のロンドンでは皆英語を話しているし(笑)、皆身体が大きい。
単純にカルチャーショックを受けました。憧れがコンプレックスに一転してしまって、こういう人たちの音楽を自分が本当に理解し、演奏できるのだろうか、と。それをやろうとしたところで無意味ではないかと。
そこから、大いに悩みました。

そういう経緯があって、自分は日本人ならではのことをやりたいと思い、子供の頃からなじみのあった和太鼓の世界を学ぼうと考えました。
それで佐渡に渡って鼓童に研修生として入りました。19歳の頃でした。

その後、鼓童の一員として、多くのツアーやレコーディングに参加し、曲も作りました。
そして、14年の経験を積んだ頃人生の転機があり、ベルギーのアントワープに移住しました。

今はアントワープで暮らしていて、様々なミュージシャンと共演し、日本でも2012年に上演した「テヅカ」などいくつかの国際的なダンス作品に作曲/演奏で参加し、ツアーをしています。

アントワープに行って変わったことの第一は、日本になかなか帰れない状況で、日本の唄を大事に唄うようになったことです。本当に日本の唄が気持ちにしみるようになったのです。日本への恋しさを唄に支えてもらいました。

日本の太鼓音楽というのは、外国の皆さんが考えるような伝統音楽ではありません。戦後に太鼓という伝統的な楽器を使い、新しい奏法、新しいアンサンブルのあり方を模索した音楽家達がいて、その流れがポピュラーになったものなんです。

鼓童の時代から、伝統的な音楽、能や歌舞伎あるいは民謡に触れたり、実際に教えていただいたりしてきましたけれど、やはり「自分のもの」という感じにはなりませんでした。
そういう意味では10代の頃ロンドンで感じたことと似たことを今も感じています。根なし草というか、伝統という根拠を持っていない感覚。

でも、どんな伝統にもその始まりはあったはずで、最初は新しいものだったんだと思います。
そういう想像に支えられていま音楽をやっています。
日本のリズム、唄を大切にしながらも、自分の根にあることかどうかをあまり考えすぎることなく、自分が素直に面白いと思うことをきちんとやっていけばいいのかなと思っています。
出会った音楽を、自分の考えで解釈していければ何かにつながっていくのではないか、というのが今の私の考え方です。

(2013年7月13日談)

[お問い合わせ]

国際交流基金(ジャパンファウンデーション)
文化事業部 アジア・大洋州チーム
担当 : 玄田・松永
電話 : 03-5369-6062

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