世界の日本語教育の現場から(国際交流基金日本語専門家レポート) 2013年 ロンドンの「3.11」

国際交流基金ロンドン日本文化センター
福島 青史

英国のこのページを書くのも今年で三回目。今年は一つのイベントを取り上げて英国での日本語教育の一コマを紹介したいと思います。

「石巻日日こども新聞翻訳プロジェクト」とは?

翻訳ボランティアたちの写真
翻訳ボランティアたち

2013年3月10日の日曜日に「石巻日日こども新聞翻訳プロジェクト」を実施しました。「石巻日日こども新聞」とは、一般社団法人キッズ・メディア・ステーションが運営実施するプロジェクトで、東日本大震災の一年後の2012年3月11日創刊、発行部数2万部の「石巻の子どもたちの取材活動により、石巻の今を伝える新聞」(1)です。そして、「石巻日日こども新聞翻訳プロジェクト」は、英国で翻訳ボランティアを募り、この新聞を英訳する活動を通して、新聞の発信力を国際的に高めるとともに、ボランティアの震災に対する理解を深め、復興に参加する機会を作ることを意図して企画されました。イベント当日は日本語上級者、約40名が会場に集まり、石巻とインターネット電話で結び、まず「石巻市と震災」について、武内宏之石巻日日新聞社常務取締役に、次に、「石巻日日こども新聞」について、千葉拓人さん(東松島高校2年生)、齋藤桃香さん(蛇田中学校3年生)(2)に話していただきました。この後、Q&Aを経て、翻訳作業に入ったのですが、私は、このときの会場の穏やかな雰囲気が非常に印象に残りワした。そして、そこから言語教育の意義とその可能性について考えました。今年は、それについて書きたいと思います。 (イベントの様子はこちらからご覧いただけます。)

日本、日本語を媒介とするアイデンティティ

私がいつも接している「日本語学習者」というのは、多かれ少なかれ自己アイデンティティの要素の一つに「日本」が入り込んでいる人だと思います。特にこのイベントに参加した「日本語上級者」は、長期間にわたって日本語を学習し、日本での生活を体験するなど、日本抜きには自分を語れない人であるといえます。

そのような人たちにとって、この震災とその後の時間は、彼/彼女ら自身にとっての受苦でもあったのではないかと思います。当時、震災のニュースは英国でも報道されましたが、その映像は彼/彼女らにも強い衝撃を与えたと思います。とはいえ、遠く英国からは支援の手段も限られ、ずっと、もどかしい思いをしていたのではないでしょうか。しかし、このイベントで、石巻に生きる人の話を聞き、翻訳を通じて協働することで、そのもどかしさが少しだけ軽減されたのかもしれません。私が感じた会場の穏やかな雰囲気は、失われていた自分のどこかが修復した、その安堵感だったのでしょうか。

しかし、このような感情は、「日本語」を外国語として学ぶ「外国人」だけでなく、私のような在外邦人にもあったと思います。つまり、この思いは国籍や民族の区別ではなく、「日本」に関する記憶を自己アイデンティティとするかいなか、に起因するものであったと思います。そう考えると、言語教育には、国籍・民族が何であれ、人と人とを繋ぎ、思いを掛ける他者の範囲を拡大する機能もあるように思います。さらに言えば、現代の多文化共生の時代にあっては、この自他理解の促進は言語教育の新しい使命と言えるかもしれません。

複文化性の促進と「相互理解のための日本語」

英国、および欧州はこの多文化共生の最前線といえます。実際、「相互理解」「異文化理解」は大きな政策課題の一つとなっています。この課題がいかに困難なものであるかは、近年の欧州における移民をめぐる暴動が示していますが、そんな中、欧州の言語教育では様々な工夫を凝らして、この課題に取り組んでいます。

欧州の言語教育政策をリードする主要な団体の一つとして欧州評議会がありますが、その文書(3)に「複文化性Pluriculturality」「異文化性Interculturality」という概念があります。「複文化性」とは「二つ以上の文化の価値・考え・習慣にアイデンティティを感じ、それらの文化に積極的に参加するのに必要な言語的、行動的能力を持つこと」とあります。この考えによれば、欧州で生きる個人は、英国文化、フランス文化など国家を基盤とした文化に分断されることなく、個人の「複文化性」により、国家の領域を超えて繋がることができます。そして、このような多文化領域に参加するための能力の一つとして「異文化性」が挙げられています。この能力は自文化の自明性を批判的にとらえつつ、他者と関係を形成できる能力です。おそらくこの二つの能力は相互に作用しており、「異文化性」を発揮し、異なる文化・言語の差を超えて、相互理解の地平を切り開いていけば、その過程で、個人内の「複文化性」がより多様なものになり、より個性的な「自分」が形成されていくと思います。この相互作用によって、より多様な文化背景の人が、相互の差異を認めつつ、対話を通じて、社会に参加していくモデルが示されると思います。

「こども記者」とのQ&Aの写真
「こども記者」とのQ&A

今回のイベントでは、石巻の現状に思いを寄せる参加者の姿を見て、参加者の「複文化性」の発現を確認しましたし、「こども記者」とのやりとりを見て、この能力が人と人との直接的な出会いにより、触発されることも知りました。穏やかな雰囲気の中で交わされる言葉を聞きながら、これが、国際交流基金が掲げる「相互理解のための日本語」の一形態ではないかと考えました。もちろん、英国において「相互理解」は穏やかなものばかりとは言えませんが、英国における豊かな個人の複言語・複文化性の促進は、日本語教育の中心的課題の一つではないかと思いました。

  1. (1) 「石巻日日こども新聞」に関する情報は、以下のリンクを参照しました。
    http://kodomokisha.net
    本プロジェクトによる英語版はhttp://kodomokisha.net/e/index.html
  2. (2) 学校、学年はイベント当日当時
  3. (3) Council of Europe(2009). Autobiography of Intercultural Encounter: Context, concepts and theories.
派遣先機関の情報
派遣先機関名称
The Japan Foundation, London
派遣先機関の位置付け
及び業務内容
国際交流基金ロンドン日本文化センターは1997年に日本語センターを開設。その業務は、当地の教育情報の収集と支援事業の企画・実施である。
  • 教材開発と提供:初等教育用には「Ready Steady NihonGo!」、中等教育用にはリソース群「力CHIKARA」を開発、公開している。
  • 初中等各校における日本語導入促進を目的とした出張授業、教師のための研修会や日本語コース、教育情報を提供するコースなどを実施している。
  • このほか、スピーチコンテストの実施、英国日本語教育学会との共催事業、ウェブサイトを通しての情報提供などを行っている。
所在地 Russell Square House, 10-12 Russell Square,London WC1B 5EH,UK
国際交流基金からの派遣者数 上級専門家:1名
国際交流基金からの派遣開始年 1997年

ページトップへ戻る