「距離」に関し、彼の選択はいつも正しい ————村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』から感じたこと
梁一冰(中国)

 数日前、2023年のノーベル文学賞が発表されました。ダークホースであった作家ヨン・フォッセが人々の注目の嵐に投げ込まれ、長く終わりのないと言われる祖国ノルウェーの冬のような時代を過ごすことになりそうです。その過剰な権威ゆえ世界を熱狂の渦に巻き込むノーベル賞。受賞者への賞賛と受賞を逃した人への嘆きは常にセットで、前者よりもはるかに多い非受賞者のうち、村上春樹ほど目立って人々の泣き笑いを誘う人もいないでしょう。彼とノーベル文学賞が人々によって「結び付けられている」のは、毎回予想リストの上位に名前が挙がるも受賞に至らず落胆し、ちょうど彼自身が愛するマラソンと同様、17年走り続けてもなお終わりが見えない旅となっていることが主な理由と思われます。

 ただ、その考えは往々にして私の見方と異なります。私にとってより感慨深いのは、なぜ村上春樹はこれほどまでに注目されるのかということです。ノーベル文学賞はおろか日本文学界を代表する「芥川賞」や「直木賞」も受賞していませんが、作品の売上はもちろん、東西の文化の壁を越え世界中で支持と議論を巻き起こしている点を考慮すると、彼は間違いなく現在の日本の作家の第一人者です。今回私がこの記事を書いて浅識を披露したくなったのはまさにこの疑問からです。いったいなぜなのでしょうか?

 まず言っておきたいことは、本稿は決して『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の文学的研究ではなく、一読者としてそれなりに知っている作家に対する個人的なたわごとであるということです。

 長い間、私は読者として一線を越えずその本分を守り、作品から知る以上には村上春樹を知ろうとすることはせず、彼自身にもさほど興味はありませんでした。しかし、何年か前の『パリ・レヴュー』誌のインタビューで、過去には知ろうとしていなかったこの作家に対し何か神髄に触れたように思い、彼の創作の中の神秘的な部分である「距離」を垣間見た気がしたのです。

 村上春樹は自分では書評や文芸評論を書かない理由について、「僕の仕事は人や世界を観察することであり、評価することではないと思っています。僕はずっといわゆる結論的なものから遠ざかろうとしてきましたし、むしろ世の中のすべてのものを無限の可能性の中に置いておきたいのです。」とさらっと語っています。この本音を聞き、これまで私が読んできた一連の彼の作品が不思議なほどつながり、先ほども述べたように何か神髄に触れたように思えたのです。中でも最も説得力を持ち代表的なのは、インタビューで彼自身も「僕のスタイル――僕の思う自分のスタイル――に非常に近い」と認めている「ハードボイルド・ワンダーランド」でしょう。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、その名の通り、タイトルからも選択されている文体からも、正面から距離を感じさせるもので、またそれこそが村上春樹が望んでいることでしょう。作家による各章横断という章構成も、主人公の一歩一歩結末へ向かうという旅も、すべて「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という二つの大きく異なる世界の中で、繊細かつ厳格なバランスを保っています。そう思うと、私の中での村上春樹の印象が変わり、まるで中国のことわざにある「豚に扮して虎を食う」魔術師に思えたのです。経験豊富で独学で学び、極めて精巧で老練な悟りがあり、創作ないしは人生における各種の距離をよく分かっているなと。

 この距離感は、マクロの視点で見ると、彼自身の生活全体の中にも明確に表れています。生活と創作活動を分けるという点で、村上は自身のタイムスケジュールを長年に渡り堅持しており、執筆は彼の生活のすべてにはなり得ず、あくまでスケジュールの一部にすぎません。マラソンに長けた人が言うところの、細く長く体力を保ってはじめて長距離を走れるということです。また彼と日本とアメリカの関係についてですが、村上春樹は少年のころからポップカルチャー、特にアメリカ文化に強い影響を受けていました。有名になってからはその名声から逃げるように長い間アメリカに住んでもいたため、彼の文学の糧は単に日本文化のみからきているのではなく、中庸の原則を貫いており、それゆえ東西双方の世界の読者のなかでも悠々としていられるのでしょう。

 ミクロの視点では創作面において、「物語の場面と叙述の言葉という二つの要素の間には神秘的なバランスがあり、それが僕が成功しているもう一つの理由かもしれません」とのことで、これまたなんと巧妙なのでしょう。しかし、この距離は永遠の距離を意味するものではなく、逆に、彼はある種めったに見ない「近さ」を巧みに利用し、そのスタイルが鮮明な独特の物語を作り上げているといいます。「距離が近いほど、その効果は真実から遠ざかる。僕のスタイルとはそういうものです。」

 このどこかしこにある抑制と制御こそ村上の才能ではないでしょうか。この気取らない日本の作家は上から目線で学識や文才をひけらかすことなく、最も簡単で正確な言葉だからこその力強い答えをいつも与えてくれるのです。彼の全能感には驚かざるを得ません。リアリズム小説の『ノルウェイの森』は書くやいなやその時代の名作となり、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『ねじまき鳥クロニクル』などのファンタジーもまた人を惹き付けて止まず、これほど異なる題材や作風を兼ね備え、かつそのすべてを成功に導いているというのは、私の知る限り日本文学界で彼の右に出る者はいないでしょう。これには鋭敏で正確な把握力と日々執筆する中で積み上げられる直感に近い経験が必要で、それによりはじめて創作は絶妙なものとなり、常に正しい選択をしていけるのです。

 私のこれまでのキャリアで、村上春樹以外で比較的知っている日本の作家は太宰治です。この無頼派作家と村上春樹の作風は大きく異なっています。太宰治の執筆は典型的な自己破滅型、自分を削りながら登場人物に血肉を与えているため、逝去後幾年たっても、今なお多くの人が太宰治を愛し、彼の文学ひいては彼自身に熱狂しています。これは理性を失うほどの真実がそこにあり、それにより人の心を震わせる力があるからです。一人の天才が勇ましく自身の魂を削りあなたに見せてくれたら、心動かさずにいられるでしょうか。しかし村上春樹は違います。彼は同様の問いに対し、双子の兄弟の比喩を用いて慎重かつ謙虚に「夢の中で夢を見ている者」と答えました。ある種の現実からの逃避、読者にも彼自身にも穏やかで安全かつ無害な空想の白昼夢といったところでしょうか。村上は少年のときには日本固有の文学や絵画、音楽を拒絶していたようですが、作家人生を過ごす中で逆に内向的で自制的という民族の特性を発揮しているというのが何とも感慨深いです。私の日本文学に対する認識の範囲においては、彼と太宰治は作家のスタイルの両極を体現しており、別の意味で『菊と刀』のような存在に思えます。

 彼の文学の尽きることのない魅力は才能から来るものなのか努力から来るものなのかは恐らく誰にも分かりませんし、彼がインタビューの最後で自分について次のようにまとめたように、この二つは同じ源泉から来るものなのかもしれず、それこそが村上春樹なのかもしれません。「僕の石油は地下のとても深いところにあるため僕は掘り続けなければならず、それはとても辛く、また掘り当てるまでに時間もかかります。しかし一旦見つければ、僕は強くなり自信も生まれます。僕の生活はシステマチックで、ずっと掘り続けることはよいことなのです。」

(Founder and General Manager, Shanghai Huanyi Culture Communication co. Ltd)

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