「日本文学」と私
アット・ブンナーク(タイ)

 私が初めて「日本文学」と出会ったのは小学校一年生頃であったと思う。日本の絵本や児童書、漫画ではなく、まさに「文学」だ。思い返せば、当時私の周りの大人たちも一風変わった者ばかりであった。「この物語の中に出てくる妖怪があなたにそっくりだから読んでみなさい」と言いながら、父方の叔母が芥川龍之介の『河童』のタイ語版を私に買い与えてくれた。その本の表紙を今も鮮明に覚えている。真っ赤な背景の真ん中にはグロテスクな黄緑の河童のイラストが際立っていた。「これが自分に似ている!?」と不思議でしかたなかった。自分で言うもなんだが、私は幼少期に「美少年」と呼ばれ、周囲からちやほやされ、慈しまれ育てられていた。ヘアスタイルが“おかっぱ”ではあったが、「河童」に似てると言われるのは不満だった。読書が大好きだった。次々に本を読み、ついに手元に読むものがなくなり、仕方なく叔母からもらった『河童』を読んでみた。ページ数が少なく、活字中毒の私にとっては何の苦もなくサラッと読み終えることが出来る作品だった。ここでドラマチックな展開があるとすれば、少年が感銘を受け、文学の道へ進み、偉大なる文豪に成長していくということであろう・・・実際のところ、六才の子供にとって『河童』が伝えてくるメッセージがいかなるものか分かるわけがない。その後、日本語をずいぶん理解するようになり大学生となった際に読み返しても全く意味が理解できなかった。しかしながら、今振り返れば、「日本文学」と私の原点はここにあった。

 小学校高学年になるにつれ、タイで入手できるあらゆる児童文学を読破していた頃、黒柳徹子の『窓際のトットちゃん』がタイ語に翻訳された。こちらも前出の叔母に勧められ読み始めた。『ガラット』という女性誌に掲載されており、いわさきちひろによる愛くるしい挿絵が添えられている子供向けの読みものであった。タイにおいて当書籍は児童文学として扱われている。とにかく魅了された。何十回・・・おそらく、百回以上は読み返したのではないかと思う。学校では「窓際のアットちゃん」と呼ばれるほど繰り返し読んでいた。そのころから、日本語からタイ語訳されたあらゆる書籍を読んだ。当たりはずれはあったが、あらゆるジャンルの読み物に挑戦した。ルポタージュから始まり、江戸川乱歩、森鴎外、泉八雲などの作品も読んだ。私の十代前半は日本児童文学の全盛期とも言われ、多くの作品に触れる機会があった。

 高校生になるころには、タイの大衆小説と洋物サスペンスに夢中になり、日本文学から遠ざかった時期もあった。しかしながら、間接的に日本の漫画やアニメ、そしてドラマから日本文学に触れることもあった時期だった。当時、最も印象に残ったのは美内すずえの『ガラスの仮面』、そこから『たけくらべ』の存在を知った。フィクションではなく日本の近代文学の代表作、そして二千円札に載るほどの偉大な女流作家樋口一葉の作品と知ったのはその随分後に日本へ留学した時だった。

 タマサート大学では日本語を専攻し、文学史の授業では古典から近代文学までみっちり学習した。無論古文は読めなかった。子供向けの書物で『古事記』、『日本書紀』、『竹取物語』、『万葉集』、『枕草子』などを学んだ。漫画から学ぶことも多かった。大和和紀の『あさきゆめみし』をクラスの皆で回し読みし、先生と『源氏物語』の話題に花咲かせた。(当時、この授業を担当したのはタイを代表する平安文学の専門家マリサー先生であった。)文学への関心や好奇心はただならぬものがあったが、私や同級生は悪ふざけとハレンチ(もう死語だろうか)な度合いが過ぎたこともあり、先生からは江戸文学から倣い「好色三年生」と名付けられた。

 四年生になり、大学を代表し、日本文部省(当時)の短期留学奨学金の面接試験を受けに行った。面接の際には自信満々に平安文学について語った。面接官から『枕草子』の冒頭は何を書いているかと聞かれた。幸いなことに先生から冒頭の文言を教わっていたこともあり正々堂々と「春はあけぼの…」と答えた。その際の面接官の方々の感嘆する姿を私は今でも忘れない。内心では「やったー!」と叫び朗報を待った。一年間九州大学の国文学科への留学を射止めた。かの有名なロバート・キャンベル先生が九大にて教えていた時期であり、一限目の授業に間に合うように大雪の中自転車を懸命に漕いで教室へ駆け込んだことが昨日のことのようである。ただ、残念なことに、極めて本格的な古文の授業であったため、途中で挫折してしまった。

 古典は苦手だった。大学院進学の際は、東京外国語大学の日タイ近代文学比較研究に進んだ。正直なところ、いわゆる「純文学」というものに魅了されなかった。授業と研究において必要とされるもののみを読み、それ以外の時間は大衆小説にどっぷりはまっていた。特に林真理子と小池真理子の作品に夢中になり、当時流行っていた『失楽園』のような不倫小説又は昼ドラの原作になった『真珠夫人』のようなものばかりを好んで読んでいた。

 タイに戻り出版社の入社面接の際には「どんな本が好きか。」と聞かれ、少し躊躇する気持ちもあったが、素直に「大衆小説」と答え、採用に至った。採用後に聞かされたことであるが、もしも「純文学」と答えていたら採用を見送ろうと思っていたそうだ。

 編集者の仕事を始めてからはあらゆる日本現代文学を読み漁った。いわゆる「エンターテインメント系」と呼ばれるものばかりであった。鈴木光司の『リング』がタイで大当たりし、映画やドラマの「Jホラー」ブームがやってきた。ホラーやオカルト系が苦手な私ではあったが、多くのホラー小説を読み選定し、翻訳家により翻訳されたものを編集していた。当時のタイは日本現代小説の黄金期であった。ホラー以外ではサスペンス、恋愛、ヤングアダルトなどの人気が高かった。どんな本好きでも、仕事となると読むことが辛いこともあった。息抜きは児童文学であった。数々の児童文学を読んで選定することは心の安らぎであった。日本小説の全盛期に働き、タイにおける第一期日本文学バブル崩壊前に編集の仕事を離れ、再度日本へ進学することを決めた。

 比較文学の研究を極めたいという思いもあったが、あまり興味のない分野の書籍を読むことにうんざりしていたため、歴史学と社会学によるアプローチを使う形で研究を進めることにした。出版社を去って以来一年半程は日本の小説を読むことはなかった。最終的には研究に挫折し、日本を離れタイへ戻ることとなった。

 その後、別の業種に就くなどし、十年以上の年月を経て再度出版業界に戻った。日本近代小説専門の出版社を自分で立ち上げた。正直、最初はあまり期待をしてなかった。太宰治の『人間失格』のような暗い小説を好んで読む人はタイでは少ないであろうと考えていた。私の考えははずれた。タイの若者の間で、アニメ『文豪ストレイドッグス』が大流行していたことも知らなかった。その影響を受け弊社の第一作目『人間失格』が爆発的に売れ、現在でも継続して売上一位の作品となっている。

 出版社の運営を始めて七年、多くの日本近代小説を読んできた。文豪と言われる作者の作品はもちろん、近代の無名作家の作品まで、流派、ジャンルを問わずにとにかくあらゆる作品に触れてきた。二十数年前と比べると、タイ人にとって日本の文化や文学はより一層馴染み深くなり、「村上春樹」「東野圭吾」「太宰治」「江戸川乱歩」など特定の作家のファンクラブができる時代にもなった。嬉しいことではあるが、正直、この日本文学のバブルが何処まで続くかちょっと心配でもある・・・

(JLIT出版社)

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