世界の日本語教育の現場から(国際交流基金日本語専門家レポート) 小さいけれど大きいこと

チェンマイ大学
三登由利子

日タイ文庫の一部ですの写真
日タイ文庫の一部です
卒業論文を書く学生たちの写真
卒業論文を書く学生たち

 芥川龍之介『河童』、松谷みよ子『コッペパンはきつねいろ』、五味太郎『みんなうんち』これらの作品の共通点は何でしょう?
 動物に関係がある…ですか?
 いいえ。正解は、タイ語に翻訳されてタイで出版されていることです。タイ語に翻訳される日本の書籍は、バリエーションも幅広く『窓際のトットちゃん』、『五体不満足』、『冷静と情熱のあいだ』、『リング』のような大ベストセラーから、『りっぱな犬になる方法』までさまざま。私の学生の中には、子供の頃に上述の松谷作品や宮川ひろの『先生のつうしんぼ』など日本の児童文学にふれて感動したという人も少なくありません。アニメやゲームなどのサブ・カルチャーばかりでなく、日本文学のタイ進出も、日本語学習のきっかけとして大きな役割を果たしているようです。
 さて、最近「教師の役割とは、学習者の学習環境をデザインすることだ」とよく言われるようになりました。このHP上でも、学習環境をデザインするための活動成果についてふれている専門家がいて、私もとても刺激を受けています。私は、タイに来て初めて、タイで日本文学が広く受容されている状況を知り、「これは使える!」と思いました。そこで、日本の小説とそのタイ語版を集めた「日タイ文庫」を作ることにし、今も少しずつ充実させています。
 その結果、2004年3月の卒業生の卒業論文の中に、日タイ文庫を利用した実証的な日タイ対照研究がいくつか現れました。一つの小説の日本語版とタイ語版を並べて読み、ある文法事項がどのように翻訳されるかを調べることを通して、その文法事項の意味を深く探ろうとする研究です。これまでの辞書等の例文を丸写しした論文とは大違い。後輩たちは、先輩の卒論を見て自分に合ったテーマや方法論を選ぶので、この変化は今後も受け継がれるはずです。すぐ手が届くところに学習のリソースがあって、それをどう使えばいいか適切なアドバイスが得られる環境が整ったこと。これは大きな変化です。

 大学内の仕事の次は、ネットワーク形成のために開いたイベントについて報告します。

 このHPの2003年版に、「北部タイ日本語教師の会」の運営について書きました。専門家の役割の一つであるネットワーク形成支援がその目的です。しかし、教師会の参加者は、タイ人、日本人とも経験の浅い先生が中心です。一方、私の職場であるチェンマイ大学(CMU)のタイ人講師たちは、長い教師経験を持つ人ばかり。教師会にはあまり関心を示してくれず、ほとんど参加していませんでした。ネットワーク形成が目的の教師会なのに、北部タイの日本語教育の中核であるCMUの講師たちと他の機関の先生たちをつなぐ場になっていない。このことに赴任以来ずっと頭を悩ませてきました。
 先生同士が顔を合わせる場を作ることが目的なら、同僚に頼んで、何かのテーマで講演をしてもらうことも可能でした。でも、それでは同僚に一方的な負担を強いてしまいます。そういう無理がきくのは私がいる間だけで、あとが続きません。また、CMUの先生は情報を提供する人、他の先生はもらう人というような役割の固定化は避けなければなりません。大事なのは、参加者がそれぞれの立場で情報を交換し合える場作りです。では、どうすれば…?
 その一つの答えとして、2004年3月に「入試をめぐる意見交換会」というイベントを企画、実施しました。CMUが独自に実施している入試に2003年から日本語が採用されたことがその背景です。日本語入試の導入は、高校での日本語教育に大きなインパクトを与えました。また、CMUも入試問題や合格基準の検討、既習者に対応するためのカリキュラム改編など多くの課題を負うことになりました。ですが、両者をうまく結ぶパイプがなく、互いの実情が見えないままに、それぞれがその場その場の対応を迫られる状況でした。
 そこで、入試問題を作り、既習者を受け入れるCMU側と、日本語の基礎を指導して送り出す高校側がお互いの現状や意見を交換し合う場が必要だと考えたのです。同僚たちもこの企画が自分たちにとっても意味があり必要だと言って、全員一丸となって準備が進められました。
 意見交換会当日は、北部地域の高校の先生ばかりでなく、日本語学校や他大学の先生方の参加も得られ、それぞれの立場からの活発な意見交換が行われました。参加者からは「毎年このような機会を作ってほしい」という声が多く寄せられ、CMUに対する周囲の熱い期待を直に感じた同僚たちもそれにこたえようとしています。

 私の後任はもう来ないことになったので、CMUからの報告はこれが最後です。学生用の図書室に、日本の小説とタイ語訳版が並んで置かれるようになったこと。わずか半日のセミナーが開かれたこと。これらはとても小さいことですが、専門家がいなくなった後にも芽を出し続ける種をまけたかな、と考えています。

派遣先機関の情報
イ.派遣先機関の位置付け
  及び業務内容
チェンマイ大学は、北部タイ日本語教育において中心的な役割を担い、チェンマイラチャパット、ナレースワン大学、パヤップ大学などでチェンマイ大学日本語科出身者が日本語の指導にあたっている。また、人材提供だけではなく、周辺大学機関への情報の提供、教材の貸し出しを行なう。チェンマイ大学タイ人スタッフは、種々のセミナーで、講師、アドバイザー、通訳などを務め、他機関のタイ人教師にとって指導的な存在である。専門家は日本語講座での日本語教授、カリキュラム・教材作成に対する助言を行う。また、北部タイ日本語教師の会の運営に協力し、日本語教師間のネットワークの構築に寄与している。
ロ.派遣先機関名称 チェンマイ大学
Chiangmai University
ハ.所在地 239 Huay Kaew Rd., Tambon Suthep, Amphur Muang, Chiangmai 50200
ニ.国際交流基金派遣者数 専門家:1名
ホ.日本語講座の所属学部、
  学科名称
人文学部東洋言語系タイ語学科
ヘ.日本語講座の概要
(イ)沿革
(1)講座(業務)開始年   選択:'77年
副専攻:'79年
主専攻:'87年
(2)専門家・青年教師派遣開始年 1978年
(ロ)コース種別
主専攻、副専攻、選択
(ハ)現地教授スタッフ
常勤9名(うち邦人3名。うち2名留学中)
(ニ)学生の履修状況
(1) 履修者の内訳   主専攻:各学年25、副専攻及び選択1年:100、2年:25
(2) 学習の主な動機 日本、特にサブカルチャーへの興味・憧れ、留学・就職などの実利への期待
(3) 卒業後の主な進路 日系企業・タイ系航空会社への就職、留学
(4) 卒業時の平均的な
日本語能力レベル
能力試験3~2級程度
(5) 日本への留学人数 7名(予定)

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