日本語教育論集 世界の日本語教育 第15号 要旨

大学非専攻日本語学習者のマルチメディア教材利用状況をめぐって
:湖南大学の実態調査を中心に

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李 妲莉(湖南大学外国語学院日本語学部)

中国において日本語教育が急速な展開を見せている現在、マルチメディアとネットワーク技術をベースに進んでいる日本語マルチメディア教材の開発は、日本語学習者の多様化及び日本語教育の大衆化に適しているものだけでなく、日本語教育の重要な研究課題として中国教育部をはじめ各大学や専門学校などでもたいへん重要視されている。
このような状況のもとで、『日本語初級総合教程CD-ROM 付』(監修李妲莉)という日本語マルチメディア型教材が国家レベルの教材として中国教育部と日本国際交流基金の多大な支援を得て作られ、2002年7月には中国高等教育出版社によって出版され、いま中国全土で市販されている。この教材は中国国内にいる日本語初級コースの学習者だけでなく、海外にいる中国人もこれを利用することができると考えられる。
現時点において、湖南大学では、この教材を利用した人はすでに2,000人以上に達している。この教材が出版されて以来、各方面から好評を得ているが、実際に使ってみると、多くの利点がある一方で、今後この教材をどのように改善し、利用させたら良いのかといった課題も現われてくる。
そこで、本稿は大学非専攻日本語教育の現状をふまえ、湖南大学の『日本語初級総合教程』利用者を対象に行なったアンケート調査の結果を分析し、大学非専攻日本語学習者のマルチメディア教材の利用状況、利用者の学習モチベーション、学習効果及び学習者からの声などについて述べる。これをもとに、マルチメディア教材利用上の利点と問題点を明らかにし、大学非専攻日本語学習者に対するマルチメディア教材のよりよい利用法を探ってみたい。

中間言語語用論における研究方法論の再検証
:中間言語による、動的体系としての中間言語の測定

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伊藤 恵美子(名古屋大学大学院国際開発研究科研究生)

学習者の第二言語を分析する場合、目標言語にどれだけ近づいているかという観点から、目標言語と比較する方法が一般的である。また学習者の第二言語が順調に習得されない場合、その原因を学習者の母語に求めることが多い。しかし、学習者の言語、すなわち中間言語は学習者の頭の中にあるシステムであり、時間の経過に伴って変化していくものである。したがって中間言語を静的に捉えて目標言語と比較しても、中間言語の連続する変化を詳細に解明することはできないと思われる。
そこで本稿は目標言語や母語と比較するのではなく、中間言語それ自体を複数のステージにおいて分析することにした。調査は談話完成テスト (Discourse CompletionTest) を用い、日本では高等専門学校に在籍するマレーシア政府派遣留学生(来日3年目115名・来日2年目103名・来日1年目75名)、マレーシアでは日本留学予定のマラヤ大学の大学生80名、合計373名の有効回答を得た。
分析の結果、来日3年目の学習者グループと来日2年目の学習者グループの間では統計的な有意差が見られなかったのに対して、来日3年目の学習者グループと来日1年目の学習者グループの間では5%水準で、来日3年目の学習者グループと滞日経験のない学習者グループの間では0.1%水準で統計的な有意差が確認された。よって、学習環境が学習者の語用的能力の習得に関与したと推測される。中間言語の本質を鑑みれば、連続体である中間言語を便宜上、複数段階に分けてその差異を検討していくことは理に適うであろう。つまり、ある時点の中間言語を詳細に分析するには、 中間言語を総体的に捉えて隔たりの大きい目標言語と比較するよりも、中間言語を発達の段階で細分化して、ある段階の中間言語と段階が一つ異なる中間言語と比較するほうが今まで表出されなかった事象を検出することができ、妥当なのではないかと考える。

日台の電話会話における新たなターンの開始:あいづち使用の有無という観点から
【PDF:125KB】
陳 姿菁(長栄大学応用日本語学系及び日本研究所専任助理教授)

本研究では、聞き手が次の話し手となり、新たなターンの始まりの位置に生起するあいづちを対象として陳 (2001、2003) の基準を用いて、日台の相違を比較した。
結果として、日本語は台湾の「国語」と台湾語より、前置きなしにすぐに新しいターンに移行する割合が多く、 日本語は全体の31.1%、台湾の「国語」と台湾語は25.2% を占めていることが分かった。全体の前置きの形式から見てみると、日本語ではあいづちより「あのう」や「それで」などのディスコースマーカーを用いること、他方、台湾の「国語」と台湾語ではディスコースマーカーよりあいづちが多用される傾向のあることが分かった。そして、あいづちの形式においては、日本語では「β」(「そう」系などは)のあいづちの形式が「α」(「はい」系)よりやや多く見られたが、 比較的均等に使用されている。それに比べて、台湾の会話では「β」(「對」系、「hen ah」系など)のあいづちの形式が圧倒的に多く用いられていた。

学習者の自発的発話が開始する発話連鎖の終了に関する質的研究
:初級日本語クラスの一斉授業の場合

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文野 峯子(人間環境大学教授)

教師主導の一斉授業では、ときに学習者が自発的に意見や情報を提供することがある。このような学習者の自発的発話に教師がどう対応するかは、その後の授業展開に大きな影響を及ぼす。自発的な発話の受け入れによって、学習者の言語運用練習が可能となる上に、学習者の言語産出意欲を高め授業の活性化を図ることもできる。自発的な発話が提供した話題によって、学習項目についての理解が深まることも期待できる。 一方、自発的な発話に教師が応じることは、教師が進める一斉授業の流れの滞りと見ることもできる。
このように、自発的発話に教師がどう対応するかは、授業運営上重要な課題であると考えられるが、これまで研究の対象とされることは少なく、その実態が十分に解明されているとは言い難い。
本稿では、厳しい言語的な制約をもつ初級日本語クラスで、学習者の自発的発話に教師がどう対応するかに注目して、実際の教室談話を吟味した。
その結果、教師はほとんどの自発的発話を一旦受け入れ、その後やりとりを通じて円満な終了を図っていることがわかった。教師が受け入れることによって成立した発話連鎖は、教師が直前の学習者発話を下がり調子でくり返したりまとめたりする⇒教師のまとめ発話が学習者に発話連鎖の「終了」の合図として通理解される、という手続きを経て速やかに収束していた。教師が終了を意図したにもかかわらず終了が先に延ばされたケースでは、教師は連鎖の終了意図を明確にするために「褒め」や「謝辞」といった日常会話で利用される終了の挨拶を利用する、あるいは教師の意図を視覚的に明示するために黒板を活用するといったさまざまな方略を利用していた。教師は、学習者の自発的発話に一律に対応するのではなく、学習者ひとり一人との対話の中で適切な終了方法を模索することによって、教師主導の授業と学習者の主体性を重んじる授業という難しい課題の解決を図っていることがわかった。

日本語の音読において学習者はどのようにポーズをおくか
:英語・フランス語・中国語・韓国語を母語とする学習者と日本語母語話者の比較

【PDF:95KB】
石崎 晶子(東京大学教養学部非常勤講師)

本研究では、英語・フランス語・中国語・韓国語を母語とする学習者の音読、および日本語母語話者の音読を資料として、学習者と母語話者ではポーズのパターンが異なるか、学習者の母語によって差があるかを検討した。
その結果、学習者間で母語による差はみられなかったが、 母語話者との比較から、(1)学習者は、母語話者より発話節が短い。(2)左枝分れ境界で、学習者は母語話者よりポーズの頻度が高い。(3)母語話者は文節中にポーズを置かないが、学習者は文節中にポーズを置く場合がある。(4)母語話者は文末に必ずポーズを置くが、学習者には文末のポーズの欠落がみられる。(5)学習者の文末のポーズは、母語話者より短い。という学習者に共通した特徴が観察された。

台日接触場面における日本語によるグループ討論の
フレーム分析: 討論の骨格に焦点を当てて

【PDF:76KB】
陳 明涓( お茶の水女子大学大学院人間文化研究科比較文化研究学専攻)

異文化コミュニケーションの場で発生する問題について多くの研究が行なわれた。その原因の一つとしてフレーム (Frame) が指摘されている。同じ文化背景を持つ同士の間ではフレームは一種暗黙の了解であり、あまり意識されていない。しかし、文化を異にする者との間ではその違いは顕著になる。
陳 (2002) はグループ討論を対象に、台湾と日本の母語フレームの対照研究を行なった。そして、「論の開始部」「テーマ間の移行」「ポーズ」「発言順番と進行役」「トピックの転換」と「討論の終結部」の六つの観点から両者の特徴を提示した。本稿はその結果を踏まえた上で、対象を台日接触場面に移し、フレームの骨格である「討論の開始部」「テーマ間の移行」「討論の終結部」の分析を行なった。そして、1.学習者の母語フレームより目標言語である日本語フレームの影響が比較的強いということ、2.日本語フレームは日本人だけでなく台湾人によっても積極的に行使されていたこと、3.学習者の母語フレームの適用が日本人参加者にも許容されるものと許容されないものがあること、の三つの結果が分かった。今後は「ポーズ」「トピックの転換」「発言順番と進行役」などについての分析を行ない、日本語による接触場面のフレームの実態をより明らかにし、中国語を使用する混合グループのデータを集め、接触場面の討論フレームの全体像を解明していきたい。

「顔」と≪ЛИЦО≫:<顔>概念の日露対照研究
【PDF:97KB】
田中 聰子(名古屋外国語大学現代国際学部非常勤講師)
ケキゼ・タチアナ(名古屋大学大学院国際言語文化研究科日本言語文化専攻助手)

本稿は、同じ身体部分を表す日本語「顔」 とロシア語≪ЛИЦО≫とを取り上げ、その用法の重なりとずれを考察し、それぞれと結びついている概念の違いを明らかにしようとするものである。言語は、その言語使用者の世界の捉え方を反映する。しかし、世界の捉え方・ものの見方は、母語話者にとっては当然の前提であり、意識されることがほとんどない。
したがって、異なる言語の比較も辞書的な意味のレベルにとどまるなら、対象への焦点の当て方、暗黙の価値判断や期待といった言語の背後にある世界の捉え方の相違を見落としかねない。そこで、この困難な問題に取り組むために、本稿は異なる言語の母語話者同士の協力という形をとる。日本語「顔」とロシア語≪ЛИЦО≫とは、身体部分としての意味のほか、〈全体を代表するもの(看板やサンプル)〉、〈人やモノの個性〉、〈人やモノの一側面〉、〈名誉〉といった多くの用法を共有している。その一方で、日本語にある〈人脈〉としての用法はロシア語になく、ロシア語にある〈個人そのもの〉としての用法は日本語にないというように、重ならない用法もある。
多くの用法で重なり合うように見える両語ではあるが、子細に検討すると、焦点化の方向と程度に大きな違いが見られる。日本語「顔」は、本稿で定義する〈立場〉の概念との結びつきが顕著である。またそれによって〈人脈〉の概念との結びつきも説明できる。一方、ロシア語≪ЛИЦО≫は、〈個性〉の概念との結びつきが顕著であり、その方向で種々の派生語も生じている。 日本語にない〈個人そのもの〉という用法はその延長線上にある。
要するに、同じ対象の持つ特徴の中でも、日本語は他者に向けた表側としての側面に、ロシア語は個人の内的特徴の現れという側面に焦点を当てていると言える。

「なぞ」 と「なんぞ」 の意味・機能:「など」 との比較を含めて
【PDF:92KB】
陳 連冬(大阪大学大学院博士後期課程)

「なぞ」「なんぞ」は、「など」と同じように、1)複数の名詞を並列した〈多項〉、あるいは同類のものごとの存在が読み取れる〈1項〉の名詞に接続して、基本的に〈肯定述語〉で受けて、「例示」 を示す、2)対立面と比較対照しながら〈1項〉の名詞に接続して、基本的に〈否定述語〉で受けて、話し手の「否定的評価」を表す、という二つの基本的意味・機能を示すことを確認した。
また、明治期から現代(1980年以降)にかけて両意味・機能のかかわりを見れば、「例示」用法から、「否定的評価」が発展したことも見られる。これは現実世界のものごととの関係を表す客観的な用法から、話し手による主観的(主体的)な用法への展開と見ることができるだろう。
ただし、明治期では、「など」「なぞ」「なんぞ」および「なんか」のいずれの形式も用いられていたが、現代では、「なぞ」と「なんぞ」は使用されなくなり、「など」と「なんか」だけが使用されるようになっている。すなわち、明治期と比べて、現代では、文章語は「など」へ、口頭語は「なんか」へ、という役割分担の方向に向かっている。
意味・機能上の類似形式「など」によって、文章語から追い出された「なぞ」と「なんぞ」は、口頭語で強力なライバルの「なんか」に脅かされ、最後は消滅の道を歩んでしまったのだろう。

日本語学習者と母語話者の会話参加における変化
:非対称的参加から対称的参加へ

【PDF:112KB】
岩田 夏穂(お茶の水女子大学大学院人間文化研究科国際日本学専攻博士後期課程)

日本語教育の現場では、学習者と母語話者がともに活動に参加する様々な試みが行なわれている。参加者は、そのような場面でどのように会話に参加しているのだろうか。相手の発話を踏まえて談話を展開し合い、対称的に参加している場合もあれば、一方にイニシアチブが偏り、非対称的なやり取りになる場合もあると考えられる。このような会話参加の様相が形成されるプロセスに焦点を当てた研究は、今のところ非常に限られている。
本稿の目的は、学習者と母語話者の会話参加における対称性、非対称性という様相が協同構築されるプロセスを詳細に記述し、何がその変化のきっかけとなったかを明らかにすることである。分析対象は、留学生と日本人学生による自由会話である。会話参加の変化を量的に示すため、発話の連鎖に注目するイニシアチブ-レスポンス分析(IR 分析)のコード化システムを用いた。
変化のきっかけについては、会話における相手と自分の捉え方、つまり参加者のアイデンティティが関わっていると考え、エスノメソドロジーの会話分析におけるアイデンティティ・ カテゴリーの概念を用いて質的に分析した。分析の結果、母語話者の質問と学習者の応答という一方向的で著しく非対称的だったやり取りが、次第に自発的に意見や情報を述べ合うという双方向的で対称的なものへと変化したことがわかった。そのきっかけは、選択されるアイデンティティ・カテゴリーが「留学生対日本人」のように両者が対立するものから、「スポーツ愛好家」のように両者を結びつけるものに変わっていったことである。母語話者は、会話の展開のリソースとなる情報やコメントを提供し、学習者は、質問やあいづち等で適切に相手に働きかけ、ともに互いの接点を見出そうとしていた。両者は、共通基盤に立ってやり取りできるアイデンティティ・カテゴリーを柔軟に交渉、選択し、それが参加の様相の変化をもたらしたことが示唆された。

アメリカでの日本語教育におけるコンピューター及びインターネットの使用状況調査
【PDF:英文/95KB】
尾本 康裕 (カリフォルニア大学バークレー校講師)
深井 美由紀(コロンビア大学講師)
恵子・シュナイダー(サザンメソジスト大学講師)

テクノロジーを巡る我々の状況はここ10年で大きな変貌を遂げた。特にインターネットの出現により、我々の生活・教育はパラダイムシフトといってもよいほどの変化を見るに到った。現在、アメリカの公立学校の87% がインターネット環境を有するという報告さえあるほど、教育目的のインターネット利用はごく普通のものとなっているが、外国語教育もその例外ではない。
本稿では、アメリカの日本語教育現場でのコンピュータとインターネット使用について、アンケート調査を基に考察する。アンケート調査は、アメリカ全国規模の日本語教師団体二つの会員から、無作為抽出された500人を対象に、2002年4月に行なわれた。本調査では1) 教師のコンピュータの使用状況及び日本語環境とその技術支援、2) 学校での教室活動で使用可能なコンピューター数、3) 教室活動の一環として行われたテクノロジーのプロジェクト、という3点に的を絞り、データを収集した。その後、回収された243通の回答を、調査に参加した教師の教育機関レベルに3つのグループ(初等教育、中等教育、高等教育)に分け、比較・分析した。
結果、在米日本語教師は自分専用のコンピュータを所有しており、また高等教育に従事する教師が初等・中等教育の教師よりも新しいオペレーティングシステムを使用している傾向にあることがわかった。教育機関の日本語使用への技術支援が不足していることも判明した一方、多数の教師がインターネットを現場で積極的に使用していることも明らかになった。
多言語コンピューティングの発達に伴い、英語環境での日本語使用がより容易になった現在、日本語教師のテクノロジーの更なる有効利用を目指すためには、外国語教育の理論を考慮したテクノロジーの活用法に力を入れた教師研修が不可欠である。本稿では単に現状の分析結果だけではなく将来のテクノロジー活用の展望にも目を据えて報告する。

20世紀初頭ハンガリーで出版された日本語教科書とその時代背景
【PDF:193KB】
近藤 正憲
(カレル大学哲学部東洋研究所日本研究学科客員講師
(国際交流基金海外派遣日本語教育専門家))

戦前の中東欧の日本語教育についてはまだ知られていないことが多い。しかし、政治的、経済的な交流の深まりとともに中東欧地域はこれまでになく日本人に身近な存在になりつつあり、 現時点でこの地域の日本語教育の歴史について研究することは意味のあることであると考える。
本稿は20世紀初頭にハンガリーではじめて出版された日本語教科書を題材に、出版された当時の日本についての知識と、背景となった社会状況を明らかにすることを目的とする。ハンガリーではじめての、ハンガリー語で書かれた教科書は1905年に出版された。同書は日本に長期滞在した経験のあるハンガリー語母語話者が自らの経験と知識を総動員して書き上げた著作であると考えられる。今日の目から見ると教科書としては難点が多いとは言うものの、 母語で書かれた教科書の出版は日本語学習の大きな障害の一つを取り除いた点で高く評価されるべきである。また、同書の出版という事実そのものが当時のハンガリー人一般の日本に対する興味の高まりを物語っている。この日本への関心の高まりは日露戦争という政治的事件が契機となったものであるが、この背景には当時のハンガリー人自身が持っていた反露意識と、高揚するナショナリズムが存在していたと考えられる。
この反露意識の裏返しとしての親日意識は自ずと限界があった。極東において帝国主義的性格を強める日本がロシアとの協調関係を築き、足元のバルカン半島でスラヴ系諸民族による反オーストリア=ハンガリーの運動が激化するにつれ、日本に関する興味関心は次第に退潮していった。中東欧に限らず、ある地域の日本語教育の歴史を振り返ることは、その国や地域や民族の対日認識の歴史そのものと向き合う作業であり、それを知ることは外国で日本語を教えるものにとっては特に大切なことであると考える。

日本語個人教授プログラムの目的と実践
【PDF:76KB】
湯浅 悦代(オハイオ州立大学東アジア言語文学科準教授)

近年日本語のプログラムにはビジネス、エンジニアリングなど日本語以外の専攻を持った学生及び社会人、また留学などを通して様々な日本に関する経験を持った学生があふれている。
1998年の秋より、オハイオ州立大学東アジア言語文学科では、日本語個人教授プログラムが開始された。Dale Lange の論文 “Individuation of Instruction”(1972) でも主張されているように、 外国語教育において学習者一人一人のニーズを中心に据えた指導を行うことの重要性はどんなに強調しても強調し過ぎることはなく、Strasheim (1972) でも外国語教育における個人教授法の有効性が指摘されている。
日本語個人教授プログラムには以下のような利点が考えられる: 1) 日本語を学習する新しい機会を提供する、2) 学習者がそれぞれにあった進度で学習を進められる、 3) 学習者の多様化するニーズに対応する、4) 学習者が自然な雰囲気の中で日本語のコミュニケーションの実践的な訓練を持つことができる。本稿では、オハイオ州立大学における日本語個人教授プログラムの概要、その目的、またその注意点及び問題点を論じる。

中国人中学生が支援者との協働による作文生成において解決した問題
【PDF:106KB】
小田 珠生
(お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士後期課程、
国際日本学専攻応用日本語論講座)

外国人生徒の急増に伴い、彼らへの支援の、より良いあり方が模索されている。Cummins (1984)は、日常生活を営むための言語能力と認知的・学術的活動を行うための言語能力を区別し、後者は習得に時間がかかるとしているが、日常的な会話が流暢でも、まだ自分が伝えたいことを作文やテストで表出できない外国人生徒に対して、どのような支援が可能なのかは未だ模索中である。
本稿では、そのような生徒の中でも、母語で認知的・抽象的な概念を獲得してから来日し、母語での基礎的な読み書き能力が保持されている中国人生徒に対して行なった、作文の支援授業における生徒と支援者2名(日本人と母語話者)のやりとりを記述・分析した。そして、生徒と支援者が協働を通して日本語で作文する際に、どのような点がどのように問題として解決されたのかを調べた。支援授業では学習者中心を心がけ、いつでも母語による支援が得られる状況を設定し、いつ、どこで母語を使用するかも生徒自身に委ねた。
その結果、1.生徒の意識は、作文文法・語彙等の「低次の問題」の解決に傾いていたということ、2.生徒による質問は認知面に働きかけるもの (What/How 質問)が半数を占めていたということ、3.半数は支援者の働きかけによりインターアクションが開始されていたということが明らかにされた。解決された問題の多くが「低次の問題」であったのは、支援中の母語話者の発話が少なく、ほぼ日本語が使用されたからだと考えられる。
以上より、「いつでも母語による支援が得られる状況を設定する」だけでは、母語が十分に活用されない可能性があることが示された。このような「個別指導」という支援授業の形態は、学校の取り出し授業などで多くの外国人生徒が経験するものであり、今後は、母語による作文学習方法の追究や、母語話者の積極的参加を得られる協働のあり方を見直すことが必要である。

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