トークセッション「文学におけるジェンダー、文化、政治の交差するところ」採録記事

国際交流基金(JF)は、2023年12月東京にて、文芸対話プロジェクトYOMUトークセッション「文学におけるジェンダー、文化、政治の交差するところ」を開催しました。時空を超えて、他者の痛みに寄り添う想像力と連帯の重要性を問いかける文学の実践について、小川公代氏、インタン・パラマディタ氏、クリステン・アルファーロ氏が存分に語り合いました。同セッションの内容を採録記事で掲載します。
事業概要と登壇者の略歴についてはこちらの概要ページをご覧ください

2023年12月8日火曜日に実施された文芸対話プロジェクトYOMUトークセッション「文学におけるジェンダー、文化、政治の交差するところ」Wandering in-between: Gender, Culture, and Politicsのバナー画像

文学との出会い

小川 公代:本日モデレーターを務めます上智大学の小川です。どうぞよろしくお願いいたします。

先ほどご紹介のありましたとおり、インタン・パラマディタさんは『彷徨(ほうこう)』(英題The Wandering、未邦訳)と『りんごとナイフ』(英題 Apple and Knife、未邦訳)の著者で、この2作品はインドネシア語から英語に翻訳され英国のハーヴィル・セッカー/ペンギン・ランダムハウス社から出版されました。これまでに英国ペン翻訳書賞やテンポ誌が選ぶ最優秀小説賞などを受賞されています。『彷徨』が英語で出版されたのは、コロナによるパンデミックが急速に拡大し、全世界が国境を閉ざした2020年です。皮肉なことに、旅と移動の物語を語ろうとしたインタンさん自身が、パンデミックによって国境に閉じ込められる事態となってしまったと伺っています。

クリステン・アルファーロさんは、英国の独立系出版社ティルティッド・アクシス・プレス(Tilted Axis Press、以下TAP) のディレクターです。TAP は2020年に全米図書賞翻訳文学賞を受賞した柳美里さんの『JR上野駅公園口』(英題 Tokyo Ueno Station、モーガン・ジャイルズ訳)や、松田青子さんの『おばちゃんたちのいるところ』(英題 Where the Wild Ladies Are、ポリー・バートン訳)などを出版しており非常に影響力があるのですが、日本ではまだそれほど知られていないかもしれません 。『おばちゃんたちのいるところ』は、日本の古典的な怪談を現代社会の視点から語りなおした作品です。いずれの小説にもゴシックの要素があり、インタンさんの作品に通じるところがあるのが興味深いです。怪談や幽霊奇譚は、今後の出版市場である種の可能性を秘めていると感じていますので、今日はその点についてもお話を伺っていきたいと思います。

トークセッションのタイトルはインタンさんの『彷徨』(The Wandering)からヒントを得ています。本日は、さまざまな場所やその間(はざま)をさまようことについて、文学的な視点から議論したいと思います。この会場のなかで想像力を存分に駆使して、異なる国、異なる文化、そして異なる物語を旅していきましょう。そして、いま最も差し迫った課題ともいえるジェンダー、文化、政治について考えていきたいと思います。セッションのタイトルは、物理的な旅や身体の移動だけでなく、特定の価値観や慣習、ステレオタイプな女性像から自らを解放することなど多くを示唆していると思います。それではまずはインタンさんに、作家になった経緯を伺いたいと思います。

客席側から舞台を見たトークセッション会場の写真

インタン・パラマディタ:私は物語や本とともに育ちました。裕福な家庭の出ではありませんが、 子どもの時分にはよく母が本を買ってくれました。小学生の頃は、軍のプロパガンダ映画を放映するインドネシア国営テレビ局しかなくとても退屈だったので、多くの時間を読書に費やすことになりました。1980年代には衛星放送が登場し、ようやくMTV:など世界の番組を見ることができるようになりましたが、それ以前は選択肢が非常に限られていたので、多様な現実にアクセスし、さまざまな人生に思いを巡らせることができる唯一の手段、それが読書でした。

母は就寝時によく本を読み聞かせてくれたり、 物語を作って話してくれたりしました。創作のほうはかなり一貫性に欠けていましたけど。一応連載ものの呈なんですが、次の日に「えっ、昨日はあそこで終わったんじゃなかった?」と尋ねると、「あら」と言ってまったく違う話に変えてしまうんです。でもこの経験から、自分にも創作ができるんじゃないかと思い始め、物語を書いてみるようになりました。 最初は、子どもの頃に読んだ話をなぞっていたように思いますが、大人になるにしたがって多くの問いを抱くようになります。そして今日に至るまで、自分がどんな物語を語りたいのか、なぜ物語を語るのかについて常に考えてきました。 今朝のニュースでご存じの方もいらっしゃると思いますが、空爆で標的にされたあるパレスチナ人の作家が亡くなりました。彼は作家であり、英語の教授でもありました。英語を使って、自分たちの民族の現実を全世界に語り続けていました。彼にとって物語を世界に伝えることはとても重要だったからです。物語を語ることが死につながるかもしれない状況で、私たちはいったいどのような物語を語るべきなのか。私がいま抱えている最大の疑問です。

小川 公代:ありがとうございます。ヴァージニア・ウルフが『三ギニー』という作品で、第一次世界大戦で亡くなった詩人についての物語を語ったことを思い出します。私たちはいま、ある物語を語り続けるのかどうか、また、書き残すに値する物語は何かという選択を迫られているのかもしれません。クリステンさんは物語を見つけだすことがお仕事で、アジア地域を中心に、語るに値する物語を模索し続けてこられました。大変なお仕事だと思うのですが、TAPのディレクターになった経緯についてお話しいただけますか。

クリステン・アルファーロ:アクシデントとでも言いましょうか(笑)。どのような物語を語り、出版 すべきかということはこの仕事の原点であり、非常に重大な責任を伴います。もともと出版畑の人間ではなく、ディレクターになった経緯は極めて偶発的でした。当時は互いを知らなかったのですが、インタンさんと私は同じニューヨーク大学の博士課程に在籍していて、二人とも映画を勉強しました。その後私は、実験的な映画や芸術の分野から文学に転身しました。

TAPに職を求めた1年後に、デボラ(※TAPの初代ディレクターであるデボラ・スミス)からフルタイムの管理職をオファーされました。その後彼女はTAPを辞め、私が残ることになったんです。当時翻訳小説ばかり読んでいたのがTAPに応募した理由です。長年にわたるアカデミック・ライティングに行き詰まり、何か別の世界を求めていたなかで、翻訳文学がそれを提供してくれました。TAPに惹かれたのは、フェミニズム出版社であり、普段あまり遭遇する機会のないインターセクショナルな視点をもつ作品を多く出版していたことです。

信念としてのコンパッション(compassion

小川 公代:TAPでの活動を通して伝えたい物語について話をしていたとき 、TAPのモチベーションはほかの出版社とは大きく異なるとおっしゃっていましたね。非常に興味深かった。お金でも評判でもなく、コンパッション*だとおっしゃいました。
*自己や他者への理解を深め、共感や思いやりをもって寄り添おうとすること

クリステン・アルファーロ:お金はもちろん大切です。 作家もそうですが、誰しもが食べていかなければなりませんから(笑)。

小川 公代:もちろんお金も大事ですが、それ以上に大事なものもおそらくあるかもしれないというお話でしたね。 出版社のディレクターとして稼がなければならない一方で、コンパッションという言葉がとても心に響きました。そこには、ご自身が共感できる作品を出版し続けるということ、また、本のテーマそのものがコンパッションであるという意味も込められているのかもしれません。 とても興味深い言葉ですが、どういう意味でおっしゃったのでしょうか。

クリステン・アルファーロ:私たちの提供する物語の多くが、登場人物に対するある種の共感や思いやりをもって語られているのは事実です。ただ、私にとっては、職場で互いが協力し、関わり合う方法という意味でもあります。TAPは主にアジア言語の作品を翻訳出版していますが、今後はアフリカの言語からの英訳も増えていくでしょう。これはTAPがグローバル・マジョリティの作家を出版することを意味し、グローバル・サウスの作家たちも多く含まれます。TAPが拠点を置く英国で、グローバル・サウスの作家たちの作品を出版することの文脈を常に意識しなければなりません。これは相手を理解し寄り添う気持ちなしには成立しません。

TAPには多様な背景をもつ作家や翻訳者が集まってきます。TAPでフルタイムの人間は私だけで、かなり小さな会社です。(経営者と従業員)双方にとって労働は広範囲におよび膨大になるため、ここでも互恵的な思いやりが必要です。大手出版社ほど事が迅速に進まないこともあります 。ですから私が言いたかったのは、さまざまなレイヤーでのコンパッションの必要性です。 この考え方を前景化することは、より迅速な労働スピードや経済的リターンといった価値観に挑戦するようなものですが、我々独自の価値観を体現しようとすることが私たちの存在価値だと思っています。

これは、作品同士の関連性についての私の考えとも関係しています。TAPの出版リストはささやかではありますが、重要なのはそれぞれの作品が互いにどのように関連し合っているかということです。英訳出版されていない物語を集めた文学アーカイブから、登場人物、特に抑圧された人々の物語に対する作家のコンパッションを見出してきました。私たちが世に送りだしたいのはそういう物語だからです。

  • トークセッション中の小川公代氏の写真
  • トークセッション中のクリステン・アルファーロ氏の写真

小川 公代:例えば柳美里さんの作品では、コンパッションというテーマはどのように描かれているのでしょうか。

クリステン・アルファーロ:『8月の果て』(英題 The End of August、 モーガン・ジャイルズ訳)によく表れていると思います。10月に柳美里さんを招へいして英国でツアーを行った際に、彼女の執筆プロセス、また翻訳者であるモーガン・ジャイルズさんの執筆・翻訳プロセスについてより深く知ることができました。あの本は翻訳がとても難しく、多くの資料調査が必要で、出版までに長い時間がかかりました。出版プロセスのあらゆる部分に関わってくる労働に対する理解というのも、一つのコンパッションと言えるでしょう。『8月の果て』は何十年にもわたる物語であり、追わなければならない人物、耳を傾けるべき登場人物が多く存在します。柳美里さんは物語の登場人物に対して、また、彼らをどう描くかについて深い共感と思いやりをもって書かれました。それが彼女の作品の一貫したテーマであるところが大好きです。

『彷徨』 —移動と特権をめぐる問い

小川 公代:インタンさんが『彷徨』で試みたことにも関係していますね。この本を読んで最初に印象に残ったのは、「あなた」という代名詞の使い方です。小説というのは読み始めると語り手に対する親しみのようなものが芽生えるものです。普通それは客観的な視点なのですが、インタンさんは「あなた」という言葉を使うことで、読者が物語に対してより親近感をもてるようにしたかったのではないかと思います。「あなた」は外国に行った、「あなた」はこれを経験して、「あなた」はこんな人々と出会う……といったふうに。 語り手の「あなた」は、パワフルな赤い靴を履いています。『オズの魔法使い』を読んだことがある方なら、東の邪悪な魔女が所有するあの強力な靴をご存知でしょう。この物語は、読者にこの強力な靴を与え、語り手とともに旅することを可能にすることで、読者の関与度を高めています。二人称で物語を描くというアイデアは、どのようにして思いついたのですか。

インタン・パラマディタ:『彷徨』は読者の選択によってストーリーの展開と結末が変わる形式の本です。例えばニューヨークに行きたい場合はこのページに移動し、ベルリンに行きたければこちらの道を選んで、といった具合です。 ゲームブックと呼ばれるもので、子どもの頃によく読みました。 従来のゲームブックはエキゾチックな土地や別の惑星に行くといった冒険物語がほとんどですが、私は、旅と移動についての政治性と特権について問いかける大人版ゲームブックを作りたかったのです。この世界では誰もが旅ができるわけではないですから。ある人は駐在員だったり、ある人は移民や難民だったり、旅人にはさまざまなカテゴリーとそれに付随する特権があります。「あなた」という二人称を使うのはゲームブックのお約束のようなものですね。『彷徨』のなかの「あなた」は、第三世界のインドネシア出身の若い女性という設定です。旅する特権を持たない「あなた」は、ある日悪魔と取り引きをし、悪魔は「あなた」に世界各地へと旅することのできる一足の赤い靴を与えます。この赤い靴はいわば交通手段のようなもので、(靴に足を入れた瞬間に)「あなた」を、例えばニューヨークへと連れていくのですが、問題はここからです。旅先で「あなた」をサポートする支援制度や仕事がなかったり、ちゃんとした仕事に就くための教育を受けていなかったりすると、「あなた」の人生は基本的にその時点で上がったりとなるのです。

この本は、特権なしに旅すること、有色人種の女性が旅することについての物語です。 先進国出身の白人男性の旅は、グローバル・サウス出身の女性の旅とは大きく異なります。経験が異なり、境界や国境の意味も異なってくるのです。私が探求しようとしているのはその点です。「あなた」がこの女性として位置付けられるとはどういう意味なのか。インドネシアでは多くの読者がこのキャラクターに共感してくれました。ヒジャブをかぶったイスラム教徒の女性の多くは、「ああ、私も赤い靴を履いて旅をしたい」と感じるでしょう。 英訳版が出版されたあとの反応もとても興味深く、強制的にこの女性の立場に置かれた男性読者のなかには物語に共感した人もいました。10月にポーランドを訪問しましたが、読者の多くは男性でした。彼らは、「白人男性としての経験とはかなり違うし、実際にグローバル・サウス出身の女性にはなれないけれど、この物語は興味深かった」と言ってくれました。 もちろん誰もが共感できるわけではないですが、共感できる人からすれば、他人の立場でものごとを経験したり想像したりする手段となったのでしょう。

小川 公代:まさに「他者の靴を履く」ですね! この物語の技法は、読者に第三世界の女性と同じような気持ちを抱かせて、彼女に対する共感を促す効果があると思います。

  • トークセッション中のインタン・パラマディタ氏の写真
  • The Wanderingの書影画像
    (c) Harvill Secker

インタン・パラマディタ:そうですね。 この小説には、旅をする「あなた」以外にもいろいろな人物が登場します。そして「あなた」は、異なる経験を通していろいろな旅行者と出会います。国を離れることを余儀なくされた人もいれば、より良い機会を求めて自らその場所にたどり着いた人もいます。移動の理由はそれぞれですが、このように多様な旅人が出会える空間を想像してみたいと思ったのです。ただ、私が描いた旅人たちは裕福な旅行者ではありません。私がこの本を「庶民のコスモポリタニズムについての本」と呼んでいるのは、私自身がニューヨークで経験したことに基づいているからです。 私はニューヨーク市のクイーンズで博士号を取得しましたが、そこは非常に多様な人が集まる地域で、世界中から来たさまざまな言語を話す移民と出会える場所でした。 当時私は貧しい博士課程の学生で、不法滞在のインドネシア人出稼ぎ労働者との付き合いもありました。その経験は、ニューヨーク大学の友達と過ごす経験とは大きく異なっていました。そこで感じたのは、人はそれぞれ異なっているなかで、文化の衝突の可能性もあれば、つながり合える可能性もあるということです。

緊張感をはらむ関係性としての多様性

小川 公代:本を読みながら同じように感じました。インタンさんが他者に対するある種の感性を育まれた多文化・多民族の環境について話を移すと、この作品で印象的だったのは、主人公がミーナというキャラクターと出会うシーンです。私の特に好きな登場人物です。ミーナは出稼ぎ労働者ですが、香辛料を使って素晴らしい料理を作ります。実は主人公とミーナの最初の出会いはあまりよいものとは言えず、気まずい瞬間もあったのですが、最終的に主人公はミーナの料理の才能の素晴らしさに気づきます。ミーナ はマイノリティであり、誰も彼女のことを話題にしないし 、周りからは「見えない」存在だったのですが、主人公は彼女の才能と人格を認めます。二人は親密になり、この小さな物語の終盤には女性同士の連帯さえ生まれます。

そして、香辛料の話です。 香辛料と文学という組み合わせは常に「あるもの」を象徴してきました。香辛料は多様性を表すと同時に、貿易、グローバリゼーション、そしておそらく反植民地主義に対する示唆も含むでしょう。昨日クリステンさんは、アフリカ系アジア人の翻訳文学に関する進行中のプロジェクトについて触れ、そこにはたくさんの食べ物が描写されているとおっしゃっていました。このような女性の領域、家庭の領域はもっと頻繁に語られるべきと感じていますが、 日々の生活に焦点をあてることの魅力について、なぜ女性なのかについて教えていただけますか。

クリステン・アルファーロ:それもまたTAPでの経験と関連しています。パートタイムで働く同僚は、みな英国以外の出身です。私たちは英国で育ったわけではありません。英国に縁のある人もいますが、基本的にはスーダン、フィリピン、ベトナム、ブラジルにルーツがあります。そんな私たちの共通項の一つが「食」です。食卓は私たちがともに過ごし、交流する場です。私の家族にとっても、居間よりも食卓のほうが家族のスペースとして重要でした。そこにはいつでも食べ物があり、足りなければ皆で分け合いました。

食というのは私たちの個人的な経験の一部です。入手予定の作品を読みながら、こうした要素を見出して、その価値やそこに描かれている理由の重要性について考えます。食べ物は人を結びつけるもう一つの方法と言えますね。昨日お話ししたプロジェクトは、TAPが(文学史と文化理論の専門家である)タオ・レイ・ゴッフェ博士との協働を模索しているもので、タオ博士はニューヨークでアフロ・アジア・グループ(Afro-Asia Group)を組織しています。食を通して、映画や文学におけるアフロ・アジアの連帯の歴史を読者に繋げていきたいと考えています。タオ博士が目指すのは、アフリカやアジアの風景に映り込んでこなかった空間を前景化することでした。男性、作家、映画監督の姿は見られますが、そこには女性もいたはずです。では、彼女たちはどこにいたのでしょうか。デンマークの作家で『従業員』(英題The Employee、未邦訳)の著者であるオルガ・ラウンがロンドンでの講演会で、「マルクスは日々の食事(スープ)を自分で作ったわけではない。では、誰が革命家の胃袋を支えたのか?」と発言しました。文学に対する私たちの考え方を象徴する問いです。

インタン・パラマディタ:確かに香辛料は多様性を表していますが、小川先生のおっしゃる通り、植民地主義—血、分離、暴力—の象徴でもあります。『彷徨』の中で、マルク州のルン島がニューヨーク(マンハッタン島)—当時はオランダ植民地時代のニューアムステルダムでしたが—と交換されたいきさつを書きました 。17世紀にオランダと英国の間で結ばれた条約によってです。 当時オランダ人はより多くの香辛料を欲しがっていたので、我々はマルク州をとるのでニューアムステルダムをどうぞ、と差し出したのですね。現在オランダがこの取り引きを後悔しているかどうかはわかりませんが(笑)。この本の中で香辛料の歴史にも触れましたが、いずれにしてもこれは支配の問題です。より多くを所有しようという欲望の支配力についてです。

念のため申し添えますと、多様性とは建前主義であってはなりません。多様性は消費のみを意味するものでもないのです。 私たちは往々にして、世界中からスピーカーが参加するミニ・ドールハウスのようなイベントを開催して満足しがちです。 真の多様性とは、異なるバックグラウンドを持つ人たちを集めることではありません。互いの違いを認め、文化の衝突を認めることであり、それは、クイーンズで経験をもとにこの本に込めた私の思いでもあります。言語や文化の壁で互いを理解できないことがしょっちゅうでした。実際、英語を話せない中国人の家主さんにイライラすることもよくありました。しかし多様性とはこのような緊張を伴うという事実を認めなければなりません。ギャップやずれがあるものなのです。それに気づき始めたとき、私たちは他者とつながる方法を見つけられるのではないでしょうか。そのためにはもっと努力をしていく必要があるでしょう。

クリステン・アルファーロ:本日考えたい問いの一つは、こうした対話を制度の枠外に持ち出したときにどのような知が生み出されるかということです。このような場で話すのとは何が違ってくるのか。環境が変わることでどんな関係性が生まれてくるのでしょうか。

例えば英国では、多様性は芸術助成金にとって非常に重要な要素です。マイノリティが主導しているか、女性がマジョリティを占めているかなど、「この出版社はこれこれの条件を満たしている」 といったチェック項目がよくありますが、 私たちにとってはあまり重要ではありません。「代表の政治学」については多くの議論がありますが、 私たちはそういう考え方とは距離を置いています。自分を映し出す鏡を見つけて、その条件に当てはまるかを考えることではないのです。まさにインタンさんが言ったとおり、多様性とは緊張感であり関係性です。そして、(それを理解したり育んだりするための)空間をもつことです。それこそが私たちが出版を通してやろうとしていることであり、 グローバルなディアスポラに手を差し伸べて対話をする方法でもあります。

時代を超える文学の実践

小川 公代:お二人がおっしゃったことに全く同感です。建前主義というのは、差別や平等に言及することで表面的にすでに問題を解決したふりをしているだけなので、ここで文学の役割が大事になってくると思います。差別や平等について語ることは耳目を集めるかもしれませんが、 単に「これが問題だ」と指摘するだけでは終わらない長期的な課題です。そして、それをより深く考えるために必要なのが物語です。実際に見たり出会ったりする人々の人生の物語を書くことは、インタンさんが おっしゃったように、実は17世紀にまで遡るような長いスパンのプロジェクトであることに読者は気づきます。 今日私たちが直面している問題の本質を考えるためには、そこまで遡らなければならないのです。 200年、300年、あるいはもっと長いスパンで考えなければならない課題もあるかもしれませんが、それを実践しているのが文学だと思います。

インタンさんの『りんごとナイフ』は、ほとんどが500年以上、おそらくもっと長く語られてきた有名な物語の翻案であり、今の時代の文脈で語りなおした作品です。同じ物語を扱いながらも原作とは異なる登場人物に焦点があてられています。特に『シンデレラ』の翻案である短篇「親指のない盲目の女」が好きですね 。 原作の主人公はもちろんシンデレラですから、盲目で足の指を失った邪悪な義理の姉など誰が注目するでしょうか。でもインタンさんはこの短篇でそれをやってのけたのです。 いったいどんな展開になるのかドキドキして読み始めたのですが、途中から我が意を得たりという思いでした。 シンデレラの物語で最も特権を持っているのはもちろんシンデレラです。最終的にお城とハンサムな王子様を手中に収めますから。一方でこの醜い義理の姉は、親指を失って盲目となり貧困に置かれています。彼女はどうやって生き延びるのだろう……というところから、読者はこの物語と現代との関連性について考え始めます。貧困にあえぐシングルマザーを思い浮かべる人もいるかもしれないし、 ルッキズムについて考える人もいるかもしれない。なぜ社会は女性を美しさで判断するのか。インタンさんは、美しい白人女性が常に美の基準であったという美的価値観にも疑問を投げかけています。 インタンさん、この翻案を思いついたきっかけと狙いは何ですか。

  • 登壇者3名の公演の様子の写真
  • Apple and Knifeの書影画像
    (c) Harvill Secker

インタン・パラマディタ:「親指のない盲目の女」は、『シンデレラ』をフェミニストの視点から語りなおした作品です。一節だけ読んでみますね。

舞踏会はイベントのクライマックスだった。私たち女性は市場に並べられた「商品」であり、品定めをする唯一の客がプリンス・チャーミングだ。もちろんプリンス・チャーミングも全ての商品を買うことはできない。御妃としてふさわしい最高の「品」を選ばなければならなかった。

執筆にあたってあれこれと試しているうちに、『シンデレラ』という物語をより資本主義的な構造に置き、女性が敵対しあうように仕向けられた社会的な構造を可視化したいと思いました。女性は競争することを余儀なくされています。この短篇ではプリンス・チャーミングのお眼鏡にかなうための競争ですが、プリンス・チャーミングは別のものに置き換えられます。 それは男性かもしれないし、富かもしれないし、素晴らしい仕事かもしれない。私たちは女性と女性が競い合うことを余儀なくされる社会に生きているのです。美もその一つですね。 他の作家さんと関連づけてみますと、松田青子さんは、自分の体毛をすべて取り除くことを熱望する女性の物語を書いています。それが主人公にとって女性の美しさの一つの基準だからです。何のためにこんなことをするのか、私たちは問い直す必要があると思います。 見栄えがよくなければこの仕事に就けないとか、結婚のパートナーが見つけられないからとか。これは女性が市場でどのように位置付けられているかを示唆しており、それゆえに女性は競争せざるを得ないのです。私は(このような状況に抗するために)女性たちが正当な方法で、ときには俗悪で悪魔的ともいえる方法で協力しあう物語も書いています。女性が競争するのは、社会構造上そうせざるを得ないからだということを認識する必要があります。他人のことを考える余裕がないのは、構造があまりにも抑圧的だからです。

小川 公代:日本でも女性に対する似たような文化的抑圧が存在するので、とても興味深いです。日本の女性は結婚に関して大きなプレッシャーを感じている人が多いと思いますが、異性愛規範や家父長的な構造があまりにも強力なため、ほとんどの場合、ごく自然に異性愛的な価値観を内面化しているように思います。核家族を選ぶのか、それとも独身のままで他人と家族(疑似家族)となることを選ぶのか。このような問いについて考えるとき、山崎ナオコーラさんの『ニセ姉妹』に代表されるような新しい視点を提供してくれる小説が日本にはたくさんあります。 なぜ体毛を全て取り除かなければならないのか、なぜ血縁関係で生き続けなければならないのか。日本人は、オルタナティブな生き方、オルタナティブなコミュニティ形成を受け入れる準備がまだできていないのかもしれません。クリステンさんは、ご自身の文化が大切にしている大家族(拡大家族)について話してくれましたが、それについてもう少し教えていただけますか。

「選択からなる家族」の可能性

クリステン・アルファーロ:私には、 タガログ語でtitastitosと呼ぶ非血縁関係の叔母や叔父がたくさんいます。なぜ私たちのコミュニティにこうした拡大家族が生まれたのかは歴史的背景を理解することでもあり重要です。私の母はアメリカで看護教育を受け、看護師としてカナダに移住しました。16歳か17 歳の頃に祖国フィリピンを後にしました。 母にとって親類縁者は看護学校の同僚でもあり、彼らもまたカナダやアメリカに移住したのです。アメリカとフィリピンとの歴史的な関係があったからこその出来事だったと思います。このようなつながりから拡大家族が生まれました。

私は共に仕事をする同僚や協力者のことをいつも家族のように思っています。家族という言葉は、他者に対して特定の感情を引き起こす複雑な言葉かもしれません。しかしそれもまた、今ここに存在し、これからも常に存在し続けるであろうあの緊張感に立ち返り、それが存在し続けること認め、さらには乗り越えていかなければならないことを受け入れるための、一つの方法ではないかと思います。

小川 公代:コミュニティ形成にもコンパッションが必要だと思いますので、お金よりも優先するとおっしゃった意味をあらためて理解しました。

インタン・パラマディタ:作家や出版社は、世界に存在するすべての物語を書くことはできませんし、出版することもできません。だからこそ、自分自身の物語だけでなく、他者の物語を広めていくのが我々の仕事だと思っています。私が主宰するインドネシア のフェミニスト・コレクティブ「女性の思想ショーケース(Sekolah Pemikiran Perempuan)」では、女性や性的マイノリティの声を広めていく活動をしています。まだ英語には翻訳されていませんが、私の最新作にインスピレーションを与えてくれたのは、家族を再定義するコミュニティの物語です。

インドネシアの都市部にはトランスジェンダー女性のコミュニティが多く存在し、特に私がインスピレーションを得たのは、年配のトランスジェンダー女性の多くがイスラム教徒であるジャカルタのコミュニティです。彼女たちは寄宿制のイスラム学校のような生活を送っています。たくさんのトランスジェンダー女性がセックスワーカーとして路上で生活しているため、互いに助け合いながら暮らしているのです。自分たちで家族を作り、互いの母親や叔母として暮らしているのですが、これは私にとって革命的なことでした。まさに家族という概念を定義しているのですから。最新の小説には複数のテーマを取り入れていますが、こうした方々にお話を伺う際には、彼女/彼らに自身の物語を語ってもらうことが私たちの責務と感じています。クリステンさんがTAPでやっていることでもあると思います。

小川 公代:昨日話していたケア・コレクティブ(The Care Collective)にも通じるお話ですね。ケア・コレクティブはThe Care Manifesto The Politics of Independence:を2020年に出版し、翌年『ケア宣言 相互依存の政治へ』のタイトルで日本語に翻訳されました。 ケアにご関心のある方はぜひ手にとってみてください。この本には家族に関する章があり、家族は選べるのかというテーマを扱っています。 この本が日本で出版された意味は、まだ日本では同性婚が合法化されていないところにあると思います。私にとってその不自然さは衝撃的ですらあります。英国をはじめとするヨーロッパ社会がすでにこの考え方を採用しているにもかかわらず、日本ではなぜ合法化されないのでしょうか。血縁関係によらない家族の可能性について議論を始めることが大切だと思います。 ケアやコンパッションに基づく家族のあり方を考えることは、互いに対する敵対的な感情や偏見をなくすための可能性、そして将来に向けた希望につながるのではないでしょうか。

文学的戦術としてのゴシック

小川 公代:次にゴシックに話題を移したいと思います。お二人ともゴシックという非常に興味深いテーマとつながっていますね。『りんごとナイフ』は女性たちを描いたゴシック小説です。インタンさんは美だけでなく、有害・邪悪と見なされる魔女にも焦点を当てています。日本では最近まで魔女に対する肯定的なイメージがあまりなかったのですが、『水星の魔女』というアニメが、もともと少年たちの間で人気のあったロボットアニメ『機動戦士ガンダム』から派生した新シリーズとして人気を博したこともあり、魔女ブームのようなものが始まりました。『りんごとナイフ』には魔女がたくさん登場しますが、彼女たちは必ずしも邪悪なだけの存在ではありません。 なぜ魔女になったのか、なぜ魔女とみなされたのか。私が特に注目したのが「美女と七人のこびと」という短篇です。 ご想像のとおり『白雪姫』の翻案です。物語に登場する魔女はとても醜く、そしてとても知的な科学者でもあります。 かつては美しいヒロインタイプの女性だったのですが、 重要なのはなぜ彼女が自分自身の顔を傷つけたかという理由です。とてもゴシック的な物語ですが、 読み進めると単にゴシックには収まりきらない要素があることに気づきます。これは、ある女性についての個人的で非常に力強い物語なのです。

インタン・パラマディタ:私はインドネシア大学でメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』をテーマに学士論文を書きました。その作品と夫のパーシー・シェリーの作品を比較しましたが、 私にとっては『フランケンシュタイン』の方が魅力的でした。 英国のゴシック文学に強い影響を受けたので、その後さらに深く研究するようになりました。例えばマーガレット・アトウッドの作品にも悪女がたくさん登場しますし、アンジェラ・カーターも悪女について書いています。多くの白人女性作家から大きな影響を受けたと言っていいでしょうね。その頃の私はまだ自分の読書を「脱植民地化」できていませんでした。その後インドネシアの文学にも意識を向けるようになり、バリに伝わるチャロン・アラン伝説をフェミニストの視点から解釈し執筆した女性作家トゥティ・ヘラティ(Toeti Heraty)に出会いました。 彼女の作品は英訳されています。 チャロン・アランはバリの魔女で、王と僧侶が協力してチャロン・アランを騙して殺さなければならなかったという話です。彼女があまりにも賢く、王国と宗教を脅かしたからです。賢い人間、特にそれが女性である場合、権力にとってはその存在が脅威になる—そのレンズを通して魔女の物語を読むことで、魔女に興味を持つようになったんです。なぜ「美女と七人のこびと」の主人公は科学者なのか。科学とは知の象徴であり、知識を持つことは脅威と見なされるからです。

著書を手に講演するインタン・パラマディタ氏の写真

小川 公代:私の修士論文のテーマも『フランケンシュタイン』だったんですよ。

インタン・パラマディタ:素晴らしい!あとでじっくり話しましょう(笑)。

小川 公代:我々3人は、偶然にもゴシックというテーマでつながっています。いまインタンさんがおっしゃった科学やゴシックに関する話は、柳美里さんの小説とも関係があるように思います。柳美里さんの『8月の果て』は幽霊奇譚です。 あまり知られていませんが、『フランケンシュタイン』は当初怪奇物語として書かれました。メアリー・シェリー、その夫パーシー・シェリー、バイロン卿、(バイロン卿の主治医である)ポリドーリが集まってゴシック小説集『ファンタズマゴリアーナ』を読み、「ひとりひとりが幽霊物語を書こうじゃないか」となりました。メアリー・シェリーは『フランケンシュタイン』を書き始めたのですが、最終的には怪談ではなく 、科学によって創造される生命の物語となりました。クリステンさん、日韓の文化的背景をもつ柳美里さんの『8月の果て』についてお聞きしたいと思います。ゴシックというジャンルを戦略的に使うことで、彼女の韓国人らしさが強調され、ある種のテーマがより前面に押し出されると思いますか。

クリステン・アルファーロ:『8月の果て』には、オープニングから心を揺さぶられます。この小説にはたくさんの息づかいが刻まれていて、読み始めるやいなやその律動や息づかいに引き込まれていきます。冒頭から霊が登場し、やがて物語は韓国のシャーマニズム的な儀式へとつながっていきます。英語ではあまり読み慣れないタイプの展開です。読者は少し混乱し、自分が対峙しているのが幽霊であることが最初はわからないのですが、これは自分とは馴染みのない歴史につながるための一種の装置と言えるでしょう。(柳美里さんの)半自伝的小説でもあるので、自身の歴史にアクセスする非常に面白い方法を選んだと思います。彼女が英国でのツアー中に「この話はフィクションだけど嘘ではない」と語っており、「幽霊」というゴシック的な仕掛けは 、その意味でも重要だと思います。

幽霊と言えば、TAPでベトナムのトゥアンという作家の作品を翻訳出版しています。第一作目の『チャイナタウン』(英題Chinatown、未邦訳)に続き、2024年に2作目の『サイゴンのエレベーター』(英題Elevator in Saigon、未邦訳)を出版予定なのですが、今回販促活動の一環として、ロンドンにある英国最大のベトナム移民コミュニティのアーカイブであるアンヴィエット・アーカイブ(An Viet Archives) とコラボする予定です。本書のポストコロニアル的な幽霊奇譚の要素に焦点を当て、幽霊奇譚をキーワードにアーカイブにアクセスすることで、文学空間で議論されている難問とつなげようというイベントです。

小川 公代:『8月の果て』には、男性ランナーの幽霊とともに戦争で犠牲になった女性が登場します。私は彼女の登場を一種のお祓い的なものと見ています。慰安婦の物語を理解することで、この女性の魂を救うことになるからです。この物語を意味のあるものにするため、また語るべき物語とするためには、「なぜ私が死ななければならないのだろう。なぜ私が被害者なのだろう」と自問自答して亡くなったこの女性の声に耳を傾けなければなりません。21世紀になるまで誰もその声を聞こうとせず、この女性は霊の姿で現れるしかない。多くの慰安婦が亡くなっているのに彼女たちの声が届かないという事実は、私にとって非常に現実的な問題です。この物語の最も現実的な部分と言えると思います。インタンさん、柳美里さんがゴシックを今も続いている問題を提起する方法として使っていることに関連して、あなたがゴシックを意識的に使う理由教えていただけますか。

インタン・パラマディタ:ゴシック小説というのは読者に不快感や不安をもたらします。ただ、私たちは居心地の悪さを感じることで初めて周りの現実に目を向け始めるのではないでしょうか。不安に心を揺さぶられると、なぜ物事がこうなのか、これは「普通(ノーマル)」ではないのだろうかと考え始めます。そして「普通」とはいったい何かを問い始めるのです。多くの作家がこのスタイルを使い、何が「普通」で、何が許容されるのか、そして「普通」についての考えを解き放つ方法を問いかけていると思います。 松田青子、韓国のボラ・チュン、アルゼンチンのマリアーナ・エンリケスなどの作家によるフェミニスト・ホラーやゴシック小説はこの手法で、ジェンダーだけでなく階級、都市問題、資本主義などに関する問題を語っています。

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  • トークセッション中のインタン・パラマディタ氏の写真
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コスモポリタニズムを問い直す

小川 公代:階級という言葉がでてきましたね。ちょうどコスモポリタニズムについて話したいと思っていたので、よいきっかけをありがとうございます。インタンさんは『彷徨』のなかで、ある特定の集団はやすやすと国境を越えられる一方で、それが不可能な人たちもいることを強調しています。例えば私たちは皆パスポートを持っていることを当然のことと考えていますが、これも特定の人間の特権と言えるかもしれません。私たち3人を含め世界を旅した経験のある方が多いと思いますが、私はたまに、コスモポリタンであることに相反する感情、罪悪感のようなものを抱くことがあります。

もちろんコスモポリタニズムには独自の価値があります。 典型的なコスモポリタンだったジェイムズ・ジョイスのように、旅をすることでさまざまな文化に触れ見聞を広めることができることは重要です。先ほどインタンさんが触れたように、違いを知ったり経験したりするためには自国から飛び出す必要があるからです。 このバランスについてどうお考えでしょうか。

クリステン・アルファーロ:TAPでの私自身の役割という文脈でいうと、コラボレーションという考え方になると思います。コミュニティを支援し、連帯を推進するという観点から翻訳文学や出版を考えるということです。私の持つ旅の特権を、関係者との連帯を築くことにつなげていくこと、それが私のアプローチです。私には達成したい目標があります。インタンさんがクイーンズで交流した二つの異なるタイプの人々、その両方に私たちの読者になってもらいたいのです。両者に私たちが出版する物語に関わってほしいと思っています。そのためには、繰り返しになりますが、不断の努力を続け、緊張感と居心地のわるさのなかに身を置く覚悟が必要です。

インタン・パラマディタ:コスモポリタニズムの悲しいところは、それが消費や他の文化を消費する能力に結びつきがちであることです。旅とコスモポリタニズムについてのエッセイをLiterary Hubに書きましたので、興味のある方は読んでみてください。私自身の旅の経験を『彷徨』で書こうと思ったとき、エリザベス・ギルバートが書いた、インド、イタリア、インドネシアを巡って自分を見つめ直す旅の物語『食べて、祈って、恋をして 女が直面するあらゆること探求の書』(原題: Eat Pray Love:)に代表されるような、特権階級による旅の物語には共感できませんでした。誰がそんな優雅な旅をする余裕があるでしょう(笑)。

コスモポリタンという言葉は、ギリシャ語のkosmopolítēsに由来します。ギリシャの哲学者ディオゲネスによる言葉です。路上生活者であったディオゲネスにとってkosmopolítēsは贅沢な旅とは程遠く、それは偏狭主義や超国家主義を超えて考える能力、他の文化とつながることを意味していました。たとえ困難が伴っても、私たちのような人間がコスモポリタニズムのもつ本来の意味を取り戻す努力をする必要があると思います。

今回日本に数日間滞在するにもビザを取得する必要がありました。少し前にポーランドを訪問した際にもシェンゲンビザが必要でしたが、こういうことは誰もが経験するわけではありません。パスポートにもヒエラルキーがあり、より強力なパスポートというものが存在します。 私たちがコスモポリタニズムを謳歌する際には、ヒエラルキーと特権にも同時に思いを馳せる必要があるでしょう。

コスモポリタニズムを消費の手段としてではなく、つながり、連帯を築く手段として考えるというクリステンさんの意見に賛成です。数年前にBlack Lives Matterの運動が起こり世界中に広がりました。例えば日本の文脈ではBLMがどういう意味を持つのかを、よりコスモポリタン的に思考できると思います。オーストラリアの人々は先住民族の権利の観点から、西パプアの人々はBLMのハッシュタグを通じてインドネシアの植民地主義について語り合いました。コスモポリタン的な連帯はこんなふうに考えていけると思います。消費一辺倒ではなく、どうすればともに抑圧から解放されることができるのかを考えたいですね。

小川 公代:どうもありがとうございます。現実的な文脈でパスポートのヒエラルキーについて考えたことがなかったので、とても興味深いです。それではここから、会場の皆さまからの質問やコメントを受け付けたいと思います。

フェミニズムとは選択の問題

質問者1:インドネシアで人気の女性ラッパーがフェミニズムについて発信していますが、同時にパフォーマーとして美的な魅力や美しいルックスも求められています。これは矛盾しているように思うのですが、いかがでしょうか。

インタン・パラマディタ:まず申し上げたいのは、私たちは誰もが矛盾に満ちているということです。ご質問のあった女性たちは業界内で非常に苦労していて、美しくあるべきというしばりのなかにいるのかもしれません。考えなければならないのは、私たち自身がこのシステムに加担していないか、他の女性について考えを巡らせるときに自身のポジションをどう使っているのかということです。世界各地のフェミニズムの語りで問題だと思うのは、ともするとフェミニズムが自己啓発のため、よりよいキャリアのため、そしてガラスの天井を打ち破るためだけの言語として使われることです。私に言わせればそれは新自由主義的なフェミニズムです。新自由主義の価値観に沿ったフェミニズムは女性に対し成功を求め、そのために良いキャリアと良い家族を持ち、両者のバランスをとることを要求します。すべては資本主義的な成功の物差しで測られていて、美もその一部です。

(このような価値観のなかでは)美しければ美しいほど知名度は上がります。 もしかしたら私たちは、「醜くならない」ことでその価値観と共謀しているかもしれません。ですので、フェミニズムそのものにも疑問を投げかける必要があります。ジェンダーの問題は、階級、人種、地理的な場所などのほかの要因と切り離せないので、フェミニズムもインターセクショナルな視点に立って考えるべきでしょう。 インドネシアのような大国では、どこに住んでいるかが重要な意味をもちます。 私はジャワ島のジャカルタで育ったので、ある意味とても恵まれていたと言えます。インドネシア東部に住んでいる仲間よりもずっと多くの特権を享受していました。さまざまな要因が相互にどう作用するのかという視点が重要です。女性解放運動に限った問題ではありません。ある人が経験する特定の抑圧にはさまざまな要因が影響しているからです。質問にうまく答えられていないかもしれませんが、美は新自由主義的フェミニズムのパッケージの一部であることをお伝えしたいと思います。

小川 公代:私たちはいまポストフェミニズムが定着した時代に生きていますが、ポストフェミニズムの問題の一端は、女性がどうやって世界に働きかけるべきか、自分の美をどのように戦略的に使って言いたいことを表明するのかといった問いと関連しています。実際にポストフェミニズムは、女性らしさの一部を戦略的に利用しながら声を発信してきました。そして、女性らしさを否定したり拒絶したりすることが第二波のフェミニストたちがめざした方向だったと思います。「私たちはこんなに男性的になり、公的な領域にも参加しています。我々の声はここにあります」といったような。しかし、そこにある種のエリート主義的なトーンがつきまとうことは否定できません。インタンさんのお話に出てきたインドネシア東部に住んでいる女性たちは、どのようにして社会の出世階段をのぼるのでしょうか。方法はあるとは思いますが、少なくとも資本主義社会という枠組みのなかでの苦労は避けられません。 言いたいことを前面に押し出すために女性らしさを利用する人がいますが、それには常に両義性が伴います。そのようなことをすべきではないと考える人も多いです。

クリステン・アルファーロ:フェミニズムは選択の問題でもあると思います。体毛を剃るか剃らないかも含めて。

小川公代:そうですね。そして必ずしも男性の目を意識するわけではありません。自分を美しくすることで、自分自身がよい気分になれますから。 素敵な服を着れば気持ちもあがるかもしれませんし、それもまた選択の問題です。

インタン・パラマディタ:美しいという理由だけで女性が軽んじられることもあるのですから、美について語るのは本当に難しいです。「ああ、あの作家は美人だから注目を浴びるんだ」とか。

クリステン・アルファーロ:学者の世界では敬意さえ払われないこともあります。

インタン・パラマディタ:ただ、私は美の特権なるものも存在すると信じています。どんな職業に就いているにせよ、あなたが職場で目立っているとすれば、それはルックスのせいかもしれないという現実を意識する必要があると思います。

小川 公代:女性であるというのは大変なことですよね。ほかにご質問やご意見はございますか。

質問者2:インドネシアのイスラム教徒の女性やトランスジェンダーの人たちの状況についてお聞かせください。インタンさんは、作品の中でこの テーマを扱っているのですか。

インタン・パラマディタ:ご質問ありがとうございます。 インドネシアにおけるムスリム女性の地位は、その立場や発言の機会といった点で非常に多様です。 インドネシアでは、1998年のスハルト政権崩壊以来、イスラム保守主義の台頭を経験してきました。現在公共の場で聞かれるのは、どちらかというと保守的な声と言っていいでしょう。しかし同時に、社会で可視化された力のあるムスリム・フェミニスト・グループも登場しています。インドネシアのムスリム・フェミニズムは1920年代から存在していましたし、インドネシアの女性運動のなかでは強力なムーブメントの一つでした。彼女たちは「教育を受ける必要はない。家にいればいいんだ」という声と闘ってきました。

女性ウラマーや女性ムスリム指導者による定期的な会議を組織し、ファトワーも発行しています。ファトワーとは、ムスリムのための法律(イスラム法学的見地から出される見解・意見書)を意味します。その一つでは、一夫多妻制は女性の権利を認めていないためハラーム(禁忌されるもの)であると表明しました。一夫多妻制だけでなく環境破壊についても触れ、環境破壊につながるあらゆる行動はハラームであると断言しています。とてもクールですよね! また、イスラム教を通じて社会とのつながりを築こうとするトランスジェンダー女性のコミュニティも存在します。 トランスジェンダー女性は宗教的ではないと思われがちですが、その多くはイスラム教徒であり、指導的立場にある人でもあります。2023年に、有名なトランスジェンダー女性のムスリムリーダーであるシンタ・ラトリさんが亡くなりました 。このように、イスラム教徒のフェミニズムを含め、インドネシアのフェミニズムの声は非常に多様です。

トランスジェンダー女性の権利については、なかなか難しい面があります。IDカードの名前を変更するだけでも大ごとで、多くの差別に直面するからです。中上流階級のトランスジェンダー女性は、地位や待遇の面でまだ恵まれているかもしれませんが、路上で働くトランスジェンダー女性はしばしば暴力にも直面します。しかし、 トランスジェンダー女性のコミュニティがコレクティブを組織しているので、その意味では彼女たちも力をつけつつあります。ほかのフェミニスト・コレクティブとも密に連携しています。確かに社会の雰囲気は保守的で、エリートたちはいつの時代もひどいものですが、現場の集団やコミュニティが社会的な力をもち始めていることは、今日のインドネシアの面白いところですね。

文化活動を通じた連帯

質問者3:フェミニズムや社会から疎外されたグループをめぐる多くの問題に直面しているなかで、東アジアや東南アジアが文化、そして文学を通じて団結することは可能だと思いますか。

クリステン・アルファーロ:人々をつなげ協働の場を創出するTAPの取り組みについてご紹介します。TAPは、タイ文学をプロモーションしている出版社のSoi Squadと共同で「東南アジア文学フォーラム」を創設しました。東南アジアの出版社、翻訳家、作家がバンコクに集まってさまざまなパネルディスカッションを行い、編集や資金調達について、また、既存のフォーラム以外に議論の場を持つことの重要性について話し合いました。 ウブド・ライターズ&リーダーズ・フェスティバル、ジョージタウン文学フェスティバル、シンガポール作家フェスティバルなどのプラットフォームはこういった話題を議論するためのものではありませんので、それを東南アジアで作りたかったんです。めざしているのは新しいつながりを生み出すことなので、このフォーラムを域内各地で実施し、さまざまな場所からより多くの人々が参加できるようにするのが理想です。資金的な理由から継続して実施することはなかなか難しいのですが、 大切なのは対話を続けることで、うまくいけばまた次の回を開催できるかもしれません。

出版社との提携も試みています。次のプロジェクトでは、フィリピンのフェミニズム系出版社であるガンタラ・プレスと協働します。4月に、漁村の伝説や農婦にまつわるレシピ、詩、歌などを記録するためにフィリピンへ行きます。フィリピンに存在するこの種の語り、ムーブメント、アクティビズムには、例えばTAPで最近出版したインドのカリャニ・タクール・チャラルによるダリット文学とも多くの共通点があります。こうしたグローバルなつながりを見つけることは、存在するすべての異なる「アジア」をつなぐ方法です。より広がりのある会話ができるような空間と場づくりに貢献していけたらと思います。

客席に向かって講演中のクリステン・アルファーロ氏の写真

インタン・パラマディタ:これまでの経験から、最も効果的なのは有機的な人と人とのつながりだと思います。(人と人との距離が近い)小規模な空間で、私たちはより創造性を発揮できると思うからです。私が先ほど言及したフェミニスト・コレクティブでは、毎年異なるテーマを設定し、国境を越えたフェミニストの連帯に関するフォーラム形成を目指しています。過去には西パプア、オーストラリア、パレスチナの入植者植民地主義について議論しました。これらの国々の入植者植民地主義を相互にどう関連づけるのか。それぞれ事情は大きく異なるように見えますが、私たちは対話の場を創り出したいと考えています。 その意味では本日のセッションも、国境を越えたフェミニストの連帯についての対話を後押しするものだと思います。

連帯に関する私の最後のコメントは、互いの文学を読み始めましょうということです。 インドネシア人は日本の作家の作品をたくさん読みます。例えばマカッサル国際作家フェスティバルでは村田沙耶香さんを招へいしました。 インドネシアで日本の作家はたくさん翻訳されていますが、その逆は同じ状況ではないと思います。 文化交流といってもその関係性は必ずしも均衡ではありません。 もちろん、インドネシアではベトナム文学があまり読まれないという問題についても同じことが言えます。インドネシア人は韓国や日本の文学はよく読んでいますが、フィリピンのことは何も知りません。そこが課題です。 まずはお互いの作品を読み合うことから始めませんか。

クリステン・アルファーロ:それはまさに私が目指すもう一つの大きなゴールでもあります。必要な資金を調達できるかわかりませんが、東南アジアの言語で作品を翻訳しあうことは、支援したいと思ってきたことでした。バンコクでの議論で、互いの文学を読む言語は英語とすべきだと誰かが言いましたが、私はそうであってほしくありません。英国を拠点とし、常に別の言語から英語に翻訳する出版社として、このような取り組みをどのように支援すればよいのかまだ答えは見つかっていませんが、私がずっと取り組みたいと思ってきたことです。

もう一点、インタンさんも触れましたが、コレクティブに会話を継続しながら目標に到達する唯一の方法は、それを可能にする親密な空間を作ることです。 このフォーラムがそのひとつかもしれませんし、夕食の場もその役割を果たせるかもしれません。親密さ、ケア、コンパッションなど表現の仕方はさまざまですが、ともに一緒に考えていくことが大切だと思います。

小川 公代:「親密さ」という言葉で、「ケア、コンパッション」という言葉で始まった本日の対話の出発地点に戻ってきました。本日は、インドネシア、ロンドン、ベトナム、韓国、フィリピンなど、さまざまな空間を想像力豊かに旅してきました。 この間私たちが問い続けてきたのは、「我々はどうやって連帯していくのか」に尽きると思います。特にガザでの戦争を目の当たりにしているいま、非常に困難な状況です。 連帯に向けて思いやりを示し、それぞれのもつテクニックやナラティブ 、ケアの物語を共有できる親密な空間をできるだけ多く創出していかなければなりません。

クリステン・アルファーロ:最後に、翻訳者の役割の重要性について触れさせてください。 この場を借りて、TAPに協力くださった翻訳者の皆様、特に日本文学の出版に関わったモーガン・ジャイルズさん、ポリー・バートンさんの貢献に感謝したいと思います。翻訳者は、出版社が海外の文学にアクセスするために欠かすことのできない重要な役割を果たしています。素晴らしい職業です。この場にいる方々が文芸翻訳者になって、ぜひ素晴らしいお仕事をしてくださることを願っています。

小川 公代:本日のオーディエンスの中にも、文芸翻訳者の方が何人かおられると思いますよ。重要な課題について、お二人のような素晴らしい女性と対話する機会に恵まれたことをとても幸運に思います。どうぞ、もう一度盛大な拍手をお送りください。どうもありがとうございました。

講演を終えた壇上の登壇者3名の写真

文中写真 (c)佐藤基

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