日本語教育通信 海外日本語教育レポート

海外日本語教育レポート
このコーナーでは、海外の日本語教育について広く情報を交換したり、お互いの交流をはかるために、各地域の新しい試みやコース運営などについて、関係者の方々に具体的に紹介していただきます。

【第30回】
学習者のオリジナル教科書の中で大きく育つ日本語の木
-フィリピン中等日本語教育用教材『enTree』の評価ツール-

国際交流基金日本語国際センター 専任講師
(元マニラ日本文化センター日本語教育アドバイザー)
大舩 ちさと

1. はじめに
 ~ポートフォリオ評価、取り入れていますか? ~

 以前は教師が評価を行うことが多かった教育現場で、評価の視点が学習者の学習プロセスに向くようになり、内省の重要性、自己評価・ポートフォリオ評価の導入とその教育効果もしくは学習効果といった点が多く議論されるようになってきました。フィリピンの中等教育段階の日本語教育でも、自己評価やポートフォリオが取り入れられています。そこで今回は、フィリピンで行われている実践についてご紹介します。

2. フィリピンの中等日本語教育

 フィリピンはフィリピノ語と英語を公用語とする多言語国家で、170を超える言語があると言われています※1。フィリピノ語と英語のバイリンガル教育が始まった1974年からは、外国語が正式なカリキュラムから姿を消しました。このような状況下、2009年6月から公立の中等教育機関で日本語を含む外国語教育を導入することが発表され、日本語教育に関しては国際交流基金が支援することになりました。そこで、国際交流基金マニラ日本文化センターは、2009年にフィリピンの日本語教育関係者とともに教材作成チームを立ち上げ、教材開発に取り組み始めました。そして筆者も、チームの一員として加わることになりました。
 国際交流基金が実施した「2012年度日本語教育機関調査」によると、世界の日本語学習者の約半数の200万人強が中等教育段階の生徒でした。この数値が示すとおり、現在、多くの国の中等教育機関で日本語教育が取り入れられています。中等教育段階の外国語科目では、単に語学力の向上を目指すだけでなく、外国語の学習を通して多様な言語や文化的背景をもつ人びととコミュニケーションできる人材、情報化社会に対応できる人材、新たな価値の創造ができる人材の育成を目指していることが多く見られます。すなわち、外国語教育は「人間教育」、「人間性の育成」を期待される場合が多いということが言えるでしょう(大舩ほか2011)。この点は、2014年9月に国際交流基金日本語国際センターが開催したシンポジウム「21世紀の人づくりをめざすASEAN各国の教育最前線~中等教育の外国語教育が果たす役割~」でも確認されました※2
 2009年にフィリピン教育省が掲げた目標は「第二外国語におけるコミュニケーション能力の向上」に加え、「世界中のさまざまな就業の場で活躍する力」、「異文化への寛容的な態度の育成」でした。ここでもやはり、グローバル化が進む社会で、言語的にも文化的にも多様な人と協働していくことのできる人材を育成したいというフィリピンの思いを見ることができます。
 そこで、フィリピンの中等日本語教育向け教材では、これからの時代を生き抜くフィリピンの高校生たちに、自分なりの目標を発見し、それを実現する力を身につけてほしいと考え、コンセプトを以下のようにまとめました。

(図1)
 Discover and Fulfill One's MISSION through Curiosity towards the world (people and culture of the Philippines and the world) and one's self and Self-improvement

教材のコンセプト
図1 教材のコンセプト

そこで制作したのが、『enTree -Halina! Be a NIHONGOJIN!!-』(以下、『enTree』)という教材です。この「Halina!」というのは、フィリピノ語で「おいでよ!」というような意味のことばです。この教材は、ユニークな点がいくつかあります。
 まず一つ目は、学習者が手に取る、いわゆる「教科書」がないことです。『enTree』は教案やレアリア、自由にコピーして使うことのできるワークシート集などで構成されている教師用のリソース集なのです。教科書なしで学習者はどのように学ぶのかと疑問に思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、ここに工夫があります。『enTree』では「教科書」を学習者に提供するのではなく、学習者自身が自分の教科書を作っていくのです。

ダバオ市ナショナル・ハイスクールの生徒
自分で作った教科書を持つダバオ市ナショナル・ハイスクールの生徒

 提供されるトピックやプロジェクトも、上述のコンセプトに従い、言語の学習以外の目標を多数含んだものになっています。さらに、これらの目標を達成したかどうかを測るための「評価ツール」が含まれています。
 次章からは、フィリピンの教材に含まれている「評価ツール」を具体的にご紹介したいと思います。どのような授業が展開されているかという、授業の内容については、松井ほか(2013)をご覧ください。

3. enTree Book:学習者自身が作成するポートフォリオスタイルの自分の教科書

 フィリピンの教材の一つの特色は、上述のとおり教科書がなく、その代わりに学習者が自分自身の教科書を作成していくことです。その教科書は、「enTree Book」と呼ばれています。学習成果を記録、管理していくものという点では、ポートフォリオということができるのですが、多くのポートフォリオは学習者自身がファイルするものを選んでいくのに対し、「enTree Book」は授業で用いたすべてのワークシートをファイルすることが求められている点が少し異なります。もう少し詳しく説明しましょう。
 まず、「enTree Book」は家庭にある古雑誌を用いて作成されます。これは、日本語学習を開始するにあたって、学習者に金銭的な負担を強いることのないようにするためです。また、雑誌をリユースするという、エコの視点もあります。最初に学習者は、自宅にある古雑誌を持参するよう言われます。持参した古雑誌に表紙を貼り付け、授業中に先生が配布したワークシートなどをすべて貼り付けていきます。また、授業で配布されたワークシート以外にも、学習者自身が必要だと思ったものは何でも貼り付けていって良いということが伝えられます。こうやって、多くのシートが古雑誌の中に貼り込まれていき、最後にはとても分厚い、個性にあふれた自分だけの教科書ができあがるのです。

enTree Book
学習者の個性が光る「enTree Book
目次ページと学習ページ
目次ページ(上)と学習ページ(下)

 「enTree Book」は教科書なので、目次が必要です。ですから、目次を作成するためのシートが用意されています。学習者は自分の「enTree Book」に何かを貼り付けるたびに、貼り付けたもののタイトルと貼り付けた日付を記入して、目次を作成していきます。  従来のポートフォリオでは学習のモニター能力やふり返り、自己評価の能力の向上について多く報告されていますが、「enTree Book」では、このような形式をとることにより、情報を「管理する力」も養成できるのではないかと考えています。「enTree Book」の評価シート(ルーブリック)は、授業中に配布されたワークシートを全て貼り付けているかどうかという点に焦点を当てています。これは、情報を管理する力が教材のコンセプトである「自分なりの目標を発見し、実現していく」ためには必須の力であると考えているからです。

4. J-Tree: Can-doチェックリストとジャーナル、学習計画の木

 各自の「enTree Book」のいちばん最後のページにあるのが、「J-Tree」(図2)です。名前のとおり、木の形をしています。この木も学習者自身が、自分の手で大きく育てていきます。

 この「J-Tree」は以下の5つのパートで構成されています。

  1. (a) 根:学期ごとの自分の学習をふり返り、次の学期の目標を立てて、記述する
  2. (b) 幹:Can-doチェックリスト
  3. (c) 葉:授業後に毎回書くジャーナル
  4. (d) 言語の水:自分が知っている、あるいは学んだことのある言語の名前を書く
  5. (e) フルーツ:自分の立てた目標をどの程度実行しているかを内省して書く欄(2年目の教材から)

 根は木の成長には欠かせないものです。学習をふり返って立てた学習計画は今後の学習の成果として現れると考え、木の根に学期ごとの学習のふり返りと今後の学習計画を書く欄を設けました。また、幹にはCan-doチェックリストがついています。ヨーロッパでは「ヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)」で提案されている「ヨーロッパ言語ポートフォリオ」が多数、開発されています。イギリスで開発された年少者向けのポートフォリオ「My Languages Portfolio※3にはCan-doのはしごが入っていますが、フィリピンのJ-Treeでは木の幹にCan-doが刻まれています。ここには、“日本語を学んでできることが増えて、少しずつ木の高い部分まで上っていくと、もっと広い世界が見えてくるよ!”というメッセージがこめられています。
授業が終わると、学習者は授業をふり返り、自分自身が学んだことの記録をジャーナルにまとめます。最初から印刷されている葉の数は8枚のみで、自分で紙を追加し、葉の数を増やし、木を大きく成長させていきます。
「言語の水」の箇所には、今、自分が理解できる、もしくは使うことのできる言語の名前を書きます。多言語国家のフィリピンでは、複数の言語を操って生きていかざるを得ない人が大勢います。その中で、時に陥ってしまうのが、自分はどの言語も十分に使いこなせないという、ネガティブな感情です。ですが、複数の言語を知っている、もしくは学んだ経験があるというのは、新たな言語を学ぶ際に役立つと考えられます。そこからこの「言語の水」という発想が生まれ、「言語の水」が日本語の木「J-Tree」をより大きく育ててくれるというメッセージと共に入っています。
次に、この「J-Tree」の中で特筆すべき点を2つ紹介します。

J-Tree
図2 J-Tree

(1) 学習をモニターする力を養成するCan-doチェックリスト

 「J-Tree」の幹のCan-doチェックリストの最大の特徴は、Can-doの後半が空欄になっていて、学習者が自分自身でどの程度、そのタスクが日本語で「できる」のかを、自分で書き足すという点です。そして、その「できる」程度は、その都度、書き換えていくことが求められています。

  • 例1:I can do self-introduction by saying my nickname and my favorite word slowly (June 30) slowly but with more confidence (July 4).
  • 例2:I can do self-introduction by saying my nickname and my favorite word slowly but with confidence (June 30) less confidence (July 4).

 このように、学習者は自分のできる程度の変化をモニターし、変化に気づいたら取り消し線で消して、新しい程度を後ろに追加していきます。さらに、程度が向上していく場合(例1)だけでなく、程度が下がったことを記述すること(例2)も同等に評価されます。なぜなら、ここで大切にしているのは自分の変化をしっかりとモニターする力の養成だからです。以前よりもできなくなっていることに気づくことができれば、今後、その点を学習し、克服していくことができるのではないでしょうか。
 「J-Tree」の評価シートには、Can-doリストの後半の空欄部分に、それぞれのタスクのできる程度を書いているか、そして、それを書き換えているかどうかをチェックする質問だけが含まれています。

(2)自分の考えや思いを伝える力を育てるルーブリック

 『en Tree』を使ったコースでは毎回授業の後にジャーナルを書くための時間が5~10分程度取られています。一枚の葉に授業を通して学んだこと、気づいたこと、発見したことを英語やフィリピノ語など、学習者自身がいちばん表現しやすい言語で書きます。上述のとおり、最初に提供される葉は8枚のみなので、授業が進むにつれて、個性的な木が育っていきます。

自分のJ-Treeにジャーナルを書く高校生
自分の「J-Tree」にジャーナルを書く高校生

 このジャーナルでは、記述している内容の良し悪しは評価されません。他者が主観的に意見や感じ方、考えたことなどを評価するのは危険だと考えたためです。ですが、発信者としては、自分が何をどう考えたのか、なぜそう考えたのか、そのきっかけは何だったのか等が具体的に記述されていればいるほど、相手の人に自分の考えが伝わります。そこで、評価シート内のジャーナルのルーブリック(図3)では、自分の感情や思考を整理して表現することができるようになることを目指し、単に授業の内容だけをまとめたものは評価が低くなり、授業の内容から考えたこと、感じたことを具体的に記述しているか、今までの自分の経験などを結びつけて記述しているかを評価することにしました。このように、自分を表現できる言語を持ち、その言語で表現する力を磨いていくことは、外国語の学習にも役立つと考えています。

評価シートのルーブリック
図3 「評価シート(J-Tree:葉)」のルーブリック

5. 他教科にも広がる「enTree Book」と「J-Tree

 このように開発された「enTree Book」と「J-Tree」ですが、もちろん、課題もあります。例えば、たくさんのものを「enTree Book」に貼りすぎてしまい、重くて学校に持ってこなくなる、美しく飾りつけることに熱中してしまい本来の目的から外れてしまう、といったものです。ですが、このような課題が見えてきたときが成長の出発点になります。それぞれの現場で先生たちが工夫を凝らして、実践を重ねているようです。
 「自分で作ったenTree Bookは自分だけの宝物」と言って、卒業するときに大事に胸に抱えて巣立っていく卒業生を見るとじーんとするといったことを話してくれる先生もいました。また、ジャーナルを書きながら個性的な木を育てていくことのよさを感じて、英語や国語(フィリピノ語)の授業で「E-Tree」のように名前をつけて、日本語以外の授業で活用している先生も出てきています。最初はほとんど書けなかったジャーナルが、1年、2年と書き続けていくうちに、書けることが増え、内容に深みが出るようになっていく姿を見て、その成長に心を動かされている先生もいます。
 ポートフォリオ評価というと、学習の内省や自己評価の視点を養うのに効果的であるという側面が取り上げられがちですが、語学以外の能力の育成にも目を向けようと試行錯誤したことで、多くの気づきに出合うことができました。また、木が大きく成長していくといった視覚的な変化、学習者一人ひとりのオリジナルのデザインのものが出来上がっていく過程が、教師も学習者も双方が楽しめる内容になった所以かもしれません。
 おもしろそうと思われた方は、ぜひ、挑戦してみてください。きっと素敵な物語が生まれるはずです。

  1. ※1 フィリピンの言語の数については諸説あるが、ここではフィリピンでよく参照されている”Ethnologue Languages of the World”を参照した。 <Ethnologue Languages of the World> 2014年10月31日閲覧
  2. ※2 シンポジウム開催報告 <国際交流基金日本語国際センター25周年記念シンポジウム 21世紀の人づくりをめざすASEAN各国の教育最前線~中等教育の外国語教育が果たす役割~> 2014年10月31日閲覧
  3. ※3 CiLT, The National Centre for Languages(2006). My Languages Portfolio, EuropeanLanguage Portfolio- Junior version: Revised edition. European Language Portfolio: accredited model No. 70.2006

<参考文献>

  1. (1)大舩ちさと・和栗夏海・フロリンダ アンパロ A. パルマヒル・フランチェスカ M.ヴェントゥーラ(2011)「評価で学習者の自律性は育めるか―フィリピンの高校生向け日本語リソース型教材『enTree』の挑戦―」『国際交流基金日本語教育紀要』7号、pp.135-150
  2. (2) 松井孝浩・大舩ちさと・和栗夏海・須摩亜由子(2013)「アイデンティティ形成を支える日本語学習活動の実際-フィリピン中等教育機関向け教材『enTree-Halina! Be a NIHONGOJIN!!-』の学習活動から-」『国際交流基金日本語教育紀要』9号、pp.25-42
  3. (3) 国際交流基金(2013)『海外の日本語教育の現状 2012年度日本語教育機関調査より』くろしお出版

<写真協力>
Christine Joy C. Cabahug氏(ダバオ市ナショナル・ハイスクール/Davao City National High School 英語・日本語教師)

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