「あなたは日本文学のどこか好きですか」
アントナン・ベシュレール(フランス)

 私は中学生の頃フランス語に翻訳された日本文学と出会った。青春期の最も気難しかった時代には、荒々しく劇的な展開をみせる村上龍の作品を多く読んだ。川端康成、三島由紀夫など、より時代を遡った作家の作品も読んでいたが、これらの作品が初心者には提示したかもしれない日本のよりエキゾチックなイメージにはさほど惹かれていたわけではない。私にとっては、世代ごとの経験が、時間と空間を超えて、当然な文化的差異にも関わらず共有されうるということがより刺激的で、また安心を与えるものだった。それらは、村上龍作品における青春期のもどかしさ、村上春樹の初期の作品で見事に描かれている大人への過渡期、それに伴う幻滅や喪失感などである。そしてまた、大江健三郎が初期の作品以来探求していた「他者性」や「周縁」の経験などである。私自身、森の境に位置する田舎町で育ったせいか、大江が若かりし頃執筆した作品のいくつかにはただちに大いに親しみを覚えた。また、両親が障がい者のために長い間従事していたこともあり、大江作品の世界が胸に響いた。更に広く日本文学をみてみるならば、日本及び我々の社会や現代史を独特な感受性と視点から分析する日本人作家たちに魅了されたのだった。高校時代には、日本文学を原語で読みたい、より広く知りたい、できれば日本文学を翻訳し私が抱く日本文学への関心を他の人々と共有したいという想いもあって、日本語学習を始めた。この道のりは長かったが、大学時代に、村上春樹や大江健三郎についての分析を行い、嬉しいことに大江さんとは何度もやりとりすることができた。そしてガリマール出版社から未刊の文章の翻訳も含めた幾つかの翻訳書を世に送り出すことができたことは大変光栄に思っている。現在私はストラスブール大学で近現代日本文学と、日本語からフランス語への翻訳について教鞭を執っている。

 私が日本文学と出会ったのは1990年代半ばだったが、その頃は今年残念ながら他界した大江健三郎が1994年にノーベル文学賞を受賞したばかりだった。大江健三郎は既に川端康成の小説や黒澤明監督の映画にみられる「美しい日本」のエキゾチックで荘厳なイメージとは一線を画していた。ノーベル賞受賞のスピーチにおいて、第二次世界大戦の困難な「消化」、独自な文化的アイデンティティ、明治時代以来の西洋文明との複雑な関係との間で引き裂かれた現代日本の「曖昧さ」を強調したが、フランス文学に精通し、その後世界中の文学へと関心を広げていった大江自身が、その曖昧さを最も見事に体現した一人だった。

 1990年代以降のフランスにおける日本文学の受容の変遷は、当時大江により語られたこの「曖昧さ」「アンビヴァレンツ」のロジックに広く裏打ちされているように、私には思われる。実際、この20年を遡り、私の周囲や学生、メディアが取り上げてきた日本文学に関する言説に依拠するならば、それらは主に二重の軸に収斂する。叙述の枠組みに関しては、一つ目の軸は、一端に幻想化されたある種の「伝統的」日本文化の観念に基づいた東洋的異国趣味を置き、もう一端には、(こちらも大いに幻想化されているが)高度に都会化した大都市における超現代的な生活を置く。編集者達はこの観念を上手く利用し、現代日本文学翻訳作品の表紙には、かたや侍や芸者、かたややくざ、あるいは派手に化粧をしたトレンディーガール、東京のネオンなどの、いずれもステレオタイプにはまった絵柄を利用することでこの観念を助長している。作品の受容、論評のトーンの面でも、暴力と癒しを両端に対置する第二の軸に、言説が収斂する。

 作品の紹介や要約も、しばしばこの二つの軸の交差上に行われることになる。こうして村上龍については都会性と暴力、一方で村上春樹についての言説となると、同じ都会性を強調するにしても、むしろ心理描写の「繊細さ」や、現代の読者にもたらす「癒し」に収斂する。枠組みの軸のこうした区別は、近年では、(フランス人読者にとってはスタジオジブリのアニメ作品に表象される)理想化された美しい田舎の風景の「異国趣味」と、下町のようにこぢんまりとした世界での人々のふれあいが象徴する懐かしい都会性の間で、「マイナーモード」に傾斜している。『ピンザの島』や『あん』といった、フランスの書店でベストセラーとなったドリアン助川の小説も、こうした傾向の典型的な例である。

 こうした観念は、要するに、大江が解き放った力線をたどっている。つまり、異国趣味や東洋趣味に収斂される数十年ののち、1990年代には、ときに極端な語りをもって近い過去や社会の抑圧を再現するような、正面からの暴力性を求めて、日本の現代文学作品を読むことができるようになったのである。ここに至って我々は、今日共有するグローバル化した世界の中で、違いを超えて日本や日本人が我々フランス人といかに類似性があるか、作家につきまとう問題提起が我々のものといかに同質かを見出した。

 しかしながら、20世紀末以来日本が直面している出口の見えない危機は、国民(つまり読者)から野心をすっかりしぼませ、彼らの関心を個々人の幸せに関わる問題に押し込めるようにも作用した。こうした状況下で、村上春樹や吉本ばなな、川上弘美に代表される「癒しの文学」が生まれた。彼らは、政治的な問題や集団的な理想とは距離を置き、登場人物それぞれに起こる出来事や彼らの「小さな幸せ」に専念する。仲たがいするカップルの絆を結びなおしたり、美味しいどらやきのレシピを見つけたり、古い東京の路地を散策したり。この傾向がフランスで反響を呼び、今日、日本文学の出版業界の基盤のうちの一つの軸となった。そこには、「抑制された」異国趣味の一形態を再び見出すことができると、私には思われる。なぜなら、ポストモダンという台風の目の中に逆説的に潜む、時代を超え平穏な日本という幻想化されたイメージを形作ることになるからである。かつてよりもきらびやかさは薄れたが同様に作為的なこの「永遠なる日本」神話2.0は、その控えめさもあいまって、フランス人読者にとりわけ強い魅力を放っている。彼らはそこに、大災害にも後期資本主義の合理化の圧力にも耐性が強い、幻想化された「普通さ」のユートピアを見ているのである。

(フランス・ストラスブール大学日本学科准教授)

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