世界の日本語教育の現場から(国際交流基金日本語専門家レポート) Input_Output_Exchange

バクー国立大学
渡邊知釈

 アゼルバイジャンの首都・バクーからバスに揺られ、カスピ海に沿って南に下る。はるか沖合には石油プラットフォームが点々とそびえ立つが、海面近くの重く湿った空気に霞み、蜃気楼のようにも見える。陸側に目をやると、広大な敷地に張り巡らされたパイプや巨大な貯蔵タンク群が突如として姿を現す。

サンガチャル石油基地の写真
サンガチャル石油基地。
撮影が許可されるのはここだけ。

 日本人駐在員の方のご尽力で、バクー国立大学日本語講座の学生たちとともにサンガチャル石油基地を見学する機会が得られた。一般の人が容易に訪問できる場所ではない。セキュリティチェックも厳重だ。それもそのはず、ここサンガチャル基地は、アゼルバイジャンの富の大部分を生み出している極めて重要な施設なのだ。外国による資本と技術のインプットがあり、今は順調にアウトプットが行なわれている。アゼルバイジャンのGDPの伸びは原油生産量の伸びとほぼ比例し、国民は豊かさを享受しつつある。

 しかし、鉱物などのリソースは無限にあるわけではない。無限のリソースというものがあるとすれば、それは人的資源に他ならない。

 我々の仕事は、人材という沃野へのインプットを行うことであるが、その際にはアウトプットをも常に見据えていなければならない。むろん、社会に還元できるような結果が得られるまでには多くの歳月が必要であるが、インプットに対するアウトプットの機会を提供することは、たとえミクロなことであっても、常日頃から努めていく必要がある。

 まずは日々の授業でできること。例えば日本語初級の授業では、学習者の限られた言語知識からアウトプットを促す仕掛けをいかに用意できるかが我々の腕の見せどころである。一方、中上級の授業で筆者が心がけているのは、日本語「を」教育することだけでなく、日本語「で」教育をすることである。例えば今学年度は、『Dolls』(北野武監督)を使った映画評論の授業を試行した。『Dolls』は旧ソ連圏でもよく知られているが、深く理解するためには、「恋愛」の思想史、近松門左衛門『冥土の飛脚』、人形浄瑠璃、谷崎潤一郎『春琴抄』、謡曲および三島由紀夫『班女』などの背景知識が欠かせない。一つの映画を見るために1ヶ月以上をかけて、資料読解や講義などのインプットとディスカッションなどのアウトプットを行なった。筆者にとって、大学で日本語文法や試験に出る読解だけを教えるというのは、教養ある人材を育成する場としては少々もったいなく感じる。

 文法などについては現地教師の担う役割を増やしていくという方針のもと、筆者は今年度、現地教師担当の「日本語特別講義」で使用するための教材を作成した。これは中級学習者の自然な日本語アウトプットのための「モニタリング能力」を育成することを目標としている。

1年生に折り紙を教える3年生の写真
1年生に折り紙を教える3年生

 教室の外でできること。日本語弁論大会や、在留邦人との交流の場である「日本語会話クラブ」は、学習者にとって貴重なアウトプットの機会であり、相互の信頼が維持できるような運営を継続的に行なうことが求められる。今学年度はさらに、大使館広報文化事業との連携を密にし、学校などでの日本紹介イベントに学生を参加させていただいた。イベントの際、特に折り紙は子どもたちにも人気があるが、上述のイベント参加経験を通して、折り紙を教えることができる学生たちが自主的に下級生への技術継承を行なうようになったのはうれしい限りである。

 日本語コースには毎年学生が入学してくるが、多くは日本への留学や、日本語を生かした就職を希望している。筆者の基本的な方針は、留学や就職の機会があってもなくても、そこで学ぶ意味のある教育を実践することであるが、だからといって、制度としての日本語コースのアウトプット先を作り出す努力を何もしないでいるわけにはいかない。これに関しては関係各方面の協力をいただきながら様々なコーディネーションに努めてきたが、成果として、第4学年の学生の日本での就職および、国立大学法人群馬大学との大学間交流協定の締結が実現した。特に後者については大木正充・駐アゼルバイジャン日本国大使にもご支援をいただき、両大学学長による締結式がテレビでも報道されるなど反響が大きく、来学年度には複数の交換留学生を送り出すことができそうである。

 バクー国立大学日本語講座の学生が実際に社会に貢献できるようになるまでには、もう少し時間がかかるかもしれないが、この記事をお読みの方に是非とも考えていただきたいことがある。

 アウトプットされたものは、市場で交換されて初めて価値となる。モノとモノの交換には通貨が使われ、国際市場では米ドルが主に使用されている。一方、コトとコトの交換には言語が使われ、国際的には英語が主に使用されている。

 さて、円による取引の拡大に様々なメリットがあることは論を待たないが、それでは日本人は日本語を国際的に使ってもらうための努力を十分に行なっているだろうか。筆者は、円がハードカレンシーとして一定の役割を担っている程度に、日本語にも「ハードランゲージ」になってもらいたいと願いつつ、微力を尽くしていきたいと思っている。日本の富の大部分は、もとをただせば、日本語から生まれているのだから。

派遣先機関の情報
イ.派遣先機関の位置付け
  及び業務内容
バクー国立大学日本語講座は国内唯一の日本語主専攻高等教育機関としてアゼルバイジャンにおける日本語教育の中心的役割を担っている。ジュニア専門家の主な役割は、学習者への直接教授を含むコースマネジメント、現地教師の教授能力向上および研究のサポートを行なうことである。また、日本国大使館広報文化事業と連携した文化紹介イベント等の開催も重要な業務の一つであるほか、国内外諸機関との様々な案件のコーディネーションも行なっている。
ロ.派遣先機関名称 バクー国立大学
Baku State University
ハ.所在地 23 Z.Xalilov St., Baku, Azerbaijan
ニ.国際交流基金派遣者数 ジュニア専門家 1名
ホ.日本語講座の所属学部、
  学科名称
東洋学部 極東言語学科 日本語講座
ヘ.日本語講座の概要
(イ)沿革
(1)講座(業務)開始年   2000年
(2)専門家・ジュニア専門家派遣開始年 2001年
(ロ)コース種別
主専攻
(ハ)現地教授スタッフ
常勤3名(うち邦人0名)  非常勤 2名(うち邦人0名)
(ニ)学生の履修状況
(1) 履修者の内訳   各学年8~9名
(2) 学習の主な動機 「日本文化に対する興味」「就職のため」「日本語への好奇心」
(3) 卒業後の主な進路 「一般企業」「官公庁」「日系企業」「大学院進学」
(4) 卒業時の平均的な
日本語能力レベル
日本語能力試験2級受験レベル
(5) 日本への留学人数 1~2名程度

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