平成13年度 国際交流基金賞/奨励賞 授賞式 ベルリン・フェスティバル公社 ゲレオン・ジーバニッヒ氏 挨拶

ゲレオン・ジーバニッヒ氏写真1

 理事長そしてご来賓の皆様、今回はちょうど第51回ベルリン・フェスティバルの期間中ということもありますので、ベルリン・フェスティバル公社ヨアキム・ザルトリウス総裁に代わりまして、私が東京にお邪魔することになりました。国際交流基金並びに関係者の皆様におかれましては、このような素晴らしい賞の授与をしてくださいましたことに対して、公社を代表して感謝申し上げたいと思います。

 ベルリン・フェスティバル公社は発足して51年で、ベルリン国際映画祭とほぼ同じ歴史ということになります。多くの日本の方々のおかげで、ベルリンの幅広い関係者に対して日本文化を身近にすることが可能となりました。文化の資産は人類にとって相互理解の最も重要な鍵だと思っております。忍耐と根気をもってこの文化を活用し、相互理解という目的を果たす必要があると考えます。

 遠くにある近きもの、そして近くにある遠きものを認識する。異文化交流にせよ、国際フェスティバルにせよ、目的を達成するためにはこれを実行しなければなりません。この種の意見交換や人的交流、あるいは芸術作品の交流は日本とベルリンの間では非常に早い時期、ベルリン・フェスティバル公社が51年に発足するずっと以前から行なわれてきています。

ゲレオン・ジーバニッヒ氏写真2

 少し歴史をさかのぼってみましょう。日本でもよく知られている福沢諭吉は、19世紀に派遣された初の遣欧使節団の公式メンバーとして渡欧し、ベルリンも訪問しています。彼の1862年6月28日付の日記には、ベルリン・オペラハウスを訪問したと記述されています。日本が非常に早い段階からベルリンにおける芸術と文化に関心をもっていたということの証左でありましょう。

 またベルリンは、19世紀において日本の芸術家にとっての希求の地でもありました。森鴎外の作品が、日本人の芸術的・文芸的な探求の軌跡を物語っています。

 第2次世界大戦後、50年代からベルリンと日本との芸術交流は新たな局面を迎えました。同じ頃発足したベルリン・フェスティバル公社も新たな役割を果たすことになったわけです。私のよき友人である作曲家、石井眞木は当時ベルリンに留学中で、作品をベルリン・フェスティバルで発表しています。

 多くの日本の映画がベルリン国際映画祭でほぼ毎年上映され、日本からたくさんの監督、俳優の方々にもご参加いただきました。また重要な伝統芸能である歌舞伎は、市川猿之助丈のすばらしいグループが3度にわたって公演しています。また能や文楽も公演と公演の間が大変空いているのは残念ではありますが、ベルリン・フェスティバルにおいて上演していただきました。なお以前は自由国民劇場と呼ばれていた劇場は、2001年の1月1日からベルリン・フェスティバル劇場に名称を変更しました。

 また日本を代表的する作家である井上靖、大江健三郎、大岡信、谷川俊太郎といった方々が、ベルリン・フェスティバルのさまざまな重要な文芸イベントに参加しています。また一柳慧、石井眞木、武満徹など多くの作曲家の、100を超える作品がベルリン・フェスティバルの場において公演され、その多くは世界初演や委嘱作品でした。

 日本の伝統音楽のコンサートでは、数多くの聴衆が会場を埋めつくしました。ハイライトは、93年における日本をテーマとした第42回のベルリン・フェスティバルだったと思います。『日本とヨーロッパ-1543年-1929年』展では、20万人の方々をマルティン・グロピウス・バウ館にお迎えすることができました。93年の9月には天皇・皇后両陛下がわざわざ展示館に足を運んでくださるという栄に浴することができました。

 こうした活動に対し、国際交流基金の皆様には多大なるご尽力、ご協力、そしてご支援を賜りました。皆様のご協力がなければ、このような数多くのイベントの実施はできなかったことでありましょう。この機会をお借りしまして、長年にわたる外務省の関係者の方々のご協力にも感謝申し上げたいと思います。また日本のよき友人の皆様、そして特に芸術家の皆様に御礼を申し上げたいと思います。日本、ベルリンのこれらの芸術家は長年にわたる素晴らしい協力に、心から感謝申し上げます。(拍手)

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