世界の日本語教育の現場から(国際交流基金日本語専門家レポート) 火の国、塩の土地の風の町で ~日本語教育は何ができるか~

バクー国立大学
平畑 奈美

バクー国立大学の写真
バクー国立大学

 アゼルバイジャンとは「火の国」、アブシェロン半島とは「塩の土地」、そこに位置する首都バクーの名は「風の町」を意味する。これらの言葉から想像されるとおり、アゼルバイジャンの国土の中心は荒涼たる塩の土漠であり、カスピ海からの強風が吹きつけている。

 アゼルバイジャンはアルメニア・グルジアとともにコーカサス3国を形成する。ロシア・トルコ・イランの3大国に挟まれ、各種言語・民族が複雑に混在する地域である。その中でアゼルバイジャンは唯一のイスラム国家で、物事を神の思し召しに帰結させる独特の思考様式は、日本人にとってわかりにくいところもある。

 アゼルバイジャンの場所を知らない人でも、かつて世界の石油の半分以上を産出していたバクー油田の名前は聞いたことがあるだろう。現在もカスピ海での油田開発が進み、多くの海外資本がバクーに入っている。一方隣国アルメニアとの戦争により、全国民の実に1割以上が難民となって首都に流れ込んでいる。ここでは豊かさと貧しさ、土着文化と国際化、迷信と米ドル、温和さと激情が渾然と共存している。

 2000年9月、アゼルバイジャンの最高学府バクー国立大学に日本語講座が開設された。その1年後の2001年9月に、最初の日本語教育専門家として筆者が赴任して2年、現在は、3学年23名の学生と2名の現地人教師、それに筆者という体制で、実質的に国内唯一の日本語教育機関となっている。赴任当初は大学に教科書もテープレコーダーもなく、日本語で意志疎通ができる人物も存在せず、絵に描いたような無い無い尽くしだったが、各方面からの援助を少しずつ取り付け、大学との交渉を重ねた結果、学習環境は格段に充実した。今は日本語専用教室でNHK海外放送を24時間受信することもできる。日本語講座はバクー大学で最もよく勉強する講座として知られており、バクー大学の学生は日本語学習歴13ヶ月で全CIS日本語弁論大会に5位入賞、また2003年3月に初めて行なわれたコーカサス日本語弁論大会では上位をほぼ独占した。

 こうして2年間で日本語教育のそれなりの土台ができ、優秀な学生が育ち、コーカサス地域の日本語教育の中核を目指す発展への足がかりは得られたと言えよう。しかし筆者が考え続けてきたのは、ここでの日本語教育の意義という問題である。

 旧ソ連のスラブ地域には、伝統的な東洋学への興味というものがある。中央アジア地域には、日本との直接的なつながりがある。しかし当国の学生は、日本について「カラテ、ソニー、トーキョー」以外の情報をもっていないと言っても過言ではない。日本語講座の学生さえ、夏目漱石も小泉純一郎もわからないという。とにかく海外事情全般について驚くほどに疎い。ただ「日本語を勉強するといい仕事につける」という、アゼルバイジャン独特の超楽天思考で日本語を選択するが、現実は決して楽観視できるものではない。

バクー日本語弁論大会の写真
バクー日本語弁論大会

 このような国では日本語を教えるだけでは充分ではない。日本語を学ぶ過程を通じて、彼らが人間として、社会人として、成長し、新しい目で自分の国と日本と世界を捉えられるようになり、何よりも知ることの喜びを感じてくれなければ意味がないと考えるようになった。

 従って筆者が力を注いだのは、日本語を使って自ら考える場と、外国人と触れ合える環境を作ることだった。毎週のスピーチのほか、文学書講読プロジェクトを実施、また、あらゆる機会を捉えて学生たちを外国の人たちと交流させた。パーティや市内観光を企画しては在留邦人を招待したり、日本人会の協力を得て、学生に日系企業を訪問させ、アンケートとインタビュー調査を行ない、ビジネス現場の厳しさと、世界標準的常識の重要さを認識させたりもした。

 今、学生たちは、市内在留邦人の全員を知っている。そして、遅刻が日常茶飯事のこの国で、彼らは遅れない。雪の日にバスが止まっても休まない。そして言い訳をしない。

 しかし、日本語教育の当地での意義に関連して、最も強く印象に残っているのは先に述べたコーカサス弁論大会での光景である。血で血を洗う係争関係にあるアゼルバイジャンとアルメニアの学生は、最初は対立していた。その学生たちが、レセプションのあと踊りだした時のことは忘れられない。もとは兄弟国だった3つの国の日本語学習者たちはそれぞれのグループに分かれて、互いによく似たそれぞれの国のダンスを踊りながら、やがて手をつなぎ、丸いひとつの輪になって踊っていた。日本語教育に、この地で何ができるか。ひとつの形を見た思いであった。

 3年目以降の課題は、日本語教育を始めようとしているバクー市内の教育機関、またコーカサス地域の他の教育機関との連携、そして優れた日本語教師を輩出することであろう。砂漠の国の時間は、神の思し召しによりゆっくりと流れるが、継続と努力により、道は開けていくだろう。

派遣先機関の情報
イ.派遣先機関の位置付け
  及び業務内容
バクー国立大学日本語講座は、開講されて3年であり、未だ小規模ながら、国内唯一の、専門的かつ継続した日本語教育を行っている。国内のみならず、コーカサス地域全体の日本語教育の中心としての役割を果たせる機関として発展することが期待されている。現在、アゼルバイジャンには日本語の専門家がほとんどおらず、通訳・次世代日本語教師などの早期育成が望まれているが、同日本語講座の最初の卒業生輩出までにあと1年を要する。
 専門家の現段階での役割は、1)ハード・ソフト両面での日本語学習環境の整備 2)学習者の日本語レベルの向上 3)現地人日本語教師のバックアップ の3点に集約される。
ロ.派遣先機関名称 バクー国立大学
Baku State University
ハ.所在地 370145 Azerbaijan Baku Z.Khalilov St. 23
ニ.国際交流基金派遣者数 専門家:1名
ホ.日本語講座の所属学部、
  学科名称
東洋語学部 アラビア語学科 日本語講座
ヘ.日本語講座の概要
(イ)沿革
(1)講座(業務)開始年   2000年
(2)専門家・青年教師派遣開始年 2001年
(ロ)コース種別
専攻コースのみ
(ハ)現地教授スタッフ
常勤 2名(うち邦人0名)
(ニ)学生の履修状況
(1) 履修者の内訳   23名(1年生:10名、2年生:7名、3年生:6名)
(2) 学習の主な動機 就職に有利との判断、珍しい言語への興味
(3) 卒業後の主な進路 まだ卒業生を出していない
(4) 卒業時の平均的な
日本語能力レベル
日本語能力検定1~2級と推定
(5) 日本への留学人数 4名(短期留学のみ)

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