「あなたは日本文学のどこが好きですか」
テスタヴェルデ・ラウラ(イタリア)

 「やはり、日本語にしよう」と思った時のことを、三十五年以上経った今でも覚えている。高校を卒業した年の8月に誘われた、友達の田舎の家でのことだった。イタリアの学年度は9月から始まるので、それは大学に入学する直前の夏休みだった。夏の長い日々の暇つぶしに、町の図書館で川端康成の小説選集を借りて読むことにした。外国語を専攻にするつもりでいながら、未だどこの国の言葉を勉強しようかと少し悩んでいた私は、何年か前から興味を持っていた日本語にすると決めたのは、『千羽鶴』の翻訳を読んだあの時だった。読みながら、別世界に入るような感じがしたことは一生忘れられないと思う。そして、それは遠く離れた世界だったのに、いや、そうだったからこそ、その魅力をいっそう感じ、もっと知りたくなったわけだ。もっとも、川端自身は『千羽鶴』が「日本の茶の心と形の美しさを書いたと読まれるのは誤りで、今の世間に俗悪となつた茶、それに疑ひと警めを向けた、むしろ否定の作品なのです」と、ノーベル賞受賞記念講演で述べたそうだが。それはそうだとしても、作家の優れた表現力のおかげで、茶道、茶器、茶室、着物、織物、伝統的な庭に面した縁側の付いた家、その襖や障子によって区切られた空間などの描写は、洗練された日本の美意識への誘いとして働き、結果的には『千羽鶴』という小説を日本、日本文化への興味をそそる作品にしたと思う。

 文学を通して日本に憧れた私は、なかでも文学を勉強しようと思った。そして、翻訳者として、日本文学をイタリア人読者に紹介するのは、おおいにやりがいのある仕事となった。

 イタリアでは、日本文学がよく読まれているらしい。出版社からの依頼で同時に抱えている作品は二、三冊にのぼり、忙しくて仕事を断ることもあるのだ。ただ、現代文学の場合では、数多く訳されているものの、それらが日本文学を総体的に代表する作品であるかと聞かれると、それはどうだろうかと首をかしげることになる。詳しいデータはないのだが、出版社に選ばれるものはどちらかというと、大衆文学、いわゆるエンタメ小説が多いという印象がある。もちろんそれにはいろいろな理由があると思われるが、その結果、イタリア人読者に知られている現代日本文学のイメージは、多少偏ってしまっているのではないだろうか。なんとなく人生読本みたいなもの、ペット(特に猫)についてのもの、ミステリーが多い感じがする。それらは面白くないと言いたいわけではないし、自分なりに、ある程度そのような作品の普及に貢献したつもりでもいる。しかし、純文学となると、翻訳が少なすぎる感じがしないでもない。

 昭和の終わりから純文学の商品化が進み、大衆文学との境界が曖昧になったとはいえ、芸術性を重んじる作品、深い意味のあるテーマについて自由に書かれた作品というのは、主に読者を喜ばせるために書かれたエンターテインメント文学とは未だ区別がつけられるし、文学の歴史の中では違う位置を占めると思われる。後者の方は人間が皆共通している感情や経験について割と分かりやすく書かれているに対して、前者の方は作家の独得な世界観、あるビジョンに基づいて書かれたものが多く、それを理解するには、場合によっては、著者へのインタビューや書評などを参照すると役に立つのだが、もしかすると、そこにこそ問題があるかも知れない。そもそも、翻訳で読む読者はそのインタビュー、書評、作家を紹介する評論記事を読む機会はあまり与えられていないし、必ずしもその作家の作品がたくさん訳されているわけではないので、彼らの文学の総合的なイメージをはっきりと把握する機会は与えられないのではないか。それらの読者にとっては、ただでさえ「難しい」作品は手に負えなくなる恐れもあろう。その意味で、特に「難しい」とされる作品や作家の紹介に積極的に力を入れる必要があると思う。

 日本出版界は活気があり、面白い作家が少なくないが、平野啓一郎氏はその一人である。平野氏の小説は、もう二十年前から面白く読んで、その中の二冊(『一月物語』と『マチネの終わりに』)をイタリア語に訳してもいる。その文体や物語だけでも読者を喜ばせるものだが、同時に作家のビジョンを表現する作品でもある。そのビジョンを説明するために、平野氏はエッセーを書いたり、インタビューなどで話したりしているが、それはイタリアまではなかなか届かないので、イタリア人の読者は重要な側面をつかみ損ねてしまう。初期の作品では平野氏がそのビジョンについても触れていたが、最近はプロットや登場人物の構造自体がそのビジョンによって形成され、作中ではあまり説明されていないので、翻訳でこの二冊しか読めない読者は、平野文学の意味と価値の大事な要素を見逃しかねない。少なくとも、小説だけはなく、エッセー(たとえば、2012年の『私とは何か–「個人」から「分人」へ』、あるいは今年の決定的な『三島由紀夫論』)も訳す必要があると思う。

 小野正嗣氏によって語られる「浦」という所は人間の苦悩や悲しみの場所であり、普遍的に理解できる所であるが、同時に、一人一人の心の和む歓待の場所や、辛い人生の補償の場でもあって、鶴田欣也先生が指摘された「文学における向こう側」(『文学における「向こう側」』国文学研究資料館1985年より「向こう側の文学」)を思い出させる。その「向こう側」というのは、日本文学の独特な次元で、母胎回帰、自己の根への遡りを象徴する所であり、日本文化と深い関わりを持つ芸術的な空間として鶴田先生は説明される。このような伝統との関わりの要素を明らかにしながら現代文学を紹介できれば、日常的な読書も、人間同士の共感をもたらすだけではなく、深い意味での文化交流や相対理解に効果があると思われる。

 現在の一体化した世界を生きている人間同士として、今の技術や社会的発展が日本ではどう見られているかというのには非常に関心がある。上田岳弘氏の芥川賞受賞の『ニムロッド』(2018年)は、仮想通貨などの現代社会のことを語っている作品だ。その特徴は、ある予言的、神話的な語り方で我々の生きている今現在の世界を読む力であり、超現代的なテーマとのコントラストはいかにも印象的である。

 以上のような作家を訳し、丁寧に紹介することで、イタリアでの現代日本文学のイメージが、もう少し偏りのないものになればと願っている。

(翻訳家)

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