日本語教育通信 海外日本語教育レポート 第12回

海外日本語教育レポート
このコーナーでは、海外の日本語教育について広く情報を交換したり、お互いの交流をはかるために、各地域の新しい試みやコース運営などについて、関係者の方々に具体的に紹介していただきます。

第12回  アイルランドにおけるヨーロッパ言語ポートフォリオ(European Language Portfolio: ELP)の日本語学習への活用例

アイルランド大学ダブリン校応用言語センター非常勤日本語講師
ダブリン大学トリニティカレッジ教育学科非常勤日本語講師
小木曽 左枝子

ヨーロッパ言語ポートフォリオ(ELP)とは?

  ここ何年か日本語教育関係者の間でも、欧州評議会により制定されたヨーロッパ言語共通枠組み(The Common European Framework of Reference for Languages: CEF)に関心が集まっています。ヨーロッパ言語ポートフォリオ(ELP)は、そのCEFを実際の学習の場に用いるための教育ツールで、(1)言語パスポート(Language Passport)、(2)言語学習記録(Language Biography)、(3)資料集(Dossier)の3つのセクションに分かれています。

  言語パスポート(注1)では、CEF参照レベル(Common Reference Level)を基盤とした自己評価表(Self-assessment grid)のレベルA1からレベルC2の6つのレベルに従い、言語別、技能別に、言語能力を記入し、提示することができます。言語学習記録では、CEF参照レベルの自己評価表に対応したチェックリストを使い、学習者が学習目標を設定し、自分の学習過程や熟達度の自己評価を行い、学習計画を立てることができます。資料集では、学習者が自分の学習言語の熟達度を示すのに重要だと思う学習成果を保管することができます。

  ELPの利点は、CEF参照レベルが基盤となっているので、学習者がどこの国で、どの言語を学習するにしても、自分の言語能力を明確に提示することができることです。また、ELPを使用し、学習計画を立て、自分の学習進行状況を記録していくことは、内省学習を促進し、自律学習を育成するのにも役立ちます。

アイルランドとELP

アイルランドは、ELP開発に貢献している国の一つで、現在までに欧州評議会の認定を受けているELPの六つ(詳細)がアイルランドで開発されています。アイルランドでは、特に移民への英語教育の一環として積極的にELPが活用されています。また、外国語学習のためにもELPの導入が試みられており、中等教育における外国語学習にELP使用を支援するためのプロジェクト(注2)も行われています。このようにELP使用が積極的な中、アイルランドの日本語教育でもELPが活用され始めています。

アイルランド大学ダブリン校の日本語コース

  私が勤めている大学の一つ、アイルランド大学ダブリン校では、応用言語センター(Applied Language Centre)が日本語を選択科目として他学部に提供しています。当センターでは、日本語だけでなく、全ての外国語コースでCEFのレベル記述を履修必要条件の提示に適用しており、センター内でELPプロジェクトも遂行しています。

  2005年9月より大学がモジュール化(注3)に移行し、学生が履修できる選択科目の幅が広がり、学部に関わらず全学生が日本語を選択できるようになりました。それに伴い、コースの明確なレベル提示が必要となり、また学生の言語学習経験、言語能力を把握する必要性からも、CEF及びELPの役割が重要となってきています。

  現在、当センターが提供している日本語コースには、初級1初級2の二つのレベルがあります。初級1は、日本語未習者用のコースなので、履修条件はありませんが、初級2は、初級1を終了しているかレベルがCEFのA1に達していることが履修条件となります。また、2006年9月より初級3のコースも設置される予定で、そのコースを履修するには、初級2を終了している、レベルがCEFのA2に達している、履修認定試験(Leaving Certificate Examination)で日本語を受験している、この3つのいずれかに該当することが条件となります。

日本語コースへのELP活用

  当センターでは、2001年度よりCercleSELP European Confederation of Language Centres in Higher Educationを使用しています。各コースは、週2時間の授業で12週間で終了します。通常、コース開始時に教師が ELPの説明を行い、そして、学生は言語パスポートのページを記入します。学生が記入した言語パスポートを教師が確認することは、学生の言語学習経験を把握するのに役立ちます。

  そして、言語学習記録は内省学習促進が使用目的の一つですので、学生は各技能で何ができるのかをチェックリストを使い自己評価を行います。日本語コースは、一つのレベルで教科書を四課終了するように設定されていますが、チェックリストの使用は各課終了時に行うようにしています。ですから、基本的に一つのコースで4回記入することになります。当センターで開発、使用している教科書は、学習項目がチェックリストにある項目に沿うように設定されており、各課終了時に何ができるようになるかも教科書に記載されています(資料2参照)ので、学生はそれも並行しながらチェックリストの記入を行います。

CercleS ELP の表紙画像
資料1. CercleS ELP 表紙
当センターで使用しているCercleS ELP
当センターで開発、使用している教科書のサンプル・ページの画像
資料2. 当センターで開発、使用している教科書のサンプル・ページ。
このページでは、Lesson 1終了時に何ができるようになるべきなのかが記載されている。

  もう一つのセクション、資料集(資料3参照)ですが、これは冬休み、春休みの休暇中に、復習の意味も兼ね、学生に今まで学習したものをまとめてファイルするように課題として出します。

  一つのコースで、このようにELPを使用していくよう試みていますが、短期間のコースですので、なかなか計画通りにはいきません。規定された時間内で、決められた学習項目を終了しなければなりませんから、授業内でELPの使用に割く時間が実際に取れないこともあります。また、少人数のクラスでは、学生が記入したELPをもとに個別指導(資料4参照)を行えますが、人数が多いクラスではそれが難しくなります。

資料集の表紙画像
資料3. 資料集表紙
学生はこのファイルに、プロジェクト、作文、語彙リストなど、自分の学習成果として重要なものをまとめていきます
学生にELP記入の指導をしている写真
資料4. 学生にELP記入の指導をしている写真
学生が記入した学習記録のチェックリストをもとに、何ができるようになったか、記入する上で問題点はないかなどを話し合う機会も作るようにしています

  学生からのELP使用への反応は、肯定的なものもあれば否定的なものもあります。やはり初級学習者にとっては自分がどのくらい日本語ができるようになったかはなかなか実感することができません。チェックリストを使用し、各技能で何ができるようになったか自己評価をすることにより、意外に自分ができるようになっていることがあることが分かり、それが喜びになり、学習の励みになる学生もいます。しかし、現在ELPの使用は最終評価の一部に入っておらず、評価に入らないELPに時間を費やすのを疑問に感じる学生もいます。まだ試行錯誤しながらELPを使用している段階ですが、授業で使用する時間、評価なども考慮に入れ、どのようにコースに取り入れていくかを考える必要性を感じています。

ELP使用における日本語特有の問題点

  授業でELPを使う際、重要な役割を担うのは、やはり自己評価チェックリストになります。当センターで2001年度にELPを導入した当初は全て英語版のページを使用していましたが、目標言語である日本語に少しでも触れる機会を増やすためにも、2003年度より日本語に翻訳したものを使用しています(資料5参照)。

  しかし、当大学の学生は初級学習者ですから、やはり日本語のチェックリストのみでは自己評価を行うことは困難なため、英語のチェックリストと並行して使用しています。現在日本語訳が出来ているのはA1とA2のチェックリストですが、五つのコミュニケーション技能(注4)の内、「書くこと」(資料6参照)と「読むこと」(資料6、7参照)には、日本語学習に必要な項目も付け加えています。

日本語翻訳版チェックリストの表紙画像
資料5. 日本語翻訳版チェックリスト表紙
当センターで日本語に翻訳し、使用している自己評価チェックリスト
(この日本語への翻訳は当センターで行い使用しているもので、
欧州評議会の認定を受けているものではありません。)

日本語版自己評価チェックリスト レベルA1「書くこと」の画像
資料6. 日本語版自己評価チェックリスト レベルA1「書くこと」
レベルを考慮し、漢字には全て振り仮名をつけてあります。レベルA1は仮名を学習中の学生も使用するため、同時にローマ字表記も施してあります
日本語版自己評価チェックリスト レベルA1「読むこと」の画像
資料7. 日本語版自己評価チェックリスト レベルA1「読むこと」
レベルを考慮し、漢字には全て振り仮名をつけてあります。レベルA1は仮名を学習中の学生も使用するため、同時にローマ字表記も施してあります

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  日本語で書かれたチェックリストを使用することは、初級学習者用に書き下ろされたものではない、ある意味本当の日本語(漢字仮名混じり文)に触れる機会を与えます。これは、日本語の書記体系への気づきを高めるのにも役立ち、文字学習の重要性を理解し、学習動機が高まる学生もいます。

  しかし、この文字、日本語の書記体系が問題点ともなります。ELPは基本的にアルファベット言語を対象に考案されたものですので、チェックリストで自己評価をする際、日本語特有の問題点が出てきます。特に、「読むこと」と「書くこと」で、学生から記入する際に質問が出てきます。「書くこと」で例を挙げると、「できると言うのには、漢字を使って書かなければいけませんか」(注5)といった質問をする学生もいます。これは、学生が自分のできることを注意深く考えているとも言えますが、学生にとって自己評価がしやすくないということでもあります。日本語の場合、学習漢字数などの文字知識がレベルを判定する際の一つの目安にもなりますが、ELPの能力記述文の特徴を考えると、日本語能力試験のように漢字数を提示することができません。しかし、実際にはどのレベルにどのくらいの漢字知識が必要かということは考慮に入れる必要があり、これは ELPを使用する上で一つの大きな課題と言えます。

一教師としてのELPの活用

  ここまでアイルランド大学ダブリン校でのELP活用についてお話しましたが、教師一個人としてもELPを日本語のクラスに活用していくことは可能だと思います。この場合は、ELPの教育的機能に焦点を当てた活用法になるかもしれませんが、言語学習記録のチェックリストは、学習項目、教室活動を採択する、授業内容を振り返るのに役立つと思います。私が以前教えていたある高校の移行年課程(注6)のクラスではAuthentikから発行されている中等教育用のELP(注7)を使用しましたが、それは生徒のニーズ分析、学習項目、教室活動の採択に有効に働きました。また、現在教えているダブリン大学トリニティカレッジの教育学科の経験学習を目的とした日本語コースでも、チェックリストをこれから学習する内容、また学習した内容を明確にするために、コース開始時と終了時に使用を試みています。「~ができる」という形で書かれた能力記述文は、学習者が何をどのように学習すればそれができるようになるかをよく考える機会を教師に与えてくれると思います。

日本語教育におけるELP活用への希望

  私がこれまで何とかELPを日本語の授業で使用することができてきているのは、私が勤めている両大学で、分からないことを質問、相談でき、また助言をしてくれる上司、指導教官に恵まれたからだと思います。アイルランド大学ダブリン校では、日本人上司と一緒にチェックリストの翻訳を行い、どのようにELP を使用していくかを話し合う機会があります。ダブリン大学トリニティカレッジでは、高校で教えていた際、ELPネットワークサポートグループに参加し、問題点などに関して相談する機会がありました。また、現在教えている教育学科の指導教官にも、ELP使用にあたり、いろいろ相談することができます。

   ELPを使用する際、それをどのようにコース、授業に取り入れていくかを話し合う機会を持つことは非常に重要だと思います。2005年3月に「ヨーロッパにおける日本語教育とCommon European Framework of Reference for Languagesが発行されましたが、これを機にELPを使用している日本語教師の間で、機関、国を超え、話し合いをする機会が持てるようになることを願っています。

本文注釈

参考資料

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