両陛下をマレーカレッジにお迎えして

両陛下に日本語の教科書をお見せするハフィズ職員の写真

両陛下に日本語の教科書をお見せする
ハフィズ職員<中央>
(写真提供:ハフィズ)

1991年10月1日、マレーシアのクアラカンサーは気持ちのいい晴天だった。ただ、となりのインドネシアの山火事で、視界が悪く気温が妙に高かったのが気になっていた。私たちマレーカレッジの生徒たちは、民族衣装を着て、緊張の中で天皇皇后両陛下のご到着を待っていた。予定では、学校の象徴となっている熱帯雨林の木「ビッグ・ツリー」の下の記念碑とパレードをご覧になり、そのあと日本政府が寄付したLanguage Lab (LL)で日本語の授業のデモンストレーションを見ていただくことになっていた。当時15歳だった私は、マレーカレッジの3年生で日本語クラブの部長をつとめていた。日本語が大好きだった私は「日本語は私の心の真珠です」と習字で書いてLLの壁にはった。

ご来場されるはずの時間が過ぎ「ご到着が遅くなった」と知らせを受けたとき、私の緊張感はますます高まり、挨拶の原稿を握りしめていたので、紙が汗で湿ってふにゃふにゃになったのを覚えている。
しかし、私の期待は「中止」という知らせで、水泡のようにはかなく消えてしまった。私にとって日本を代表する両陛下に会うことは、まるで天から下りてくる天使との対面に等しいものだった。私は涙を抑えることができなかった。空を眺めると、火事で発生した霧が厚くなってきたことがわかった。後でわかったのだが、この濃霧のために両陛下の飛行機が着陸できない恐れがあり中止になったということだった。その夜は涙が涸れるまで泣いた。

翌日、私は記念碑のところへ行き「日本人は約束を守るから、両陛下はいつかきっとマレーカレッジに来る」と心に念じ、両陛下に自分の気持ちを伝えるために手紙をしたためたのである。

 1932年生まれの私の父は、戦争中に日本軍が建てた小学校に入学した。父は自分の体験を幼い私によく話してくれた。日本人の先生にもらった砂糖、お菓子とあめ、毎朝笑っていながらやっていた体操、日本の昔話を聞かされたこと、日本の民謡を習っていたことなどである。父が抱く「日本人の優しい心」というイメージは未だに変わっていない。私にも「君が代」「桃太郎」「おててつないで」などの歌を教えてくれた。2年前に96歳でなくなった祖父も、珍しく戦争時代の苦しい話を私には1回も口にせず、日本人の強い精神と愛国心、きちんとした態度、友情を大事にするという話を繰り返した。残念ながら「日本へ行ってみたい」と言い続けた祖父の夢は一度も実現することはなかった。
1986年にNHKのテレビ小説「おしん」がマレーシア全国で話題となった。小学校4年生だった私まで、おしんの強い精神と美しい心に魅かれた。だから、1989年にマレーカレッジに入学したとき、迷わず日本語を第二外国語として選択した。当時の日本語の教師は日本から来た青年海外協力隊員の方々で、初日の授業を受けたとき、父と祖父が語った「日本人の優しい心」を実際に味わうことができた。

両陛下に会えなかった私は、「それでは自分が日本へ行くしかない」と思い、必死に日本語を勉強し日本への留学を決心した。それから、1週間に120分のペースで合計5年間日本語の教育を受けた。そして、1993年にマレーカレッジを無事卒業すると、政府東方政策奨学金プログラムに応募し、幸いにもまわりの応援を得て奨学金を手に入れることができたのである。その後日本の文部省試験にも受かり、私は筑波大学に入学し国際関係を専攻した。大学を卒業し東京で日本の金融機関に就職した私は、それまで味わったことのなかった本当の社会の厳しさを体験した。が同時に、本当の「日本人社会」で仕事をさせていただき、貴重な「社会人デビュー」ができたと思う。

就職から2年後、マレーシア政府に帰国報告をしたとき、「東方政策事務所に空きがあるけど興味はないか」と人事院の職員に聞かれた。面接を受けると契約職員として採用された。学生のときからマハティール元首相の「東方政策」に興味があり、日本とマレーシアの架け橋になれる仕事をずっと前から願っていた私は、その事務所の「日本デスク」を担当することとなりとても嬉しかった。が、2年が経ちマハティールさんがいきなり「引退」を発表され、私の心も揺れた。そのようなときに、私は国際交流基金(ジャパンファウンデーション)のマレーシア事務所に声をかけていただき再び転職をしたのである。

マレーカレッジ在校生にお声をかけられる両陛下の写真

マレーカレッジ在校生にお声をかけられる両陛下
(写真提供:ハフィズ)

そんなある日、マレーカレッジの先生から職場に電話がかかってきた。両陛下の母校訪問が決定されたというのだ。案内役をしないかと聞かれたとき、私は迷わず引き受けた。その日、仕事帰りの運転中に思わず涙を流してしまった。15年経ち、もう30歳になってしまった私だが、今でも天皇皇后両陛下に「会いたい」という気持ちがちっとも変わっていないことに気づいたのだ。聞くところによると、私が15年前に書いた手紙は両陛下の目に触れるところとなり、それが今回の異例とも言えるマレーシアお立ち寄りを両陛下が希望された理由の一つになっているのではないか、という。ただ私にとっては、両陛下が15年間の長い間私たちの愛しい母校を覚えてくださったことが、何より光栄なことだった。

それから、両陛下訪問までの1カ月半、私は休みごとに片道4時間車を飛ばし、マレーカレッジに通い、先生方、後輩たちと共に受け入れ準備をした。「両陛下に楽しんでいただくために何でもやる」という気持ちだった。

2006年6月10日の朝、私は聖地メッカに向かい、「天気がこのままよくなりますように」とお祈りした。両陛下が到着する6時間前から学校にいた私は、緊張しながら最終準備をした。午後3時25分に天皇皇后両陛下の車が学校の門に着いたとき「神様、ありがとう!」と私は心の中で叫んだ。予定通り、15年前に建てられた記念碑をご覧になり、私が案内させていただくこととなった資料館に向かった。ゲストブックにサインをされてから、後輩たちが一生懸命に踊るマレーの民族舞踊の「ザピン」と「ソーラン節」をご覧になった。演奏が終ると両陛下は立ち上がり、生徒たちに向かい一人一人に丁寧に握手しながら話をされた。

正装して両陛下をお迎えするマレーカレッジの生徒たちの写真

正装して両陛下をお迎えするマレーカレッジの生徒たち
(写真提供:ハフィズ)

資料館の案内の際、私は自己紹介をさせていただくと、天皇陛下が少し離れた皇后陛下を呼んで、「この方は15年前ここにいらっしゃいました」と、紹介してくださったのである。まったく予想もしなかった感動的な出来事だった。皇后陛下は私のところまで歩み寄り「15年前のこと、大変失礼いたしました」とおっしゃったのだ。私は思わず涙を流してしまった。「15年間待ち、やっとお目にかかることができ、これ以上の喜びはありません。私たちのことを15年間ずっと覚えていてくださって、ありがとうございました」と挨拶をした。そして、学校が15年間も大事にしてくれた「日本語は私の心の真珠です」の習字、後輩たちが心をこめておった千羽鶴などを案内しながら、日本に対する私の感謝と愛情の気持ちを伝えることができた。両陛下の優しい瞳と笑顔が、とても印象的だった。

「日本」との出会いは、私の人生を大きく変えた。日本の美しい考え方、文化、技術、価値観などを心のなかに取り入れることができた。私にとって「心」は、人間の一番大切なところであり、その大切なところにはさらに貴重な「真珠」があると思う。15年前の私にとって、その「真珠」とは「日本語」だったが、今の私には「日本」そのものが心の真珠となっている。

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