世界の日本語教育の現場から(国際交流基金日本語専門家レポート) シチューの中の日本文化



国際交流基金サンパウロ日本文化センター
池津丈司

全伯大学生サンパウロ研修のビジターセッションの写真
全伯大学生サンパウロ研修のビジターセッション

 毎年1月に1週間の日程で行われる全伯大学生サンパウロ研修には、日系人の学生も多く参加する。研修では、学生が関心のあるテーマについて自ら調べ、ビジターセッションでブラジル在住の日本人駐在員やその家族などにインタビューを行い、あとで発表会を行うというメニューが盛り込まれている。その発表会には、また日本人が聴衆として招かれる。今年の研修には、日本人の食事のマナーとしつけについて発表した学生グループがあった。発表が終わって、聴衆からブラジルの家庭ではどんなしつけが行われるのかという質問が上がった。学生の答えは「ぼくは日系人だからブラジル人の習慣はわかりません」だった。君はブラジル人ではないのか。

 昨年のコラムにも書いたが、ブラジルでは継承語・継承文化教育の一環として日本語教育を行っている地域が多い。この学生もそういう日本人入植地の出身だ。こちらで発行されている日系人向けの邦字新聞に、入植地の日本語教師たちのリレーエッセイが連載されていた。その中に「われわれは日本人でも、ブラジル人でもなく日系ブラジル人なのだ」という言葉があった。この先生にとっても日系ブラジル人はブラジル人ではないのである。

 この国には日系ブラジル人というアイデンティティーがある。アイデンティティーは「自己同一性」と翻訳される。これではわかりにくいので「帰属意識」などと訳される場合もあるようだが、これはいささか誤訳の嫌いがある。その帰属意識を全て取り払ってしまった、ありのままの自分こそがアイデンティティーである。自分は日本人なのかブラジル人なのかという葛藤の末に、どちらでなくてもいいではないか、自分は日系ブラジル人なのだという結論にいたったのだろう。

 ブラジルは多民族国家である。カナダのようにフランス語圏と英語圏が住み分けられているような国の社会をモザイク型社会と呼ぶのに対して、アメリカやブラジルのような人種の混ざった社会は坩堝(るつぼ=melting pot)型社会と呼ばれる。しかし、ブラジルの日系人や同様のことが起きているといわれるドイツ系移民の存在などを考えると、この表現は適当でない。

 昨年8月、 国際交流基金サンパウロ日本文化センターはシアトル在住の日系アメリカ人ジャーナリスト、ロリ・マツカワ氏を招き講演会を行った。テーマは「多文化共生に果たすメディアの役割」で、戦後の日系人がいかにして敵国日本のイメージを払拭してきたかというお話だった。後日、氏と個人的にお話しする機会が得られたので、アメリカの日系人はどのくらいアメリカ社会に溶け込んでいるのか、アメリカの社会は本当に坩堝だと思うか、尋ねてみた。氏はしばらく考えて、「本当の坩堝ではなく、シチューでしょう。どのエスニックグループもずいぶん溶け込んでいるように見えて、肉やジャガイモやにんじんがまだ残っていますから」と答えてくださった。何とわかりやすい喩えだろう。ブラジルの場合もおそらくシチューである。多くの移民がブラジル社会に溶け込んでいる一方で、頑なに祖国の言語や文化を守ろうとしている人々も少なくない。

サンパウロ研修でのラジオ体操の写真
思いのほか大好評だった全伯初中等教育生徒
サンパウロ研修でのラジオ体操。入植地の研修
施設で行われた。

 では、日本人の文化はその頑な人々の間でのみ受け継がれているのだろうか。そうではない。街角でやきそばやかき揚、寿司をほおばっているのは日系人ではない。アニメ・フェスティバルでコスプレや日本のアニメソングのカラオケに興じているのも非日系人の若者たちである。日本では見られない海苔巻きのてんぷらなどというものも生まれている。日本文化はすでに日系人社会から溶け出し、ブラジル文化の味わいとなっているのである。しかも、このような伝播は大衆文化にとどまらない。ブラジルではないが、隣国パラグアイにある非日系人の経営する私立校では、日本式のしつけ教育が行われているという。生徒が廊下を雑巾掛けしているというから驚きである。

 昨年度は40代の中堅ベテラン教師が集まって、これから日本語教師を目指そうという人のための入門書を書き上げ、まもなく出版される運びである。教授法を勉強する前に読んでもらいたいというこの本には、言葉とは何か、文化とは何か、人はいかに言葉を学ぶか、教師は何をしなければならないかなど、教師に必要な視点や心構えがつづられている。行間からは、2世、3世、非日系など、さまざまな背景を持つ執筆者たちが乗り越えてきたアイデンティティーの相克と葛藤の軌跡が読み取れる。最も伝えたかったことは、日本文化は世界の幸福に貢献できるということだ。

派遣先機関の情報
派遣先機関名称
The Japan Foundation Sao Paulo Language Center
派遣先機関の位置付け
及び業務内容
国際交流基金サンパウロ日本文化センターの日本語関係の仕事は日本語教師支援、学習者支援、教材支援とネットワーク支援である。現在教師支援としては初中等教育教員研修、日本語セミナーの開催、他団体主催研修会への講師出講、学習者支援は各地で日本語を学ぶ高校生や大学生をサンパウロに招いて実施する学習者研修、全伯スピーチコンテストの開催など、教材支援ではサンパウロ州教育局の要請により中等教育用教材開発を行っており、ネットワーク支援としては「ブラジル日本語教育環境マップ」の作成と全国配布を行っている。
所在地 Av. Paulista 37, 2o. andar, CEP01311-902, Sao Paulo, SP, Brazil
国際交流基金からの派遣者数 上級専門家:1名
国際交流基金からの派遣開始年 2009年

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