世界の日本語教育の現場から(国際交流基金日本語専門家レポート) モスクワで必要な「本当に使える」日本語

モスクワ国立大学アジア・アフリカ諸国大学
加納 直子

 モスクワ国立大学はロシアで最初にできた大学であり、1755年の創立以来、最高学府として国内の教育に中心的な役割を果たし、各界の著名人を数多く輩出してきた。モスクワ国立大学における日本語教育も、1956年以来の歴史をもち、常に国内の日本語教育をリードしてきた存在であると言えるだろう。

 当大学は、一般的に海外日本語教育機関に見られる悩みとは無縁に思える。人材不足?教材・教具不足?日本に行くチャンスがない?日本人に会うチャンスがない?……当日本語日本文学講座の20名近くの教師陣は全員優雅で知的な日本語を自在に操り、授業の他、教科書編纂、論文作成などにも力を入れている。教科書はロシア製のもの(つまり講座の関係者が書いたもの)を中心に使用しているが、日本製の教材や本も各所からの寄贈が相次ぎ、整理が追いつかない状態。日本に提携大学を数校もち、大半の学生に交換留学のチャンスがある。日本の大学からの提携の申し入れは続いているが、これ以上留学枠を増やしても学生を送れないので断っている。モスクワには留学生も駐在員も多く、日本人との出会いにも事欠かない。学生が日本企業でアルバイトをするチャンスもある。

 そうした中で、派遣先大学唯一の日本人教師に求められる役割は何か。赴任当初、指示された授業内容は、教科書を使った文法・読解指導などではなく、音声面の指導や会話、日本事情紹介であった。LL教室を割り当てられたこともあり、ビデオなどを随時使用しながら授業を進めていたのだが、学生との付き合いの中で、気がついたことがあった。ロシア人の自然な言動の中に、日本人にとっては不快なものがあるのだ。それは、授業中にガムをかむ、用があるときに黙って教室から姿を消す、というような一度注意すれば直りそうなものから、謝罪の言葉を口にしない、自分の非を認めない、といった、人間関係において致命傷になりそうなものまで様々である。実際にロシア人と一緒に働く日本人は、あきらめ顔で「ロシア人は絶対に謝らないし、言い訳の天才で、それを集めて本が書けそうなぐらいだ」と言う。また、ロシア人は仕事に対する境界意識が強く、手が空いている職員に仕事を頼んでも「それは私がやる仕事ではありません」とぴしゃりと断られるそうだ(社会主義の時代には、お互いそうやって雇用数を維持してきたのである)。しかし日本人社会なら、何をおいてもまず謝るし、気を利かせてどんな仕事もする。仕事が引き受けられない場合も、説得力のある理由をもって丁寧にお断りするだろう。日本人社会に入っていこうとする日本語学習者ならこれらの文化の違いは知っておくべきだし、流暢な日本語話者がこのようなミスを犯すと、意図的にやっていると誤解されかねない。しかし、それを注意・指導してくれる人物は教師以外にない。そこで、「日本人として感じる不快感や違和感」に敏感に、その点の指導を心がけている。その他、スピーチと作文の指導にも力を入れているが、何をするにしても当大学の学生は卒業後も各方面で活躍し、リードする立場になることが期待されるため、学生が身に付ける知識はその学生個人に留まらず、将来的に波及効果もあることを意識し、肝に銘じている。

 モスクワは観光都市である。春の訪れとともに海外からの旅行客が増え始め、秋まで途切れることがない。日本人観光客も例外ではなく、そこには日本語の需要が生まれる。正式に通訳ガイドとして仕事をするためには国から認められた資格が必要なのだが、個人的に客を案内することなら資格のない学生にもできるし、実際にその機会もある。そこで、休日を利用して時々、通訳ガイド実習を行っている。実習と言っても、学生と一緒に観光地に出かけて案内してもらい日本語を直すだけなのだが、博物館の説明で使われる用語、人を案内する際の注意点などの他にも、普段の授業で手が回らない細かい発音や文法の指導もできる。また筆者自身もモスクワのことをいろいろ学べるため、双方にとって有意義であると思っている。学生の中には美術館の講座に通ってガイドの資格をとった者もあり、日本語を使った仕事につながるのではないかと期待している。

 モスクワの教師対象には、毎月1回「日本語教師勉強会」を行っている。他の教育機関からも含め毎回10数名の教師が集まり、新聞記事を読んで話し合ったり、言語運用や語彙の使い分けについて疑問を出し合って学んだりしている。毎回の参加者にはベテランの先生もあり、経験を積んでなお学びつづける姿勢に頭が下がる思いである。筆者自身も毎回、勉強になることが多いのだが、今後も参加者全員にとって勉強になる勉強会にしていきたい。

 冷戦時代は地球の反対側にあるかのように思えたロシアも、今となればやはりお隣の国で、以前より身近に感じられる。モスクワでも同様、かつての東洋趣味や経済的興味は、日本食やビデオで販売される日本映画の人気にとってかわられたようだ。恵まれた環境で育った日本語学習者たちが日本の専門家として巣立ち、ロシアと日本との間の掛け橋を増やし続けてくれれば、いずれ両国の間に海があることを感じられなくなるのではないか。その日が来るのを楽しみにしている。

派遣先機関の情報
イ.派遣先機関の位置付け
  及び業務内容
 旧ソ連時代から、国内の日本語教育の中心的役割を担い、数多くの日本研究者、日本語教員を輩出してきた。現在モスクワで日本語教育に携わる教師の大半は当大学の出身である。古くから現在まで教科書などの教材開発が活発に行われており、国内で広く使用されている。卒業生には、著名な日本研究者や日本文学翻訳家も含まれている他、外務省や民間での日本勤務経験者も数多い。
 派遣教師は、各クラス週1回の授業を行い、学期末の試験・評価にも参加する。唯一の日本人教師として幅広く同僚教員の相談にのり、ロシア人教員の手が届かない雑務も行う。また派遣先を離れ、1ヵ月に1回モスクワ市内教員対象の日本語教師勉強会を行っている。
ロ.派遣先機関名称 モスクワ国立大学アジア・アフリカ諸国大学
Moscow State University, Institute of Asian and African Countries
ハ.所在地 11 Mohovaya Street, Moscow, 103009, Russia
ニ.国際交流基金派遣者数 NIS専門家:1名
ホ.日本語講座の所属学部、
  学科名称
日本語日本文学講座
ヘ.日本語講座の概要
(イ)沿革
(1)講座(業務)開始年   1956年
(2)専門家・青年教師派遣開始年 1993年
(ロ)コース種別
専攻
(ハ)現地教授スタッフ
常勤16名(うち邦人は0名)
非常勤0名(うち邦人は0名)
(ニ)学生の履修状況
(1) 履修者の内訳   103名(1年20、2年19、
3年23、4年26、5年15)
(2) 学習の主な動機 日本・日本文化への興味、東洋への興味、
親が卒業生、日本滞在経験がある
(3) 卒業後の主な進路 公務員、日系企業他
(4) 卒業時の平均的な
日本語能力レベル
日本語能力検定1級
(5) 日本への留学人数 毎年15名程度

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