関連企画 対談:丁雲×佐伯一麦

対談:丁雲×佐伯一麦

ジャパンファウンデーションは、日本・シンガポール外交関係樹立40周年記念事業を記念して、開高健記念アジア作家講演会に、シンガポールの放浪作家 丁雲(ディン・ユン)氏を招へいしました。
丁雲氏の来日を機に、仙台在住の作家 佐伯一麦氏と、お互いの文学観をめぐってお話いただきました。

コーディネーター:立教大学助教授 舛谷鋭
収録:2006年11月3日金曜日

プロフィール

丁雲 (ディン ユン)

1952年マレーシア、スランゴール州クラン生まれ。祖籍は中国福建省安渓。父母はコーヒー園の労働者で、兄弟は9人。小学校卒業後、独学で22歳から執筆を始める。
山林、農村で様々な仕事を経験した後、70年代末、期せずして作家専業に。華人文壇唯一のプロ作家と呼ばれる。87年の国内治安法発動の翌年、シンガポールへ移民。ラジオドラマ制作に携わる。
2000年以降はシンガポールで執筆に専念。出版著作に『黒河之水』『迷途的黒鯨』など7冊の短編小説集と長編小説『無望的都市』がある。未刊の長編が多数あり、順次出版を予定している。

佐伯一麦 (さえき かずみ)

1959年宮城県仙台市生。仙台第一高等学校卒業。『木を接ぐ』にて海燕新人文学賞、『ショート・サーキット』にて野間文芸新人賞、『ア・ルース・ボーイ』にて三島由紀夫賞、『遠き山に日は落ちて』にて木山捷平賞、2004年『鉄塔家族』にて第31回大仏次郎賞を受賞。

1. 魯迅ゆかりの地を訪れて

佐伯:ようこそ仙台へいらっしゃいました。昨日は魯迅のゆかりの地も訪ねられたということですが、私も魯迅は中学生ぐらいのときに初めて読んだ、好きな作家です。魯迅ゆかりの地を訪ねられた印象から、少し話をしたいと思います。

丁雲: 私は、佐伯先生と多くの共通点を感じます。2人とも、ひげを生やしていて、かつていろいろなところを放浪しました。

佐伯:はい。

丁雲: そして魯迅を好んでいます。もう一つ非常に重要な点があって、舛谷先生もきっと知らないと思いますが、私はゴッホの作品が大好きです。

佐伯:そうですか。

丁雲: 彼の伝記を読んで、同時に作品も好きになりました。しかも37歳のときに自殺も考えました。でも、そのとき私は文学の面でまだ成果を上げていませんでしたので、それで死んでしまうのはあまりにも残念だと思いました。

魯迅のことは非常に尊敬しています。昨日、魯迅ゆかりの地を訪れて、彼が仙台で学んでいたときの悩みが理解できました。魯迅がたびたびさすらっていたであろう、広瀬川のほとりを歩いてみました。彼はきっと大きな心理的な葛藤を経て、医学を捨て文学を志したに違いありません。魯迅のように、医者になるか、作家になるかというものではありませんが、私も佐伯先生も、平凡な生活を求めていくか、流浪し続ける作家の道を求めていくか、人生の過程で深刻な葛藤を経てきたと思います。それが、私が昨日一番深く感じた点です。

佐伯:魯迅の下宿跡に行かれたと思いますが、僕も中国で上海と北京と、あとは生まれた紹興と、魯迅のゆかりの地を訪ねました。仙台は、当時は学生だったことももちろんあると思いますが、初めて見ると、あまりにもみすぼらしいのでびっくりするかもしれません。ただ、僕はその当時のものがそのままあのようなかたちで残されていて良いのではないかと思います。

佐伯一麦氏

僕は18から33、34まで東京にいて、そのあと、生まれた仙台に戻ってきました。先程、丁雲さんが広瀬川が好きだとおっしゃいましたが、広瀬川でも特に地層がはっきりむき出しになっているところは印象的だったと思います。その近くに小さいアパートを借りて、そこで自分の文学の再出発を図りました。そのときに、よく魯迅の下宿跡のあたりを散策して、魯迅も苦しい時期をここで過ごしたんだなと思ったものです。

先ほどの丁雲さんのお話にもありましたが、僕も明らかに自殺を図ったという意識はあまりないのですが、いまお話しした33、34の頃にそのような経験があります。それまでは、電気工事の労働をしながら書くということで生活が成り立っていました。丁雲さんもたまたま作家専業になったという話がありましたが、私の場合は病気になって体が動かなくなったので、労働をしながら小説を書くという生活が成り立たなくなって、結果的に作家専業になったという経験があります。

丁雲: 専業作家になられたのは、何歳のときですか。

佐伯:33か34だったと思います。

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  1. 1.魯迅ゆかりの地を訪れて
  2. 2.丁雲氏の作品について
  3. 3.私小説とは
  4. 4.ゴッホの絵画
  5. 5.マジックリアリズム

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