世界の日本語教育の現場から(国際交流基金日本語専門家レポート) サウディ・アラビアの日本語教育

キング・サウード大学
青沼国夫専門家
中村智之青年教師

日本人学校との交流会の写真
日本人学校との交流会

 「灼熱の太陽」月並みな言葉だがまさしくサウジの陽射しだ。真昼の太陽の下に放り出されると顔面がジリジリ焼けていくのがわかる。炎天下50度の熱風に晒されるたびに――このままフワーッと天国に行ってしまってもいいかなあ――と思えてくる。生死の境が不確かな気分になるのだ。リヤド郊外に広がる砂漠の遥かなる地平は、海の水平線にも似て、永遠の時との邂逅を思わせる。この雄大にして厳格なサウジの自然には、ほとばしる人間の情念さえも一瞬にして吹き消してしまうかのような迫力がある。この自然に触れたとき、逆らいがたく沈黙させられ飲みこまれている自己の存在が、そして一切合切の全てが、神の下にあることを思い知らされるのである。サウジの人々の荒々しくも憂いに満ちた声、眼光鋭くも媚びを秘めた眼差しに出会うたびに我々はこのことに気づくのである。
 1994年から始まったキング・サウード大学の日本語教育も今年で10年目を迎える。これまで5人の専門家が、1999年から青年教師も加わって、エジプト人教師とともに、荒波の中、日本語コースを支えてきた。昨年より安定期に入ってきたように思われる。講師の確保などを考えると順風満帆とは言えないが、カリキュラムや教材等の本格的な基礎作りが期待されている。特にカリキュラムにおいては今年度、学部全体を上げて見直しを行いはじめているところである。
 学生達はその第一印象からは想像できないほど、無邪気で可愛げがあり屈託がない。ある日の授業のこと、「昼ご飯を食べましたか。何を食べましたか」と質問した。一人の学生が「ネコを食べました」と真顔で答える。「ネコを…」実は「ニクを食べました」と言いたかったのである。アラビア語の母音はa,i,uの3種類なので「ni」と「ne」、「ku」と「ko」の区別がまだはっきりできない学生もいるのだ。スポーツの話をすると目が輝き出す。柔道、空手、相撲などにも関心が高い。特にサッカーに対する熱意は相当なもので、日本人プレーヤーのことも中田や小野だけでなく無名の選手も知っていてこちらが教わる時もある。楽しい一こまである。
 しかし、家族の話では事情が異なる。家族の話題は自己紹介などと関連して、初級の早い段階から扱えるテーマなので他国でもよく取り上げてきた。「家族は何人ですか」「兄弟は」と聞いているうちはいいが「お母さんの名前は何ですか」と訪ねると、「教えません」という返事が返ってきたことがある。意地悪されているのかと思ったがそうではなかった。この社会では家族の女性の名前や年齢は極秘事項なのである。同じサウジ人でも友人の家族の母や姉妹と会ったことがないというし、「兄嫁とは電話でしか話したことがない」という実話もある。全くサウジの女性はベールに包まれている。これは比喩ではない。実際に彼女たちは黒い布で全身を覆い、顔も隠して街を闊歩するのである。而してその実体は誰も知らない。女性について触れることはタブーなのである。授業の話題を選ぶときは注意が必要である。
 観光を目的としてこの国を訪れることはできないため、残念ながら授業以外に日本人と接する機会がほとんどない。折に触れ、リヤド駐在の日本人(男性のみ)に集まって頂き、学生と一緒に夕方から夜遅くまで、食事を共にしたりサッカ―をしたり、話をしたりする場を設けている。この企画は、サウジアラビアの習慣「イスティラーハ」を模したものである。学生にとって生の日本語に触れる貴重な機会になるのは言うまでもないが、現地日本人の方々にとっても、職場とコンパウンドの往復という限られた生活を送っていてサウジ人に接することがないそうで、非常に喜んで頂いている。但し、公には集会は禁止されているので、これも多少の注意を払う必要がある。
 そんな中で、年1回の日本人学校との交流会は、ビジターセッションとして大切な行事だ。お互いの国の歴史や生活文化を紹介し合う体験学習である。今年、日本人学校の生徒は信長、秀吉、家康を紹介しながら武家社会の説明をした。盆踊りを一緒に踊ったり、ドッヂボールゲ―ルをした。また、一輪車の披露もあった。サウジ人学生はサウジの建国と現代史のトピックを紹介し、カプサというサウジ料理の作り方を説明した。日本人はアラビックコーヒーを試飲した。また、ムラバット、ムルタークというサウジの子供の遊びを日本人学校の生徒と一緒に楽しんだ。学生の礼儀正しさに感嘆した日本人学校の校長から「是非いつでも日本人学校を訪問してほしい」というありがたい言葉を頂戴した。
 気候や土地などの厳しい自然条件もさることながら、この地の歴史は古くから民族と宗教の闘争史と言っても良いほど、激しい社会史を展開してきた。そこで育まれた精神文化は我々の想像を絶する様相を呈している。単純な解釈など跳ね返してしまうほど異文化度は強烈に高い。よそ者に対しては高慢にして傲慢な態度、見事なほどの自己顕示欲の強さと警戒心。これらが内輪の人間に対しては微笑みとともに親しみ、寛大過ぎるほどの慈しみともてなしに変わる。彼らの胸の内で何の矛盾もためらいもなく、自然なる態度として表れてくるのである。
 2003年に入ってからイラク戦争に関連して学生達と中東の問題を話し合ってきた。民族、宗教、歴史、政治経済、安全保障と話題は多岐にわたる。だが、ゴールは同じだ。どの人々も安定した静かで平和な生活を求めている。どうすれば平和が訪れてくるのだろうか。日本語教育を通して学生達をはじめとした関係する人々とともに考えていきたいと思っている。(了)

派遣先機関の情報
イ.派遣先機関の位置付け
  及び業務内容
キング・サウード大学は、1994年に言語翻訳学部に日本語講座が開設された。今のところ湾岸諸国の中で唯一、日本語を専門的に学べる教育機関であることから、湾岸諸国、ひいてはアラブ諸国における日本語教育の中核を担う役割を期待されている。また、同大学日本語講座は、言語翻訳学部の中に位置づけられていることから、日本語を通して全般的な日本理解を深めるというよりは、翻訳や通訳など実務的な人材育成を主眼としていることも特徴のひとつである。専門家及び青年教師は日本語講座での日本語授業、カリキュラム・教材作成に対する助言を行う。
ロ.派遣先機関名称 キング・サウード大学
King Saud University
ハ.所在地 P.O.Box 87907, Riyadh 11652, Kingdom of Saudi Arabia
ニ.国際交流基金派遣者数 専門家:1名 青年教師:1名
ホ.日本語講座の所属学部、
  学科名称
キング・サウード大学言語翻訳学部・アジア言語学部
ヘ.日本語講座の概要
(イ)沿革
(1)講座(業務)開始年   日本語コース:1994年
専攻:1993年
(2)専門家・青年教師派遣開始年 1993年
(ロ)コース種別
専攻科目(5年制)
(ハ)現地教授スタッフ
常勤2名(うち邦人0名)
(ニ)学生の履修状況
(1) 履修者の内訳   レベル訳 第1:16名、第3:7名、第4:6名、第10:2名
(2) 学習の主な動機 日本への憧れ、日系企業への就職希望
(3) 卒業後の主な進路 日系企業就職
(4) 卒業時の平均的な
日本語能力レベル
レベル差あり。一番優秀な学生は能力試験2級未満
(5) 日本への留学人数 通算3名

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