平成13年度 国際交流基金賞/奨励賞 授賞式 コスタ・バラバノフ氏 挨拶

藤井理事長、皆様、

コスタ・バラバノフ氏写真1

 バルカン諸国で戦火が荒れ狂ったこの10年間、特にここ6ヶ月間に私の小さな国マケドニア共和国でこの戦争の炎が拡大していく中で、この地域の人々の生活も、私個人の人生も、悪い意味で非常に大きな変化を体験致しました。毎日勃発する事件に翻弄され、暴力の浸透に重圧を感じながら、私は自分と家族の生活が、少しずつ、不安とトラウマに満ちた悪夢へと転じていくのを感じておりました。7才と8才になる私の孫達ですら、朝、目を覚ますと真っ先に、爆弾はまだ炸裂していたか、そして次は我々の家が狙われる番ではないのかと尋ねます。

 そんな中で、ウイーンの日本国大使である伊集院明夫大使から電話があり、私が国際交流基金の栄誉ある「奨励賞」の今年の受賞者の一人に決定したとの知らせを受けたときには、それが全く非現実的なことに思われました。そのような名誉を受ける可能性があることは全く事前に知らされておりませんでしたので、非常な驚きに打たれ、それが現実に起きたことであることを理解するまでに数日を要しました。

 そこで、私は、自分が真実この高貴な受賞に値するということを自身に納得させるため、自分がこれまでに母国で、日本、特に日本の文化と芸術を紹介するために何をしてきたか、また、分不相応な栄誉を受けようとしているのではないかとの疑念を払拭しながら、この賞を純粋な気持ちと曇りのない良心をもって受けることができるかどうかを思い出そうと試みました。

 思い起こしてみますと、1967年、私が初めて日本を訪問したのは純粋な文化的ミッションのためでした。その時、私は、当時のセルビア・モンテネグロを構成する一つの共和国であったマケドニアが世界に提供できる最高の水準の中世イコンを集めた展示会の総監督に任命されました。この展示会は、マケドニアの教会や修道院に保存されている最も価値あるイコン芸術を含むもので、東京と京都で展示される以前に国外に出たのは、パリのルーブル美術館のみでした。展示会の主なスポンサーは朝日新聞でした。この展示会は評判が高く、数十万人もの人々が会場を訪れました。

 このとき私は東京と京都に数ヶ月滞在し、ほとんどの時間を美術館と博物館で過ごしました。そして多くの日本人と知り合い、当時マケドニアでは殆ど知られていなかった日本の文化、芸術、慣習を知るようになりました。私は自分が目にし体験したものに深い感銘を受け、これらをマケドニアで紹介するための確固たる歩みを開始しました。私は生まれて初めてよいカメラを購入し、小型の映像記録カメラをもレンタルして、マケドニアの人々が感心を抱くであろうと思われる全てを記録しました。朝日新聞文化部長は、私の関心が真剣なものであることに気づくと、私ができる限り多くのものを見たり学んだりできるよう便宜を図って支援してくださいました。この数ヶ月の間に、私は3,500枚以上のスライドと、十数本のドキュメンタリー短編映画を制作し、マケドニアに持ち帰りました。そして、帰国するとすぐさま、私は日本について、その文化、芸術、科学と技術について様々な方法でマケドニアの人々に伝えることを始めました。

コスタ・バラバノフ氏写真2

 私の主たる関心は、天命に従い、文化と芸術でしたので、可能性と関心があるところには、いつでもどこにでも足を運んで講演を行ないました。よく芸術学校や大学に招かれました。当時のマケドニアでは、まだ新しいメディアであったテレビが普及してくると、私はテレビ番組で自分のとったアマチュアのドキュメンタリー映画を上映し、同時に自分がコメントするという機会を与えられました。私が過去34年間の間に行なった講演会や受けたインタビューの数を正確に言うことは出来ませんが、これが、参加者、聴衆、読者にかなりのインパクトを与え、大きな関心を呼び起こしたことは確かです。

 今では一般の人々がかつてないほど沢山日本のことを知っています。この間、多くのマケドニア人、いろいろな分野の専門家が日本を訪れました。日本政府から若者の教育や専門技術取得のために提供される奨学金・助成金も増えて参りました。

彼らは帰国すると、日本について熱く語りました。こうして、わずか人口200万人の小国にすぎないマケドニアにおいて日本を真の友人と思う人々が急速に増えていったのです。

 旧セルビア・モンテネグロが解体する数年前、ベオグラードでセルビア・モンテネグロ・日本友好協力協会が結成されたことを耳にしました。その後間もなく、我々はそのような団体をスコピエに設立することを決意しました。日本の文化と芸術をよりよく知る基盤と条件が整うと考えたからです。我々は協会を1990年に設立し、設立に参加した人々は、私を適任者と考え会長に選出しました。設立当初は、建物など活動の前提となるものは何もありませんでしたが、メンバーの熱意により、初年度の終わりには登録された会員数は250名に上りました。その後の再任を経て、現在私は、任期4年の会長職の3期目をつとめており、会員数は既に2,000名を超えております。日本大使館の皆様からは、我々の年間計画の実現のためにいつも心からの支援をいただき、大きな成果を挙げております。日本大使館からの支援は、しばしば、我々の活動の成功に決定的な要素となりました。

 毎年、我々の協会は、展示会、特に日本の伝統美術をテーマとする展示会を開催致しました。例えば、浮世絵の複製画の展示会は、マケドニア国内の15都市に巡回しました。国際交流基金からほとんど毎年のように図書の寄贈を受け、我々の図書室は充実し、スコピエ市における日本研究資料室として機能し始め、若者たちが、日本の科学、産業、文化そして芸術を知る場となっております。また、我々は、過去数回、「日本文化週間」を開催し、日本に関する講演会、コンサート、児童合唱団による日本の童謡コンサート、日本の有名な生け花専門家による生け花展を実施しました。また、20以上の小学校で折り紙コースを開催しましたが、その殆どの学校で今では折り紙がカリキュラムの一部として取り入れられています。日本映画上映会や、三味線コンサートは、多くの観衆を魅了し大成功でした。

 そしてまた、日本語教育の必要性にも気づき、マケドニア人と結婚した才能ある日本人講師を得て、日本語講座を始めることに致しました。この講座への関心は高く、毎年150人から200人の参加希望者がありますが、実際にひとつのクラスに参加可能なのは25名のみです。この講座は既に5年間継続しており、今ではスコピエの街角で日本語で話しかけられても不思議はないほどです。

 協会メンバーの増加により、会員相互のコミュニケーションが難しくなってきましたので、我々は、「曙」という季刊誌を刊行することに致しました。自分達で編集した創刊号は、32ページ刷り400部で、やがて、600部から800部を刷るようになりました。最近は1,150部を刷っておりますが、会員数の増加を念頭に1,500部まで増やしたいと思っています。

 これまでの成果のすべては、多くの人々のボランティアと貢献に支えられていることは言うまでもありません。

 最後に、マケドニア国民の間では、日本という国は常に貧しい開発途上国に協力を惜しまない国として高く評価されていることを申し上げたいと思います。このことは、ここ数年、日本がマケドニア共和国におけるトップ・ドナーのひとつであったことで明らかです。

 さて、私はこれらの活動を評価され、7年前、日本の外務省により在スコピエ名誉総領事に任命されましたが、これは私の人生において、またとない名誉なことでありました。

 今回新たに賞を頂いたことで、今まで受けた名誉は益々輝きを増すように思います。皆様に心から感謝致したく存じます。

What We Do事業内容を知る