世界の日本語教育の現場から(国際交流基金日本語専門家レポート) 日本語専門家の業務を通じて思うこと

バクー国立大学
森 勇樹

 4月のはじめ、吐く息がまだ白い朝、私は子どもたちの前に立っていた。任地のアゼルバイジャン共和国ではなく、隣国のグルジアへ。ここにも日本語を学ぶ子どもたちや大学生、そして熱心なグルジア人日本語教師がいる。子どもたちは、春の新緑を思わせるまなざしで、私を見つめていた。

日本語専門家の仕事とは

 海外に派遣される日本語専門家(以下、専門家)の業務は派遣先機関によって大きく異なる。ここ、アゼルバイジャン共和国における専門家の主な業務は、派遣先機関であるバクー国立大学での日本語指導である。しかし、実際は国内の中等教育機関から高等教育機関までの日本語教育に関して、その多岐にわたる要請に臨機応変に対応し、それぞれの支援策を考えることが求められる。任国でたった一人のネイティブ日本語教師としての宿命。そして、時には、隣国へも足を伸ばす。

日本語を学ぶとは

『鉢かづき姫』の劇で使用した背景画の写真
ブリタニカ・グルジア英語学校で。
『鉢かづき姫』の劇で使用した背景画。

 グルジアの子どもたちは、好奇心いっぱいの表情で、同時に年齢特有の恥じらいも見せながら、もじもじしている。私は日本語と、ときおり彼らの理解できる英語を交えつつ、いくつか質問をする。好きな食べ物は?日本のどんなところが好き?などなど。時間がたつにつれて、照れと緊張で満たされていた場の空気が徐々に和らいでくる。

 最後に何か一言お願いします。そう校長先生に言われて、私は、はて何を話そうか、と考えをめぐらす。そうそう、最近よく考えていたこと、それを話してみようか。

 - 最後になりましたが、皆さんの中で、映画が好きな人、いますか?
 何人かの子どもたちがおずおずとしながら手を上げる。
 -『スラムドック$ミリオネア』という映画、見たことある?

 何人かが、首を縦に振る。何人かは隣同士でごにょごにょ。そして、はっとした顔でこちらを向き、大きく縦に首を振る。私はにっこりして、簡単なあらすじを話し出す。

 多くの国の日本語教育関係者が抱える問題に、在留邦人と日本企業の少なさがある。どうやって学習者に日本語環境を提供・確保するか、学習者の卒業後の進路についてどのような支援が考えられるか、この二つは常に頭を悩ます課題だ。ここ、アゼルバイジャン共和国でも同様である。日本・日本文化への素朴な興味から始まった日本語学習の途中で、学習者の中に必ず生まれる疑問。

 「私は何のために日本語を勉強しているんだろう?」

 その答えは、おそらく学習者自身が見つけるしかないのだろうが、そのための支援は、というと専門家である私もいまだに模索中である。

 子どもたちを前に、私は話し出す。

 「みなさんが一生懸命日本語を勉強しているのは、たぶん日本への興味や関心があることと、いつか日本へ行きたいという気持ちがあるからだと思います。ただ、残念ながら、みなさんが全員日本へいけるようになると、私は約束できません。途中で日本語の勉強をあきらめてしまう人もいるだろうし、がんばって勉強を続けても、やはりチャンスが得られなかったという人も出てくるでしょう。

 ただ、みなさんにわかってほしいのは、みなさんの日本や日本語との関わりは決して無駄にならないということです。

 『スラムドック$ミリオネア』の中で、主人公は過酷な人生を経験しますが、その折々に彼が学んだこと、得た知識が、最後には奇跡のような結果を生み出します。もちろん、そのような結果を誰もが手にできるとは言いませんが、一見、大した意味がなさそうな経験、ただ好きだから、趣味だから続けてきたこと、それがある局面で意外な結びつきを生むことが、人生にはあるのです。私は自分の経験でもそう思いますし、たくさんの学生を教えてきて、その彼らからもそう教わりました。

 みなさんの日本語の勉強の経験がいつか役に立つ日がくる、それを私は心から信じています。そして、みなさんにもそう信じてほしいと思います。」

涙の向こうにあるもの

バクー国立大学の一年生が折り紙クラブ結成の写真
バクー国立大学の一年生が折り紙クラブ結成!
難易度の高い作品もお手のもの?

 グルジア視察から帰ってきて、一人のアゼルバイジャン人学生を日本へと見送った。在学中は常に学年トップの成績だったにも関わらず、ずっと他の同級生に留学のチャンスを奪われてきた学生。卒業後も日本語の勉強を続け、文部科学省の奨学金を勝ち取った。

 そして、もう一人、こつこつと漢字を覚えることに一生懸命で、同級生からは「漢字ならあの人の右に出る者はいない」と言われていた学生。卒業して、兵役中も日本語の勉強をこつこつ続け、今回やっと日本へ行くチャンスを得た。知らせを受けて、彼はいつもの冷静な顔をつくろいながらも、喜びをにじませた。

 そして、もちろんその陰には、不合格になった学生もいる。ある学生は今回6回目のチャレンジ。不合格の知らせを受け、また今度がんばろうね、と声をかけたとき、目から涙がこぼれ落ちた。

 専門家の仕事、あるいは教師の仕事、それは、流す涙の向こう側にきっと求めるものがあると信じ、祈ることかもしれない。

派遣先機関の情報
派遣先機関名称
Baku State University
派遣先機関の位置付け
及び業務内容
バクー国立大学は、日本専門家を育成するべく、日本・日本語に関する専門を学ぶことができる国内唯一の高等教育機関であり、その知名度の高さから、アゼルバイジャン国内全体における日本語教育の中心的役割を担う。派遣先機関での専門家の役割としては、学習者、教師の日本語能力の向上、学習環境やカリキュラムの整備などである。その他に、中等教育機関(ギムナジア)での日本語コースへの支援、在留邦人と日本語学習者とのコーディネートなども行なう。2011年9月からは他大学で新たに開講される日本語コースのカリキュラム整備についてもアドバイジングなどの支援を行なっていく。
所在地 23 Z.Xalilov St., Baku, Azerbaijan
国際交流基金からの派遣者数 専門家:1名
日本語講座の所属学部、
学科名称
東洋学部 極東言語・文学科 日本語講座
日本語講座の概要
沿革
講座(業務)開始年   2000年
国際交流基金からの派遣開始年 2001年
コース種別
専攻
現地教授スタッフ
常勤2名(うち邦人0名) 非常勤2名(うち邦人0名)
学生の履修状況
履修者の内訳   35名(1年9名 2年10名 3年8名 4年8名)
学習の主な動機 日系企業への就職希望、日本文化への興味
卒業後の主な進路 日系企業就職、大使館就職、大学院進学、一般企業就職等
卒業時の平均的な
日本語能力レベル
日本語能力試験N2受験可能なレベル
日本への留学人数 年に3~5名程度

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