世界の日本語教育の現場から(国際交流基金日本語専門家レポート) アゼルバイジャンと日本の距離

バクー国立大学
渡邊知釈

「ヤナル・ダグ」(燃える山)。学生が日本人訪問者を案内の写真
「ヤナル・ダグ」(燃える山)。
学生が日本人訪問者を案内

 初級の授業。「日本はアジアの国ですか。」「はい。日本はアジアの国です。」「じゃあ、アゼルバイジャンもアジアの国ですか。」学生たちにこう尋ねると、バラバラの答えが返ってくる。「アジアの国です。」「ヨーロッパです。」「コーカサスです。」「アゼルバイジャンはアゼルバイジャンです。」

 アゼルバイジャン共和国は世界最大の湖・カスピ海の西岸にある。豊富な石油資源に恵まれ、19世紀末には世界一の原油生産量を誇った。その後1世紀を経て再来したオイルブームに乗り、2005年~2006年にかけては世界一の経済成長率を達成しているが、拡大する貧富の差やインフレ、90年代の戦禍による多くの国内避難民などの問題も抱えている。

 筆者が勤務するバクー国立大学には40名弱の日本語学習者がいるが、それぞれの背景は実に様々だ。学校教育をアゼリー語で受けた学年とロシア語で受けた学年、首都で育った学生と地方出身の学生、避難民の学生、そして男性と女性・・・考え方や興味から服装まで見事に違う。そして、社会の変化があまりに急であるため、学年が1年違うだけで「世代」まで違うのではないかと思うこともある。「私は最近の若い人の考え方がわかりません」などと、19歳の学生が言っている。

 学習者の背景は多様でも、日本語を使って日本人とコミュニケーションがしたいという思いは一様だ。ところが現状、アゼルバイジャンの在留邦人は「絶滅の危機」にある。民間の日本人は、筆者を入れても片手で数えて指が余ってしまう。「先生、モスクワには日本人の留学生がたくさんいるそうです。私たちは負け組ですね・・・。」

ビジターセッションに聞き入る学生たちの写真
ビジターセッションに聞き入る学生たち

 何とかしてあげたい。学習者が他の日本人と交流する機会を提供することも国際交流基金の派遣日本語教育専門家としての役割の一つだ。その一環として、在アゼルバイジャン日本国大使館ならびにバクー日本人会の協力を得ながら、月一回、「日本語会話クラブ」を開催している。また、バクーを訪問する日本人がいたら、大学で話をしてもらうよう頼みこむ。

 しかし、まだ大きな難題がある。だんだん日本語で話せるようになってきた第一学年の学生は、決まってこう質問してくるのだ。「先生、私たちが卒業したら、日本語を使う仕事がありますか。」

 学生たちが気にするのも無理からぬことであるが、そのようなチャンスが極めて限られていることは事実である。日本と「日本語人材」をアゼルバイジャン社会にアピールすること。例えば弁論大会では、できるだけ多くのアゼルバイジャンの人々に来てもらえるよう、日本語スピーチにアゼルバイジャン語の翻訳字幕を映写し、合間には日本紹介映像を流すなどの工夫も行っている。

 しかしここで、より根源的なことに立ち返る必要があると考える。そもそも大学は職業訓練校とは違うはずだ。とすれば、大学での日本語教育は、道具としての日本語習得を超えた何ものかを提示できなければならない。卒業した学生が、たとえその後日本語を生かせる仕事に就けなかったとしても、自分は大切なことを学んだのだと胸を張って言えるように。

 これについて筆者が重視していることの一つは、日本語コミュニケーションに内在する「作法」の意識化である。例えば日本語では、「課長、大切な資料がなくなってしまいました。」とは言わないで、「課長、大切な資料をなくしてしまいました。」と、他動詞を使って自分の責任を表す。アゼルバイジャンに限らず、「自分の非を認めたら負け」という文化圏は多いが、日本語コミュニケーションにおいて自分の非を認めることが潔くて良いとされることは、最終的には学習者にも納得してもらえる。これは初級から中級前半レベルの課題であり、現地教師の担う役割が大きいため、筆者は教師勉強会などを通して理解の徹底を図るようにしている。

 そしてもう一つ、中級後半レベル以降で重視しているのは、「読む価値、見る価値のある素材」を提示し、世界観を広げる一助とすることである。例えば、地球環境問題や資源国の経済構造など、日本語の教室以外ではなかなか学べないことは多い。異文化理解も同様だ。例えば日本の文学や映画などに登場する「桜」のシンボリズムを理解するには、日本的な死生観をいったん受け入れなければならない。アニメ「となりのトトロ」にアニミズム的世界観を、アニメ「時をかける少女」に唯識論の刹那滅を見出すことだってできるのだ。

 学生たちは、それまで持っていた習慣や知識、信念の修正を迫られながら、成長していく。もちろん、それは教える側についても言えることだ。

 上級の授業。「日本は違う惑星の国です。」と学生は言う。アゼルバイジャンと日本の距離が縮まったな、と思う瞬間である。

派遣先機関の情報
イ.派遣先機関の位置付け
  及び業務内容
バクー国立大学日本語講座は国内唯一の日本語主専攻高等教育機関としてアゼルバイジャンの日本語教育の中心的役割を担っている。専門家の主な役割は、学習者、教師の日本語能力の向上、学習環境の整備、現地教師への研修、人材育成など緻密なサポートと総合的なコーディネートである。また、邦人社会、日本国大使館広報文化事業、日本の各機関との連携も重要である。
ロ.派遣先機関名称 バクー国立大学
Baku State University
ハ.所在地 23 Z.Xalilov St., Baku, Azerbaijan
ニ.国際交流基金派遣者数 ジュニア専門家:1名
ホ.日本語講座の所属学部、
  学科名称
東洋学部 極東言語学科 日本語講座
ヘ.日本語講座の概要
(イ)沿革
(1)講座(業務)開始年   2000年
(2)専門家・ジュニア専門家派遣開始年 2001年
(ロ)コース種別
主専攻
(ハ)現地教授スタッフ
常勤3名(うち邦人0名)  非常勤 2名(うち邦人0名)
(ニ)学生の履修状況
(1) 履修者の内訳   34名(1年生8名 2年生9名 3年生8名 4年生12名)
(2) 学習の主な動機 「就職のため」「日本文化に対する興味」「日本語への好奇心」
(3) 卒業後の主な進路 一般企業 官公庁 日系企業・在外公館 大学院進学等
(4) 卒業時の平均的な
日本語能力レベル
日本語能力試験2級受験レベル
(5) 日本への留学人数 毎年1名程度

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