世界の日本語教育の現場から(国際交流基金日本語専門家レポート) 農村の外国語~日本語

黒龍江省教育学院
田邉知成

中国東北部とりわけディープノースともいえる黒龍江省は、日本企業がさほど多く進出している地域ではありません。にもかかわらず多くの中等学校で日本語教育がおこなわれています。この理由は容易に想像できると思います。それはこの地域がかつての「満州国」であったためです。その歴史的な要因のために解放後も日本語教員が豊富であったこと、日本語と系統の近い言語を母語とする国内少数民族が多いことなどの理由が重なったために、現在でも多くの学校で日本語教育が実施されているのです。特にこれらの少数民族(具体的には朝鮮族・モンゴル族)にとっては、母語に近い日本語の学習は大学受験に有利にはたらきました。

しかし、近年中国の大学でも、市場経済への移行、そしてそれに伴うWTO加盟、コンピューターの普及、北京オリンピック開催決定などの流れの中で、英語を重視する傾向が日増しに強まっていて、大学の受験科目から日本語を外すところが増えてきています。「今後大学等の高等教育はすべて英語でおこなうべし」というような極端な意見も出始めていて、今後はますます中等でその他の外国語を選択した学生には不利な状況になっていくでしょう。その結果、黒龍江省でも多くの中等学校で日本語が廃止または縮小されました。中国の人口の9割を占める漢族の学校はもとより、今まで「日本語学習は受験で有利」とされていた少数民族の民族教育(漢語と民族語を併用した教育)でも同様の傾向が現れています。

もともと先に述べたような理由で日本語教育が盛んであり、また地理的にはロシアに近い黒龍江省は、英語教師となるべき人材がさほど豊富な地域ではありません。とりわけ朝鮮族の民族教育出身者ではその人材が極めて限られ、英語教師の確保はなかなか難しいものがあります。現在、比較的容易に英語教師を確保できる都市部の学校では日本語を廃止して英語に切り替えているのに対して、農村部の学校では英語教師が確保できないという消極的な理由で日本語教育が継続されています。通常、成人教育では日本語というのは経済の発展した大都市が中心ですが、中等教育とりわけ黒龍江省での日本語は「農村の外国語」と言うことができるでしょう。

英語というものが一般中国人の教養とみなされつつある現今の状況は、国際環境が大きく変化しない限りおそらくは今後も覆ることはないでしょう。このようななかで、中等での日本語教育が生き残っていくためには第二外国語としての道しかないのではないか(上海などの大都市では日本語が実利的な目的で学習されているところもある)と思われます。中国政府も英語は不可欠な教養としながらも「少数言語」の学習もまた重要であることを認めています。わたしは、現職教師の再研修をおこなう教育学院という機関で、日本語教育を担当する専門員(中国語では教研員)とともに活動していますが、現況では専門員の活動目標もどちらかといえば「(すでにある日本語の火を)消さないための努力」という方向に向かっています。したがって、わたしの活動も農村部が中心となります。

現在のわたしの主な活動は、農村部の日本語教育を実施している各校を専門員とともに巡回することです。現地の教師・学生たちのなかには、生まれて初めて出会った日本人がわたしであるという人も少なくありません。ある小学生は、「先生(わたし)にはどうしてひげがないのか」と真顔で尋ねてきました。「それは、わたしが東条英機ではないからだ」と答えておきましたが、テレビドラマに出てくる関東軍の軍人の姿しか知らない子供たちも多いのです。そういった人々と出会い、語り合える時間は、わたしにとって非常に有意義なものです。自分の学習した日本語が実際に日本人に通じたという喜びを率直に語ってくれる人もいます。「学習言語が実際にその言語話者に通じる喜び」という、外国語学習の楽しさをもっとも感じる瞬間に立ち会うわけです。わたしもかれらから浴びせられる質問には日本語に限らず、中国語であってもできるだけ丁寧に答えるようにしています。

また、やはり農村部で、教師たちの研修会なども実施しました。一部の教師を選抜するかたちで基金と(財)国際文化フォーラムが実施している夏の全国研修会を補完するという意味では一定の効果はあったと思いますが、地区の教師を一堂に集めて開催する研修会はなかなか資金的にもむずかしく、現在までの実施実績はたったの2地域2回です。今後はわたしが一定期間現地に滞在するようなかたちで現地の教師たちと日常的に接していくことができないものか、所属先の専門員や基金事務所と相談しているところです。今一番の悩みは、わたしの居住地であり都市部であるハルピンでなかなか活動に恵まれない点です。

派遣先機関の情報
イ.派遣先機関の位置付け
及び業務内容
 中国には基金北京事務所に日本語教育アドバイザー1名を派遣しているが、広大な国土を有する中国で日常的な支援を行うためには地方に駐在する必要があるため、中等教育で日本語教育が盛んな東北三省のうち、吉林省、黒龍江省の教育学院(初中等教師研修等の事業を行う公的機関)に2001年より青年教師を派遣している(2002年7月からは遼寧教育学院にも派遣開始)。青年教師は省の教研員(日本の指導主事に相当)と協力しながら、機関訪問を通じた情報収集、巡回指導、教師研修会・セミナーの開催、コンサルティングを行うほか、勉強会に講師として出席する等により、省内教師のネットワーク形成支援を行っている。
ロ.派遣先機関名称 黒龍江省教育学院
Heilongjiang Institute of Education
ハ.所在地 中国哈爾浜市南崗区和興路133号
ニ.国際交流基金派遣者数 青年教師:1名

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