「あなたは日本文学のどこが好きですか」
坂井セシル(フランス)

 日本文学はフランス語で Littérature japonaise、というのですが、フランス語圏の読者から見た場合は、翻訳された作品、つまり限られた基盤から構成されています。外国では、外的受容が主なのですが、私は日仏の恵まれた家庭に育ち、東京という街でフランス学校の教育を受け、60年代から70年代の高度経済成長期において、読書が中心の日常生活を過ごしました。デジタル革命以前の静かな時間でした。読書好きというのは、当時文学好きと同意義語で、フランスやより広く西欧の誇る大著から始まり、高校時代から日本語の小説も読み始めました。好き嫌いというのは、このような個人的な体験と必然的に繋がっているのです。

 最も記憶に残る読書経験は、Charles Baudelaire が傑出したフランス語に訳した Edgar Allan Poe の『怪奇小説集』およびその続編に圧倒された直後、江戸川乱歩の諸作品を読む機会を得て、言葉が編み出す限りなく広がる空想の世界、変貌する時空、怪奇とスリルと謎の魅力に没頭したことです。乱歩の魅惑は Poe+ Baudelaire の美学と同等に文学の根本的な“語り”の価値を喚起するところにあり、それが多分、私の日本文学の原体験でした。その後のパリ7大学、および早稲田大学における、日本の大衆文学―純文学と同等の評価を考えるー研究に結びついたのです。

 読書が基盤で、もう一つのキーワードは前述の翻訳という貴重な使命です。私的な思い出を一つだけ挙げるならば、初めて文芸翻訳を試みたのは、高校時代、フランス文学を東京大学で教えていた母と、安部公房の戯曲、『友達』を共訳し、その後運よく、大手出版社ガリマールから刊行1できたことです。戯曲というのは、舞台で俳優が実際に使える台詞の創作を目標としていて、この悲喜劇は特に、言葉遊びや語呂合わせが多く、それらを流動的にいかにフランス語に移すことができるかが大きな課題でした。翻訳という作業は、孤独な活動でありながら、より忠実に他者、広い範囲での観客や読者に作品世界を伝えることである、という自覚に繋がりました。

 伝達、というこの三つ目のキーワードは、その日仏の翻訳、および日本語、日本文化の教育の場でも、パリ大学の教壇において、40年近く携わることになった仕事となりました。教育というのは、常に新しい、かつ確かな情報を理解させ、習得してもらうことにあり、それはつまり研究を深化させることでもあります。また翻訳を続けることによって、より深く細かい日本文学の鑑賞と解釈を地道に展開することになり、総合的に一種の祐徳の輪として、外国における日本文学の位置付けに多少なりとも貢献できたのではないかと思います。

 その範囲で、1980年代から1990年代のフランスにおける日本文学ブームにおいて、谷崎潤一郎の『猫と庄造と二人のをんな』の新訳や『瘋癲老人日記』の改訳を膨大な谷崎作品選集の一枠2として発表することになり、また各種短編集の翻訳に携わる機会を得て、泉鏡花、吉行淳之介、川端康成の掌編などを手掛けました。その流れで、河野多恵子の短編集、共訳で津島佑子や円地文子の小説、他、数々の翻訳を通して、日本語の特色、個々のスタイルの特徴、文の含蓄、リズム、ひらめきなどを、直に、創造の現場に最も近い解釈を求めて、文学の本髄に近づいてみました。クローズリーデイングに輪をかけた、クローゼストリーデイングが翻訳の基盤です。

 それが、また、批評の土台を構成することにもなり、研究活動の中でも、特に翻訳を続けてきた川端康成の作品世界の曖昧性を追求する機会を得て、一種のライフワークとして、現在も研究や翻訳を続けているわけです。例えば、最高傑作と謳われている『雪国』には、多くの謎が散りばめられていて、読者の解釈力が常に問われます。冒頭部分は全体的にその典型ですが、例えば、以下の抜粋にあるような情景と心象が重なる時の客観的描写が錯覚に変身してゆく過程には目を見張るものがあります。

 「遥かの山の空はまだ夕焼けの名残の色がほのかだったから、窓ガラス越しにみる風景は遠くの方までものの形が消えてはいなかった。しかし色はもう失われてしまっていて、どこまで行っても平凡な野山の姿が尚更平凡に見え、なにものも際立って注意を惹きようがないゆえに、反ってなにかぼうっと大きい感情の流れであった。無論それは娘の顔をそのなかに浮かべていたからである。窓の鏡に映る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、女の顔も透明のように感じられた。しかし本当に透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのように錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。」3

 文学という浮遊体は現代においてもなお新しい作品を生み出し、この15年間は多和田葉子の作品に注目してきました。ボーダーレスの二十一世紀の芸術を最も挑発的な形の探究において、日本とドイツ、という稀な組み合わせを基に、同時進行型のメタ文学、言語、創造、思想の実験に結びつけてゆく姿勢には、突出した意欲があります。英米文化をフィルターに世界を魅惑している村上春樹の作品とは対照的でありながら、二十一世紀前半の日本文学の力を全面的に発揮しているのではないかと思われます。

 日本発信のワールドリテラチュアー、つまり諸翻訳を通して読まれる日本文学は、方法は異なっていても、世界レヴェルの正当性を勝ち取りつつあるのではないでしょうか。日本では日本語文学を創作する外国出身の作家たちも参加するこの新しい文学の風景は、二十世紀の近代文学の成立に続く、新しいステップで、今後の行方が期待されます。と同時に、近代の古典の再認識、例えば、再訳などによる再生、再読にも繋がるのです。

 文学以外のメデイア、映像、画像、現代アートとの関連もこれからの課題でしょう。古川日出男原作(『平家物語犬王の巻』)、松本大洋キャラクター原案、湯浅政明監督の劇場アニメ映画『犬王』(2022年)などは最近の秀作で、時空を自由に表象する最も優れた一つのコラボレーションの模範を構成しているのだと思います。その根源には文章世界のイマジネーション、つまりコンテンツの輪が波のように広がっていく風景を観察することができます。文学の存在を未来に保証するかのように。

  1. 1 Abe Kôbô, Les amis, traduit du japonais par Françoise et Cécile Sakai, Gallimard, collection Lemanteau d’Arlequin, 1987.
  2. 2 Tanizaki Jun.ichirô, Œuvres, 2 vol., Gallimard, collection Pléiade, 1997-1998..
  3. 3 『雪国』、新潮文庫版、10−11ページより。

(パリシテ大学、名誉教授)

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