第56回 ヴェネチア・ビエンナーレ 国際美術展 キュレーター ステ-トメント

掌の鍵模型写真2014の写真
《掌の鍵》模型写真
2014
Photo:Sunhi Mang

中野仁詞(神奈川芸術文化財団学芸員)

塩田千春 《掌の鍵》- The Key in the Hand

7世紀、11世紀の東ローマ帝国との2度の大きな駆け引きや、13世紀の第4回十字軍遠征とともに帝国の首都コンスタンティノープルを攻略し、莫大な富と強大な権力を手中におさめるという経験を経て、この地の人はなおも勇んで帆船に乗り世界各地へ赴く。そして、他国との交易によってもたらされる繁栄をほしいままにする。栄華を極めた都市、ヴェネチアには数え切れない人々の希望と絶望が孕まれており、この都市が一息に飲み込んだ人々の思いは、今なお島内で蠕動している。こうしたヴェネチアの歴史や、祝祭的な場所性とともに世界的に確固たる地位を維持している国際美術展、ヴェネチア・ビエンナーレ。開催時の政治状況や社会的出来事を扱った作品や、多様化した手法を用いた大規模なインスタレーションによる競争は、この国際展において昨今特に目新しいものではなく、それだけではもはや驚くに値しない。

展示空間に糸を張り巡らせる大規模なインスタレーションや、ドレス、ベッド、靴や旅行鞄など、日常生活のなかで人が使用した痕跡と記憶を内包するマテリアルを用い、作品を制作するベルリン在住の塩田千春。塩田もまた、近年のヴェネチア・ビエンナーレの趨勢に沿った大規模なインスタレーションを得意とする。しかし、彼女のインスタレーションは、使用する様々なマテリアルの選定のありようと空間の構成において、卓越した美しさを保ち、新鮮さ、力強さを失うことなく、われわれの心と身体に静かに浸透して行く。塩田の作品は、言葉や文化的歴史的背景、政治・社会状況の違いを越えて、世界各国の鑑賞者に感動を与え、これまで日本、欧米、中東、オセアニア、そしてアジア諸国など、約200の展覧会で紹介され、高い評価を得ている。

このヴェネチア・ビエンナーレという国際的な舞台に乗る日本館から、私はわれわれの心に素直にストレートに語りかけ、訴えかけることに賭ける塩田千春の新作インスタレーション《掌の鍵》を発信する。

塩田千春は、近年自らが経験した大切な人の死に導かれて、「死」と「生」という、普遍的でありながらも個々人が個別的に経験するしかないわれわれの宿命から目を背けず、それらを浄化、昇華して美術という共通言語に置き換え作品化する。塩田の作品から時にわれわれは、「死」や不確かなものの存在が予想される「未知の世界」に必ず潜んでいる「闇」を感じる。東日本大震災からまもない現在、ヴェネチア・ビエンナーレのような大規模な国際展に世界各地から訪れる鑑賞者は、日本館の展示に、物理的にも精神的にも深い「傷」を負った日本の姿を重ね合わせ、作品の「闇」の部分に過剰に反応してしまうということもありうるだろう。しかし、塩田の作品は、その「闇」の奥底に、希望、精神的な明るさともいえる力強い「光」を宿している。その光は、日本のみならず今日の不安定な世界情勢のなかで人々が感じる多くの不安をも包み込むものとなるだろう。

今回日本館に展示する《掌の鍵》は、建物2階にあたる展示室と1階の野外ピロティを使用し、2つの空間を統合したインスタレーションである。展示室に入ると、われわれは空間を埋め尽くす赤い糸を目にすることになる。天井から垂れる赤い糸の先には鍵が結ばれている。鍵は、日常生活のなかで家屋、財産、家庭内の秘密など大切なものを守り、人間の手の温もりに包まれて使用される。そして、その鍵を使用する人々の掌の温もりに日々触れることで、鍵にはわれわれのなかにある幾多の記憶が幾重にも積み重なってゆく。そしてある時、記憶を蓄えた鍵は、大切なものを託せる信頼のおける人へと托されていく。塩田は鍵を、まさに真心を伝達する媒介と捉えてこの作品に取り入れる。さらに、天井から床にかけて吊り下げられた夥しい糸と鍵のただなかに、2艘の舟が置かれる。舟は、天から注ぐ数多の鍵=記憶の雨を受け止める両手を象徴する。2艘の舟は、手を取り合い助け合いながら、記憶の大海のなかを、記憶を拾い上げながら進んで行く。そして、ピロティには、大型のボックスが設置され、その壁面には、鍵を乗せた子どもの掌の写真3点を展示するとともに、生まれる前と生まれた直後の記憶を語る幼児の映像を4つモニターで上映する。子どもが語る、誕生時の記憶。積み重なった記憶を内在する鍵。展示室とピロティで、われわれは2つの位相の記憶を体感し、展示に呼びかけられ、自らに内在する記憶を拾い上げ、記憶を紡ぎ、記憶を自分のなかにとどめ、そしてそれを他者へと繋いで行くことになるだろう。

展示空間に設置された作品になかに身体を置くことで、直接的に体感するインスタレーションという表現の強みを、塩田千春は「瞬間の哲学」と呼ぶ。彼女はインスタレーションを「瞬時に鑑賞者の心に何かを訴え、われわれが生きていることはどういうことなのかを伝えるもの」であると語る。

日本館に展示する塩田千春の新作インスタレーション《掌の鍵》。空間を埋め尽くす赤い糸と鍵、そして2艘の舟を精緻に関係させたこの空間は、そこに一歩足を踏み入れた途端、われわれを塩田の世界に捉えることだろう。この「瞬間の哲学」を具現した作品が、言語、国籍、文化的政治的背景を超越して、多くの人々の心を揺さぶることを期待する。

[お問い合わせ]

国際交流基金(ジャパンファウンデーション)
文化事業部 事業第2チーム
担当:大平、杉江
電話: 03-5369-6063 ファックス: 03-5369-6038
Eメール:venezia@jpf.go.jp
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