日本語教育通信 海外日本語教育レポート 第20回

海外日本語教育レポート
このコーナーでは、海外の日本語教育について広く情報を交換したり、お互いの交流をはかるために、各地域の新しい試みやコース運営などについて、関係者の方々に具体的に紹介していただきます。

【第20回】インド中等教育における外国語教育と日本語教育の位置づけ
Foreign Language Teaching in Secondary Education in India and Position of Japanese Language

パンダ・ナビン(Nabin Panda注1
デリー大学東アジア研究科 
政策研究大学院大学(博士課程)

1.はじめに

 インドの中央中等教育委員会(Central Board of Secondary Education、以下CBSE注2は2006 年に小学校6学年から日本語教育を導入しました。2011年に10学年(日本の高校1年に相当)、そして、2013年には12学年(日本の高校3年に相当)の最終試験に日本語科目を導入することが検討されています。以下では、CBSEで、だれによって、どうして日本語教育が導入されたか、現在、CBSE に属する学校でどのように日本語教育が行われているか、中等教育向けに作成された教科書はどう評価されるか、そして、これから日本語教育に関してどのような問題が起こると予想されるか、述べたいと思います。最後に、インドならではの事情として、英語教育が外国語である日本語の教育にどのような影響を与えているかにも触れたいと思います。

2.インド中等教育における外国語教育の考え方

 1966年に提出された、教育委員会レポート(Education Commission Report)はインドのNational Education Policy(国家レベルの教育政策)の基礎になるものですが、そこには中等教育での外国語教育の必要性が明確に記載されています。すなわち、インドの中等教育では、主に、世界の発想と技術知識を獲得することと、インド人の言語的寛容(linguistic tolerance)を高めることの二つの観点から外国語を学習させるべきであると書かれています。

 インドでは、イギリス植民地時代に英語による教育が主に行われていました。そのため、ヒンディー語をはじめインドの諸言語は、外国から次々と導入された新しい技術や思想を表現する語彙を持つことができず、その結果、独立後も、英語を中等教育に導入しなければならなかったのです。しかし、当時のインドの教育政策作成者たちは外国語を英語だけに限定せず、他の外国語も中等教育のカリキュラムに入れ、その学習を奨励しました。日本語が導入される前に、既に CBSEのカリキュラムには9つの外国語が選択科目として存在していました。

 なお、インドは多言語社会(インドの憲法は22の異なる言語を認めています)であり、言語間の摩擦を抑え、インド人が互いの言語を尊重し合えるように、中等教育では学習者の母語、ヒンディー語、そして英語の三つの言語を学習させる方針があります。しかし、この方針は固定的ではなく、これらの三つの言語は、ヒンディー語と英語のうちどちらか一つ学習すれば、後の二つの言語は、インドの言語と外国語を含めたどの言語も学習することができるような規則になっています。

3.中等教育に日本語教育が導入された背景

 インドでは1950年代から1980年代にかけて、日本語教育はあまり重視されず、一部の研究者以外には、政府の指令により、防衛関係者や外交官だけが、いわゆる戦略的な目的から日本語を学習していました。しかし、1990年代にインド経済改革の影響で多くの日系の企業がインドに入り、日本語教育のニーズが生まれました。日本語能力は有利な就職口と強く関連していたため、日本語学習に対する関心が高まり、インドの数多くの大学で日本語学科が開設され、日本の企業が集中している町では、民間学校も設立されました。

 しかし、この時期に日本語教育への関心が増えたものの、それは高等教育に限られていました。高等教育での日本語学習者の増加は歓迎すべきものでしたが、そこには一つの限界もありました。高等教育での日本語学習者は、日本の会社に就職する目的で日本語を専門的に学習し、卒業後は日本語の通訳や翻訳が主な仕事になることが多く、日本語を通して他の専門を学習しようとする学習者はほとんど存在しませんでした。日本では科学や文学の分野でノーベル賞を受けるような優れた研究が発達しています。日本に留学してそのような学問を学ぶためには、一般的に、中等教育から日本語を学習させる必要があると考えられます。さらに、漢字という難しい文字を持つ日本語を早い時期に導入し、ゆっくりと学習させることが効果的である可能性が高いと思われます。

 1990年代の後半にインドでは上記のような考えが現れ、まず、全インド日本語教師会が、日本語も外国語カリキュラムに導入するようにCBSEに求めました。同時に、インド教育省や在インド日本大使館、国際交流基金にもインド中等教育に日本語教育を拡大するよう働きかけました。これに加えて、CBSEが日本語教育をまだ認めていないうちに、デリーにある、いくつかの革新的な私立学校でも、クラブ活動として初等教育後期から中等教育の前期レベルに日本語教育を導入しました。この運動は徐々に高まり、さらに、インドと日本の経済関係も強くなったため、2005年にインドと日本政府は共同声明「アジア新時代における日印パートナーシップ」に署名し、インド中等教育での日本語教育の普及を約束しました。本来、外国語を含めた教育政策はインド政府の責任ですが、日本語教育については、このように全インド日本語教師会や私立学校が政府に働きかけ実現したもので、その内容も教師会や私立学校の意向が強く反映されています。

4.インド中等教育における日本語教育の現状

 上述のように、インド中等教育のカリキュラムには、日本語以外にフランス語、ドイツ語、ポルトガル語など9つの外国語が入っていますが、これらの外国語は9学年(日本の中学校3学年に相当)から教えられています。それに対し、日本語だけが6学年(日本の小学校6学年に相当)から導入されていることは、CBSEが日本語にのみ早期からの教育を認めたと言えます。

 2006年に日本語を始めた学校は、CBSEに属するデリーおよびその周辺の学校だけでしたが、その後、他の都市でも日本語教育に興味を持つ学校が増えていることから、インドでの日本語教育はこれからも増えていくと思われます。

 日本語教育普及には国際交流基金が大きく貢献しています。教科書作成に援助する他、インドや日本での教師教育、日本からの専門家の派遣、学習者相互の交流などが始まっています。なお、日本政府の仲介で、国際協力機構(JICA)や博報児童教育振興会などもこれらの活動に積極的に取り組んでいます。日本(政府)の対インド日本語教育普及の考えもインドの日本語教育に貢献していると言えます。

5.CBSEの日本語教科書の特徴

 CBSEは、国際交流基金ニューデリー日本文化センターの協力を受けて、中等教育向けの教科書を作成しています。現在まで、「うめ(6学年)」、「もも(7学年)」、「さくら(8学年)」という教科書が作られ、学校で使われるようになっています。

「うめ」「もも」の表紙画像
写真1:「うめ」「もも」の表紙

 これらの教科書は、生徒に好まれるようにカラフルで、非漢字圏のインドの事情を考慮し、「うめ」はローマ字表記、その後はひらがな、カタカナ、漢字の順とし、内容はコミュニケーション能力に重点を置いて書かれています(写真2と3参照)。インドで出版されていることで経済的であることもこれらの教科書の特徴ですが、それよりも重要な特徴は、日本人専門家の助言を得つつ、インド人の教師たちが教科書を書いたと言う点です。

ローマ字を使った「うめ(6学年)」の一例    ひらがなを使った、子供の会話「もも(7学年)」の一例
写真2:ローマ字を使った「うめ(6学年)」の一例    写真3:ひらがなを使った、子供の会話「もも(7学年)」の一例

 日本語教育の主な目的は、生徒が自分の考えていることを日本語で表現できるということです。しかし、日本や日本文化をまだ知らない生徒には日本の事情をそのまま紹介しても効果的ではありません。ですから、インド文化の背景(写真4参照)で日本語を発話するようこれらの教科書は展開されています。これは、インド人教師が教科書作成に関わっていなければ不可能だったと思われます。また、このことは、インドでも教科書を作ることができるまでに日本語教育が発展していることも示しています。なお、日本の文化も重要であり、生徒はそれも分かるように、英語で紹介(写真5参照)するといった工夫がされています。

インドの文化のもとに日本語を使う一例    日本の子供たちに身近な日本文化の紹介
写真4:インドの文化のもとに日本語を使う一例    写真5:日本の子供たちに身近な日本文化の紹介

6.インドの日本語教育が直面すると思われる問題点と解決方法

 どの国でも、日本語教育が導入される最初の段階では、訓練を受けた教師の不足、適切な教材の不足、外国語としての日本語の教授法の問題などが大きな問題点としてしばしば指摘されています。インドも例外ではありません。幸いに、 CBSEでは中等教育向けの教科書の作成が始まっています。また、中等教育に日本語が導入された同じ時期に、インドで初めての外国語の大学注3も設立されました。今後、この大学と、既に日本語学科が存在しているデリー大学、ネルー大学、ビシュババラティ大学などにおいて中等教育向けの教師養成プログラムを始めれば、教師不足の問題も近い将来解決されることが期待されます。

 しかし、インドが今後直面する深刻な問題は、中等教育と高等教育の日本語教育をどう結びつけるかということです。現在、高等教育で日本語は初級レベルから教えられています。1989年にデリー大学で書かれた“Teaching Japanese”は、初級レベルの教科書です。これから中等教育を卒業する学習者は初級日本語を終了しているため、彼らが大学で求める学習レベルやニーズも変わってきます。例えば、大学で技術を専攻する学習者と医学を専攻する学習者の日本語教育のニーズは異なるはずで、それにどう対応するか、今から考えなければなりません。「はじめに」で述べたように、早ければ5年後、つまり2013年に、中等教育で日本語学習を始めた最初の生徒が中等教育を卒業するということを忘れてはいけません。

 インドでは現在、連邦政府の中等教育機関であるCBSEだけに日本語教育が導入されています。しかし、インドは28の州から成り立つ国で、各州にはそれぞれの中等教育機関があります。日本語教育が全ての州の中等教育機関に導入されない限りは、インドにおいて、民主主義的に(公平に)日本語教育が広がったとは言えません。このために、全国の中等教育カリキュラムを運営している中央教育研究・訓練機関(National Council of Educational Research and Training)で、日本語教育を導入する必要があると思われます。

 さらに、CBSEの場合も全ての学校で日本語が導入されているわけではありません。CBSEには、私立学校と国立学校の2種類の学校が属しており、日本語教育は一部の私立学校だけに導入されています。国立学校は政府によって運営されていますが、政府は予算の問題で、日本語教育を導入していません。

7.インドの英語教育の現状と、外国語(日本語)学習への影響

 世界中の、英語圏ではない国々が、中等教育で英語を第一外国語として導入し、高等教育の進学や就職に英語能力を結びつけています。このため、学習者たちは中等教育の段階では英語に重点を置き、日本語のような外国語を本格的に学ぶのは高等教育からというのが普通のことです。中等教育で他の科目と一緒に二つ以上の外国語を学習するのは難しいと考えられるからです。

 これに対し、インドでは、特にCBSEでは英語が1学年(日本の小学校1学年に相当)から「教育言語」、つまり、教えるために用いる言語になっています。ですから、これらの学習者は全て、初等教育の段階で既に英語能力を獲得し、初等教育後期から、もう一つの外国語を学習できる段階に達しています。この点から見ると、インドの中等教育では外国語(日本語を含む)学習の基盤が築かれていると思われます。

8.最後に

 インド中等教育が日本語教育を導入するかなり前に、中等教育において日本語教育を導入した国々もあります。一方、ベトナムはインドと同じような時期に日本語教育を導入し、マレーシアは一部の学校に限られていた日本語教育を、全ての中等教育機関へ導入する方針を打ち出しています。これらの国々と互いに日本語教育の問題点などを相談し合うことで、世界での日本語教育の向上に貢献できるものと思われます。なお、これらの国々は国際交流基金ともつながりが深いので、国際交流基金を通してこのネットワークをより強化することができるのではないかと期待したいと思います。

  1. 注1 筆者は中央中等教育機関の「日本語教科書委員会」のメンバーの一人で、「うめ」と「もも」の作成に関わっています。
  2. 注2 CBSEはインド連邦政府の中等教育のカリキュラムや試験などを運営する機関です。CBSEの他に、インドの各州もそれぞれの中等教育を管轄する機関を持っています。インド教育省の2006年統計によると、全国で中学校・高校は16万に及ぶが、そのうちCBSEに属している学校は8979校で、全国の学校の約6%にあたります。
  3. 注3 既に存在していた「中央英語・外国語研究所」を前身とし、2006年に「英語・外国語大学[English and Foreign Languages University]」が設立されました。

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